追跡 記者のノートからひとり、都会のバス停で~彼女の死が問いかけるもの

2021年4月30日事件

その1枚の写真に、私たちは衝撃を受けた。

去年11月、都内のバス停で路上生活者の60代の女性が男に突然殴られ、死亡した事件。
カメラに向かって微笑みかける写真の女性が、亡くなったその人だった。

撮影されたのは1970年代。
当時は劇団に所属し、希望に満ちた日々を過ごしていたという。

しかし、亡くなった時の所持金は、わずか8円だった。

彼女にいったい何があったのか。バス停にたどり着くまでの人生を追った。

(社会部記者 徳田隼一・岡崎瑶)

早朝のバス停で

「女性が路上で倒れているのが見つかった」

去年11月16日の午前11時ごろ。先輩記者から連絡を受けた私(徳田)は、急いで東京・渋谷区の現場へ向かった。

京王線の笹塚駅から北東に400メートル余り離れた、幹線道路沿いのバス停。
周囲にはマンションや店舗などが建ち並んでいる。

現場のバス停

ここで、早朝に60代くらいの女性が倒れていたという。

女性は搬送先の病院で亡くなっていた。

警視庁によると、現場近くの防犯カメラには、その日の早朝、男がベンチに座っている女性に近づき、突然、何かが入った袋で頭を殴りつける様子が写っていたという。

女性はその場に倒れ込んだが、男はそのまま現場から立ち去っていた。

私は、すぐに近所の住民などに聞き込みを始めた。目撃情報や関係者の話から事件の手がかりを探る「地取り」(じどり)と呼ばれる取材だ。

同僚の記者と手分けして、現場から数百メートルの範囲にある住宅や店舗を1軒1軒訪ね歩いた結果、生前の女性の姿を見たことがあるという住民2人に話を聞くことができた。

2人によると、女性が目撃されていたのは深夜から早朝にかけて。現場となったバス停のベンチに座り、キャリーケースを横に置いて体を休めていたという。そして日中になると、どこかへいなくなっていた。

近所の飲食店の従業員

飲食店の従業員
「午前1時ごろ、バス停に座って食事している姿をよく見かけました。こぎれいにしていて物静かな雰囲気の人でした。人様に迷惑をかけない時間帯にここにいるのかな、と思っていた」

近所に住む女性
「最終バスが出た後の深夜になるとここへやってきて、座った状態で寝ていました。近くで歯磨きをしている姿も見たことがあります。このバス停はふだんから利用者が少ないので、静かに寝られたのかもしれません」

なぜか、毎日のように現場のバス停を訪れていた女性。

しかし、彼女が誰なのか、どこから来たのか、知っている人はいなかった。

「邪魔だった」

警視庁が身元の確認を進めた結果、女性は広島県出身の大林三佐子さん(当時64)と判明した。去年の春頃から路上生活をしていたとみられるという。

亡くなった時の所持金は、わずか8円だった。

そして事件から5日後。近所に住む46歳の男が交番に出頭し、傷害致死の疑いで逮捕された。殴った袋には、石とペットボトルが入っていたことが分かった。

実家の酒店を手伝い、ふだんから深夜に周辺を散歩していたという男。
当時、調べに対し「邪魔だった。痛い思いをさせればいなくなると思った」と供述していたという。

誰にも迷惑をかけず、ひっそりと夜を明かしていたはずの大林さん。なぜ、このような目に遭わなければならなかったのだろうか。

見えない“距離感”

後日、大林さんが過ごした深夜の時間帯に、バス停を訪ねてみた。夜でも少し、明かりがついていた。

ベンチは、奥行き20センチ、幅90センチほど。遠目では気がつかないほどの小ささだった。中央にはひじ掛けがあり、寝そべることもできない。

実際に座ってみると、固い上に奥行きがなく、落ち着かない。小さな屋根は付いているものの、とてもひと晩を過ごせるような場所には思えなかった。
11月とはいえ、1時間もすると寒さで体の芯まで冷えてきた。

