追跡 記者のノートからこの部屋で親父が… ~“同居孤独死” 息子の告白~

2021年8月20日事件

東海地方のアパートの1室で、70代の男性が遺体で見つかった。

和室の布団の上で死後半年が経っていた。一見「孤独死」と思える状況。

しかし、和室から扉を隔ててわずか数メートルの部屋には息子が暮らしていたのだった。

親が亡くなっていることに、同居する子どもが気づかない。
“同居孤独死”とも言える信じられないことが起きていた。

親子に何があったのか。私たちは取材を始めた。

(名古屋放送局記者 大石真由)

「同居する親の遺体を放置」が相次ぐ

東海地方では去年の夏、親の遺体を放置したとして、同居する息子や娘が逮捕されたケースがわずか1週間の間で立て続けに3件も起きた。

耳を疑うような事件だったが、NHKの各放送局が去年9月までの1年間に出稿した原稿を検索してみると、同様のケースは25件もあった。

「同居する親の遺体をなぜ放っておけるのか」

強い憤りを感じながら、私は後輩記者と一緒に、事件を1つ1つ調べることにした。

扉を開けてすぐの和室に遺体を…

私が取材を担当した事件の1つが、40代の息子が70代の父親の遺体を放置したとして逮捕された事件だった。

父親の遺体は和室の布団の上で発見された。死後半年が経っていた。放置した理由について息子は警察の調べに対して「めんどくさかった」と供述していたという。

親子が暮らしていたのは東海地方にあるアパート。家賃6万円ほどの3LDKの部屋だった。

洋室を息子が、和室を父親が使っていた。

アパートのオーナーに許可を得て中に入ってみると、それぞれの部屋の近さに驚いた。

父親の和室は息子の洋室の扉を開けて、わずか数メートルだった。

手前左側が父親の和室だった

どんな親子だったのだろうか。私は周辺の家を訪ねた。

親子を知っている人はアパート内にもほとんどいなかったが、近くの喫茶店の女性がかろうじて知っていた。

親子が引っ越してきたのは約8年前。喫茶店には年に数回、父親が訪れていた。

喫茶店の女性
「物静かな人でした。私たちが飼っている犬がいて、『かわいいね』と声をかけてくれたことはあります。タバコが好きな人で、店内に飾っているタバコの「ピース」の缶を見ながら、『懐かしいな』なんて話していました」

いつも、決まった席でコーヒーを頼み、タバコを吸っていた父親。

息子についてはドラッグストアの店長をしていると教えてくれたものの、詳しい話はしたがらなかったという。

「息子さんのことは聞いても、避けるような感じで、あまり言いたがりませんでした。だから、あまり仲良くないのかなと思っていました」

ドラッグストアの店長という社会的立場もある人が、なぜ父親の遺体を半年も放置したのか。

私は直接尋ねるため、勾留施設で面会を試みることにした。

“普通”の男性

去年秋のある日、私は勾留施設の待合室にいた。

死体遺棄の罪で起訴された息子は裁判を待っている状況だった。
事前に面会希望を伝える手紙を出しておいたが応じてくれるだろうか。
仮に応じてくれたとしても、親の遺体と半年も暮らした人物と話がかみ合うのだろうか。不安はあった。

しばらく待つと職員に呼ばれた。そして面会室に案内された。
面会室は横に人が2人並ぶことができるくらいの狭い部屋だ。

少し待つと息子が職員に誘われて部屋に入り軽く会釈をしてから椅子に座った。
面会に応じてくれたことに礼を伝えると、「はい」と答え、ほとんど表情を変えなかった。

面会時間は30分と限られていた。

私は話しやすそうな勾留生活の様子や体調などを尋ね、仕事や趣味、そして今回の事件について矢継ぎ早に尋ねていった。

彼は真面目な印象のいわゆる「普通の人」だった。

「答えにくいだろうか」と躊躇した質問に対しても、いやな顔をせずに答えてくれた。

淡々と話し感情を表に出さない。静かな人だ。

「まさかこんな人が」。

「半年間も親の遺体と暮らしていた人」というイメージが頭から離れなかった私には信じられなかった。

親子にいったい何があったのか、そしてなぜ遺体を放置したのか。

私はそれからおよそ半年にわたって面会や裁判の傍聴、そしてインタビューを重ね、彼の40年余りの人生と父親との関係について取材することになった。

“一般的な暮らしだった”

元店長は父親が30歳の時に生まれた。家族は両親と姉。
父親は営業職や工場勤務など、仕事を転々としてきたという。

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父親は転職が多く引っ越しが絶えなかったが、「普通の一般的な暮らしでした」という。