深夜にあらためて現場を通りかかった人に話を聞いてみると、実は近くに暮らす住民の多くが、大林さんの存在を認識していたことが分かった。

この中には、大林さんの姿を写真に収めたことがあるという男性もいた。バス停で何度か見かけ、心配になって友人に知らせようとスマートフォンで撮影したという。

ベンチに座る大林さん(近所の男性が撮影)

10メートルほど手前から撮影されたその写真。午前3時前、バス停のベンチに1人、身を潜めるように腰掛ける大林さんが写っていた。亡くなる1か月ほど前の姿だ。
離れているため、表情などをうかがい知ることはできない。

男性は、写真は撮影したものの、大林さんに直接話しかけたことはなかったという。

写真を撮影した男性
「女性がこんなところで寝ていると危ないので、声をかけたいと何度も思っていました。でも、わざわざ声をかけることはできなかった。そのあたりに関してはみんなそうなんじゃないか」

そう話すのは、この男性だけではなかった。気になっていたものの、本人が人目を避けるような様子だったこともあり、声をかけられなかったという人がほとんどだった。

近所の大学生
「ずっと下を向いていたので、表情も分からない状態でした。どうすることもできないし、ちょっとした優しさが助けになるのかどうか分からなかったので、声はかけませんでした」

もし私が近所の住民だったとしても、同じように声をかける勇気はなかったかもしれない。

ただ、幹線道路沿いの、明かりがともるバス停であえて寝泊まりしていた大林さんは、本当に人目を避けたかったのだろうか。

社会との見えない“距離感”のようなものと、今回の事件とは必ずしも無関係ではないように思えた。

「本当に必死だった」

大林さんは、亡くなるまでの間どのように生活していたのか。取材を進めると、去年の始めまで、首都圏各地のスーパーで試食販売員として働いていたことが分かった。

名前だけを頼りにスーパーなどを訪ね歩いた結果、大林さんと一緒に働いたことがあるという女性に会うことができた。

上野弘子さん(仮名)

知人の上野弘子さん(仮名)。
事件が起きた当時、報道で大林さんが路上生活者として扱われることに複雑な思いを抱いていた。本当の彼女を知ってほしいと、取材に応じてくれたのだった。

大林さんが働いていたスーパー

2人が初めて会ったのはおよそ10年前。

大林さんは、その頃から試食販売の仕事をしていた。人と話をすることが大好きで、接客を楽しんでいたという。その腕を買われて、食品メーカー側から指名が入ったこともあるそうだ。

大林さんの知人・上野さん
「元気で若々しい人でした。昔から販売の仕事しかしていないと話していて、試食販売の仕事をしている時は生き生きとしていましたよ。特に小さなお子様が来るとうれしそうで。ケーキやパンなどを扱っていたのですが、会話をしながら渡すのが好きだったようです」

上野さんは、大林さんがかつて東京・杉並区のアパートで暮らしていたことも教えてくれた。

ただ、仕事が短期契約で不安定だったこともあり、4年ほど前に「家賃を滞納して部屋から出ざるを得なくなった」と周囲に話していたという。

その頃から、大林さんは職場にキャリーケースを持ち込むようになった。当時は、ネットカフェなどで寝泊まりしていると聞いていたという。

しかし、大林さんが誰かに弱音を吐いたり、人を頼ったりすることはなかった。

住まいを失ってからは、仕事を増やしてもらうよう派遣元の会社と交渉している姿を、上野さんは何度も見かけていた。

誰にも頼らず、自分の力でなんとか生活を立て直そうという強い意志を感じたと、当時を振り返る。

上野さん
「スーパーの休憩時間にほかの人が弁当を食べている間、大林さんは裏口のあたりで1人、しゃがみこんでいました。声をかけても『私はここに座っているだけでいいんです、うふふ』という感じで。今思えば、弁当を買うお金がなかったのだと思います。
 