子どもの頃の話をする彼の声はどこか明るかった。

「父と自分は趣味や考え方がとても似ていたんです」。そう語った。
ともに歴史が好きで、大河ドラマを一緒に見ていたという。

中学2年生のとき、両親は離婚した。
高校生になるとアルバイトを始め、自分1人で過ごす時間を大事にするようになっていたという。

大学進学を機に1人暮らしを始め、卒業後、小売業に就職した。

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仕事は忙しかったが、父親にはたまに電話をしたり、長期休暇のタイミングで帰省したりして、関係を絶やすことはなかったという。

子どものころの両親の離婚がどのような影響を与えたのかはわからない。

ただ、年を重ねるにつれて少しずつ自立し、親から遠ざかっていくのは誰しもあることではないだろうか。ごくありふれた親子関係のようにみえた。

突然の同居開始

大きな転機が訪れたのはおよそ9年前。

もう長い間別々に暮らしていた父親と同居することになったのだ。

父親は退職し、それまで住んでいた社宅を出ることになった。

そのころ父親は脳に持病を抱えていた。姉はこれ以上1人暮らしをさせるのは不安だと言い出した。姉は結婚し子どもがいた。

1人暮らしに慣れていた彼にとって、たとえ親であっても同居することは負担だった。

しかしほかに選択肢はなかった。
父親とある約束を交わし、同居することに同意した。

息子への取材は約半年間に及んだ

息子
「『動けるうちはちゃんと自分のことは自分でやってね』ということは言ったので、それがちゃんとやっていれば別にいいよという形でしたね。選択肢はそれしかないので、断るというのはちょっと無理かなと思って」

同居はするが、それぞれができる限り自立して暮らす。それが約束だった。

父親と息子は互いの距離を縮める努力もしていた。

息子は生活環境が変わった父親のために食事を作り、一緒に食べるようにした。
健康のためにも体を動かした方がいいと考え仕事探しを提案した。

同居していた部屋の台所

「ずっと家にいるとどうしても足腰が悪くなってしまうので、動きなさいという意味で。何でもいいから仕事探しなさいと言って、役所に行くのに付き合っていました」

一方、父親は仕事を終えて帰ってくる息子のために風呂を沸かした。

しかし、この親子の「支え合い」は長くは続かなかった。

すれ違っていく親子

同居開始から数か月後、父親は警備員のアルバイトをするようになった。

一方、息子はドラッグストアに転職。早いときは朝6時半に家を出て、遅いときは深夜の11時ごろに帰宅。

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生活のリズムはあわなくなり、顔を合わせる機会は減っていった。

さらに息子は父親のある態度に疑問を抱くようになった。

「父親はどうしても親の面倒は子供がみるものだという価値観を持っていました。やってもらうのが当然みたいな感じになると、こっちも仕事をしているから、全部は面倒見られないよということで、徐々に僕がやることを少なくしていきました」

「自分のことは自分でやる」。

当初の約束が守られていないと感じ、息子は不満を募らせていった。

父親と顔をあわせるのもおっくうになり、仕事帰りに漫画喫茶に立ち寄るなどして、父親から少しでも遠ざかりたいと思うようになった。

「家にいるときは、ゲームをしたり本を読んだりしていたので、邪魔しないでみたいな。向こうから話しかけられることはありましたが、自分から何か会話するということはあまりなかったです」

きっかけはささいなことだった。

しかし張っていた糸がぷつっと切れるかのように、親子の関係は一気に壊れていった。

父親が暮らしていた和室

父親の死…そして“シャットダウン”

そして、去年2月ごろ。

父親は亡くなった。死因は持病によるものだった。

息子はこれまでにも父親の体調の異変に気づいたことが何度かあった。

父親の部屋から大きな物音が聞こえたため、部屋にかけつけ、救急車を呼んだこともあった。

しかし、今回異変に気づくことはできなかった。ちょうどそのころ、趣味のキャンプで家を不在にしていたという。

「何か倒れる音とかがしていたら、『どうした?』というふうに、多分今までどおり見ていたと思うので、その前兆を自分でキャッチできなかったのが一番の痛恨ですね」

さらに新型コロナウイルスの感染拡大も影響した。

ドラッグストアの店長として働いていたため、生活は去年2月以降の感染拡大で一変した。
毎朝マスクや消毒液を買いに訪れる大勢の客の対応に追われていた。

「マスク、消毒液、体温計。報道で『ない』と言っているにもかかわらず、お客さんは聞いてくるので、その対応を延々としなくてはいけなかった。そのストレスはすごかったですね。今、父親がどういう状況なのかっていうのをほとんど気にしてなかったというのが正直なところです」

ほかのことを気にかける余裕が全くなくなっていたという。

息子が父親の死に気づいたのは、亡くなってから2か月後。
部屋から明らかな腐敗臭を感じた時だった。

しかし、警察に通報したり、家族に連絡をしたりすることはなかった。

「気づいたときには捕まっちゃうと思いました。だったらとりあえずこのままにしておこうと思ってしまいました。姉にも迷惑をかけられない。その時点で誰かに相談するという選択肢をなくしていました」