自動販売機でジュースなどを買っている姿も見たことがなく、節約してなんとかお金を貯めようとしていたのかもしれません」

しかし、そんな大林さんに追い打ちをかけるように、去年、新型コロナウイルスの感染が拡大した。客と対面で行う試食販売の仕事は激減。春以降は、ほとんど仕事に就けていなかったとみられている。

女性が最後に大林さんと会ったのは、去年1月ごろ。場所は東京・大田区のスーパーだった。この時、大林さんは乳酸菌飲料の試食販売を担当したが、その時の光景が忘れられないという。

上野さん
「小さな男の子が父親と一緒にやってきたんです。男の子は、大林さんが渡す飲み物を何度もおかわりし、試食台から離れようとしませんでした。父親が『いいかげんにしなさい』と男の子を引き離しましたが、男の子はずっと手を振っていました。

大林さんは、その子の姿が見えなくなるまで笑顔で手を振り返していたんです」

「本当に必死だったと思います。1日1日必死で、60歳をすぎた大林さんが東京、神奈川、千葉、埼玉と毎日違う所に行って7時間半とか8時間半、ずっと立ってお仕事をなさっていたんです。それがとても切ない」

身元が確認された当時、警視庁の発表では「職業不詳」とされた大林さん。

懸命に働いていた証になればと、女性は事件の後バス停を訪れ、大林さんが試食販売でよく扱っていた乳酸菌飲料と菓子パンを供えた。

もっと声をかけてあげるべきだったのではないかと、今も自問自答しているという。

届かなくなったクリスマスカード

厳しい生活でも決して弱音を吐かなかったという大林さんだが、頼れる先はなかったのだろうか。

かつて住んでいた自治体や都内の支援団体に問い合わせてみたが、支援を受けたり、相談に訪れたりした記録は残っていなかった。

事件から4か月がたった頃、埼玉県に2つ違いの弟が暮らしていることが分かった。

彼女がいったいどんな人生を歩んできたのか、その手がかりを求めて会いにいくことにした。

弟の健二さん(仮名・手前側)

取材に応じてくれたのは、弟の健二さん(仮名)。

事件が起きるまで、大林さんが路上生活をしていたことは知らなかったという。連絡は4年ほど前に途絶えていた。

大林さんの弟・健二さん
「寒い時期に、あのバス停で我慢して夜を明かしていたと思うとふびんでなりません。そこまで追い詰められながら、なぜ助けを求めてくれなかったのでしょうか」

健二さんによると、大林さんは出身地、広島県の短期大学を卒業後、20代半ばまで地元で暮らしていた。当時はアナウンサーを目指していて、教室に通うかたわら、結婚式場で3年ほど司会を務めていたという。

自立心が強く、「自分で会社を作りたい」とも話していたそうだ。
唯一手元に残っているという、24歳の頃の大林さんの写真を見せてもらった。

アメリカに住む叔父のもとを訪ねた際に撮影されたという写真。

赤いドレスと晴れやかな表情が印象的だ。40年前とはいえ、バス停で夜を明かしていたイメージとはかけ離れていて、正直、驚きを隠せなかった。

健二さん
「とにかく活発で前向きな性格。誰に対しても笑顔で接していましたし、いろいろなことに興味を持って動いていました。

内向的な自分とは正反対の、強い女性でしたね。当時は夢に向かって突っ走っていた印象があります」

大林さんはその後、27歳で結婚し、夫とともに上京。健二さんにとっては、順風満帆の人生を送っているかのように見えた。

しかし、結婚してまもなく、先に上京していた健二さんに「自宅に泊めてほしい」という連絡が来る。夫から暴力を受けたと説明していたという。

5日間ほど寝泊まりした後、大林さんはそのまま広島の実家へ帰り、翌年離婚。
わずか1年余りの結婚生活だった。

ほどなくして、大林さんは再び上京する。30代以降はコンピューター関連の仕事などを転々とし、かつての夢とは異なる人生を歩んだ。再婚はせず、ずっと1人で暮らしていたという。