父親の和室の前に芳香剤を置いたり、空気清浄機をかけたりしながら暮らすようになった。

さらに、父親が亡くなったことを思い出さないようにするため、仕事が早く終わったとしても、夜11時以降に寝るためだけに家に帰るようになった。

休日はキャンプに行き、家にいる時間を短くした。

「もう亡くなってしまったんだと思ったら、どうしたらいいか全くわからなかった。

結果として、仕事と趣味に没頭して、父親が亡くなったことは考えないようにして生活していました」

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自分の父親がすぐそばの部屋で亡くなっているとわかっていながら、ふだんどおりの生活ができるものなのか。私は率直な疑問をぶつけた。

「そのことに関しては、多分理解はされないだろうなと思うんですけど、考えないようにしていたとしか言えないです。全部割り切ってしまって何も考えない。“シャットダウン”する」

執行猶予が付いた有罪判決を受けた

父親の遺体と暮らす生活が終わったのは、亡くなってから半年後。

親戚から「父親と連絡がとれない」と電話がかかってきた。
もう隠しきれないと追い詰められた息子は自殺を決意したという。

姉に「ごめんなさい」とメッセージを残して車で移動するさなか、姉から通報を受けた警察に逮捕された。

取材の最後、こう話した。

「お互いにもうちょっと努力すべきだった。もうちょっと関わりを強くするべきだったと思います。葬儀や納骨をして人生を終わらせてあげればよかった。それを怠ったのは申し訳なかった」

作家・重松清さんが語る“背景”とは

父親が亡くなっていることに気づかず、気づいたあとも放置し続けた息子の告白。

家族をテーマにした小説を多く執筆してきた作家・重松清さんは、次のように読み解く。

重松清さん

重松さん
「まず、なぜ亡くなっていることに気づかなかったか。
これは生活時間帯がずれていたことが大きいと思います。

例えば、僕が母親と一緒に生活するとなったら、自分には自分の生活のリズムがあるし、おふくろにはおふくろの生活リズムもある。

そうなると『自分の生活のリズムにあわせてくれ』とはなかなか言いづらいんじゃないかと思います。1つ屋根の下だけど2つの生活があって、なかなか交じり合わない」

さらに、気づいたあとも放置し続けたことについて、決してひとごとではないと指摘する。

「僕は息子が取材のときに話していた、『割り切った』、『シャットダウンした』という言い方が耳から離れなかった。

似たような思いは僕にもどこかあると思うんです。忙しさのなかで『この話はもう考えずにおきたい』というようなこと。新型コロナの一番パニックになっているときのドラッグストアの店長として消耗しきって、"シャットダウン"がたくさんあって、一番大事なものまでシャットダウンしてしまった感じがする。

いろんなもののタイミングが最悪の重なり方をしてしまった事件だけど、1つ1つは僕たちにも単発で起こりうるだろうし、僕たちも持っているものかもしれない」

各地で相次ぐ“同居孤独死”。そして息子の告白…。いま、家族に何が起きているのだろうか。

「1人暮らしは本当にわかりやすく1人ですね。

しかし2人暮らしでも、もしかしたら1人暮らしが2つ、たまたま1つ屋根の下にいるだけかもしれない。

家族が一緒にいるんだから大丈夫だろうという丸投げ感・安心感は、そこにすがり過ぎてしまうと、同じような同居孤独死は今後も起こりうるんじゃないか」

取材後記

取材前、私は「半年間遺体と暮らしていた人」とある種の先入観を持っていた。

しかし、実際に会い、その人生を一緒に振り返るにつれ、部分的にではあるものの共感している自分がいた。

息子は真面目で仕事に対する責任感の強い人だった。
持病の父親との同居を受け入れる優しさもあった。

ただ、自分が追い込まれたとき、職場、家族、地域の誰にも相談することはできなかった。
それはひとことで言えば「つながっているようで、つながっていない」人間関係だった。

聞きながら「自分はどれだけの人とつながれているのだろうか」と思わずにはいられなかった。

予期しなかった同居のはじまり、互いの仕事のすれ違い、相手へのささいな不満、仕事のストレス。
彼に起きた出来事の1つ1つは、誰にでも起こりうることだ。

取材した後も、親の死に気づかない、そして気づいていても放置し、子どもが逮捕される事件は起き続けている。背景にはそれぞれ異なる複数の事情がある。どれもいまの社会問題につながっているように感じる。

取材した1人、同居する母親の死に気づけなかった別の男性は「孤独死よりひどいことをしてしまった」と深い後悔のことばを口にしていた。

どうすれば“同居孤独死”を防ぐことができるのか。
その答えを探すため取材を続けている。

  • 名古屋放送局記者 大石真由 2017年入局
    富山局を経て
    2020年から名古屋局で愛知県警担当

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