健二さん
「離婚を経験したことで、結婚に対する意識が大きく変わったのではないでしょうか。

夢を追っている自分と夢破れた自分があって、こういう仕事をしていこうだとか、自分に合った仕事を見つけていこうだとか、そんなことを常に考えていたのだと思います」

40歳を過ぎた頃から、2人が直接会う機会はほとんどなくなった。

姉がどんな仕事をし、どんな生活をしているのか、健二さんは把握できなくなったという。

たまに電話をしても「うまくやっている」などと答えるだけで、詳しく語ろうとはしなかったそうだ。

やがて電話にも出なくなり、疎遠になっていった姉と弟。そんな中、2人を唯一つないでいたのが、毎年12月に大林さんから届くクリスマスカードだった。

「お元気ですか?良いお正月をお迎え下さい Misako」

メッセージの横には、いつもかわいらしいイラストが添えられていた。

再び上京して以降は、一度も広島に帰ることがなかったという大林さん。健二さんと実家にいた母親にとって、この短いメッセージだけが、無事で暮らしていることを知る手段となっていた。

しかし、こうした便りも4年前の2017年を最後に届かなくなった。大林さんは、この頃には住まいを失っていたとみられている。

当時の状況を知らなかった健二さんは「強い姉のことだから心配ない」と、便りが途絶えたことを深刻には受け止めていなかったという。

そして時が過ぎ、去年11月。

久々の再会を果たした場所は、警察署の霊安室だった。

健二さん
「眠っているようでした。ぱっと見て姉だと思った瞬間に、今までのことが頭の中で駆け巡りましたね。もっと自分から近づいてあげればよかったって」

「新型コロナウイルスの影響で厳しい世の中になり、姉も多かれ少なかれ、その渦に巻き込まれてしまったのかなと感じています。

でも、とにかく強かったですから。1人で頑張ろうとしてしまうから、生活の支援を受けることも、やはりプライドが許さなかったのかな。自分を曲げずに、次があるぞと。なんとか、なんとかするぞという気持ちだったんだと思います」

「それに、人に迷惑をかけたくないと。だから、バスが運行する時間には姿を消して、深夜になるとまたそこで休むということを続けていたのだと思います。

最後まで強い姉でしたが、こんな時くらい身内を頼ってほしかった。疎遠にしていたことを後悔しています」

故郷・広島で見たもの

大林さんの遺骨は健二さんが引き取り、後日、広島市の寺にある納骨堂におさめられた。

「夢に向かって突っ走っていた」20代までを過ごしたふるさと。

母親は施設に入所し、実家はすでになくなっているという。

彼女が生きた証は、もう残されていないのだろうか。

取材を続けていると、事件のことを知った大林さんの同級生たちが地元で連絡を取り合っていたことが分かった。私たちはさっそく、広島へと向かった。

大林さんの同級生

「『みさこ』の『み』を『美』ではなく『三』と書く子はあまりいないので、『ミッキーだ、ミッキーだ』っていうことになって」

取材に応じてくれたのは、中学から短大までをともに過ごした4人の女性。
大林さんは、同級生の間ではミッキーと呼ばれ、慕われていた。

上京した後、しばらくして連絡が途絶えたため、どうしているのかずっと気にかけていたという。同級生どうしで集まって手紙を書いたこともあったが、返事は来なかった。

そんな中、ニュースで名前が出たのを見て驚き、連絡を取り合って情報を集めていたのだった。

同級生の廣重須美枝さん
「なぜ路上で寝なければいけないような状況になったんだろうって。まずはそこですよね。『どうしてなんだろう』『なぜなんだろう』っていう疑問しかわかなかった。
 
みんなに電話しても、東京へ行った後からミッキーの消息が分からなくて、どういう人生を送ってきたかがまるっきり見えなかったので」

かつては、お互いの自宅を行き来するほど仲が良かった大林さんたち。

高校の夏休みには一緒に東京旅行へ出かけ、渋谷のファッションビルで買い物をするなど、絵に描いたような青春時代を過ごしていたそうだ。

高校時代の大林さん

同級生の上島依枝さん
「明るくて、お茶目で、おしゃれで。一緒によく買い物に行ったり、遊んだりしていました。高校の頃は『声優になりたい』と言っていました。声もかわいらしかったし、表現することが好きだったんでしょうね」

そんな当時の大林さんの姿からは想像もできない最期に、同級生たちはみなショックを受けていた。

4月11日、大林さんが眠る寺に、同級生と、高校時代の担任教諭の5人が集まった。

遺骨の引き取り手がいないのではないかと心配した同級生たちは、路上生活者の支援団体に問い合わせるなどして、行方を捜していた。

そして事件から4か月が過ぎた頃、弟の健二さんがこの寺に遺骨を納めていたことを知り、駆けつけたのだという。

30数年ぶりの再会。

「おかえり」

5人はそう声をかけながら納骨堂に花を手向け、静かに手を合わせた。

同級生の西谷英子さん
「絶対に困っていたはずなのに、声をあげられなかったのかな、言えなかったのかなって思います。もしそばにいたら、ほんと、すぐ抱きしめてあげたかった。『ずいぶん後から知ってごめんね』って」

「生きた証」を探して

ふるさとには、同級生のほかにも大林さんのことを思っていた人がいた。
地元の劇団の代表を務める、光藤博明さんだ。

光藤博明さん

大林さんは短大を卒業後、光藤さんの劇団にも所属し、ミュージカルや舞台に出演していた。
事件のニュースを見た光藤さんは、いつも笑顔で稽古に取り組んでいた当時の姿を鮮明に思い出したという。

光藤博明さん
「すごく明るくて、キラキラした笑顔が印象的でした。それでいて芯の強い部分もある。決して主役ではなかったけれども、自分の領域をちゃんと持っていたし、裏方の仕事もしっかりこなしていました。

その彼女が、40年を経てあのような形で亡くなったことはとにかく衝撃でした」

大林さんが舞台に立った証を残せないかと考えた光藤さんは、歴代の劇団員たちの資料が眠るアトリエへ向かった。

そこで探し出したのが、彼女の生き生きとした瞬間を捉えた写真だった。

劇団に所属していた頃の大林さん

光藤さん
「すごいなと思いました、見つけた時はね。本当にいい表情をしているなと。彼女なりに精一杯、演劇や舞台というものを楽しんだのだと思います。

夢とか元気とか自由とか、ここで表現したことを人生に反映してもらえたらいいなとずっと思っていたので、今回の事件は本当に胸が痛みます。見つかった写真の数々は、彼女がここに存在していた証です」

都会の片隅にあるバス停でひとり、命を落とした大林さん。
ふるさとを訪れて初めて、彼女を思う仲間がいたことを知り、少し救われた気がした。

彼女の死が問いかけるもの

その後の取材で、亡くなった当時の大林さんの所持品が判明した。

持っていたのは、着替えが入ったキャリーケースとウエストポーチ。
ウエストポーチの中には、5円玉1枚と1円玉3枚のほか、表に樹木の絵が描かれたメッセージカードと、携帯電話が入っていた。

カードに書かれていたのは、弟の健二さんや、母親がいる施設の連絡先だった。
携帯電話は、亡くなる8か月前の去年3月で契約が切れていたという。

大林さんは、最後まで周囲に助けを求めることはなかった。

しかし、明かりがともるバス停で、本当は何を思っていたのだろうか。

新型コロナウイルスの感染拡大が続く中、仕事や住まいを失う人たちが増えている。

閉塞感が漂い、心の余裕がなくなった今の時代でも、身近な人や他人に思いを寄せることができるのか。
大林さんの死は、社会にそう問いかけているように感じた。

  • 社会部記者 徳田隼一 2014年入局
    福井局・山口局を経て
    2020年から警視庁担当
    趣味はプラモデル製作

  • 社会部 記者 岡崎瑶 2014年入局
    釧路局・札幌局を経て
    2020年から警視庁担当
    趣味は登山と繁華街巡り

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