【対談・前編】「共に作るラジオ」の先へ 
~孤立に抗う社会を作るには~

これまでのひきこもりに関する番組作りは本当に当事者や家族の役に立っているのか-。そんな疑問を抱えていた取材チームがひきこもりの人々と意見交換を繰り返し、昨年5月に始まったのが「みんなでひきこもりラジオ」。“当事者と共に作る”というコンセプトの放送には「初めてひとりじゃないと思えた」「人と会うのが怖い、けど話をしたい」など、胸の内が数多く寄せられ、交流の輪が広がっています。さらに、MCの栗原アナウンサーはラジオブースを出て、全国の当事者や家族と対話を重ねました。孤立にあらがい、周囲と新たなつながりや助け合いを紡ぎ出すために、今何ができるのでしょうか。

ひきこもりの支援活動を行う社会福祉士の長谷川俊雄さん、長年にわたり当事者の取材を行う作家の石井光太さんと共に、番組で使用した「出張ラジオカー」を停めた河川敷で、これからのひきこもりとの関わり方について意見を交わしました。
2020年12月9日に放送したクローズアップ現代+の対談記事です。

私たちにはたまたま居場所があっただけ

武田真一(クローズアップ現代+キャスター)
栗原さんは「みんなでひきこもりラジオ」で7500もの当事者の声に向き合ってきたわけですよね。さらに今回、直接会ってお話をうかがうこともできました。そこから何がみえてきましたか?

栗原
ひきこもりの方々の一人ひとりの声を聞いていくと、皆さん社会から受けた傷によってひきこもっているんですけれど、実は社会とつながりたい、みんなと気持ちや考えを分かち合いたいという思いが本当に強いんだなと感じました。あとは一人ひとり置かれた状況が本当にさまざまで、背景やひきこもった理由も多様です。なのでひきこもりという一言でくくってしまう、それもひとつ彼らにとって生きづらさになっているんじゃないかなと感じました。

石井
僕は、ひきこもっている人もひきこもっていない人も、抱えている問題や悩みって一緒だと思うんです。どういうことかというと、家族や社会とどうしても「わかり合えない」ということだと思うんです。ただし、僕たちは本当にたまたまだと思うんですけれども、うまく学歴があったり、就職ができたり、ある程度仕事ができたりした。それによって親に認めてもらえたり、自分の居場所というのを確保できたんですよね。つまり「わかり合えない」から逃げることができて、ひとつの居場所を作ることができた。でもそうじゃない人もたくさんいるわけです。たとえばたまたまうまく就職がいかなかったり、あるいは病気で身体を壊してしまったり。そういった人たちはどうしても家の中だとか、そういうところにいないといけない。そうするとやはりわかり合えないまま、ずっと悩みとぶつかってしまうんですね。でもやはり僕たちの立場っていうのは基本的には同じですので、その中できちんと理解して考えていくことが必要なのかなと思っています。

武田
長年ひきこもりの方たちと向き合ってこられた長谷川さんは、どう受けとめられましたか?

長谷川
ラジオを通して7500もの声が届いたというのは、おそらく今までも届けたかった声がようやく機会を見つけて発出できたんだろうなっていうふうに思っています。声なき声が表に出てきた。ひきこもりの人たちって何も表現をしないとよく言われるんですけれども、実は表現したいんだけれども表現する機会がない、あるいは自分が何を感じて何を考えているのかということをうまく言葉に乗せられないだけではないのか。それは私たちが緊張してものが言えなかったり、安心できないところでは話せないっていうこととつながっていると思うんですね。つまずきがあったときに理解している他者がそばにいなかったというのが、最大の不幸といったらおかしいですけれども、それがひきこもりの入り口だったんではないかなっていうふうに思いました。

栗原
たとえば学校の中のいじめだったり、家庭の中での不和だったり、会社で上司からすごく嫌なことを言われたり、実は僕たちも目にしている、本当にごくありふれた生きづらさに直面してひきこもったと言う方が本当に多くてですね。話していけばいくほど、自分とひきこもりの方って、実は違いはないんじゃないかなというのをすごく感じながらラジオをやってます。

“死にたい”の奥にある本音

武田
ひきこもりというと、すごく特別な人たちと思いがちなんですけれども、私たちも社会と対峙する中でいろんな怖さがありますよね。「普通ってなんだろう」「自分は普通なのか、それとも人並みはずれているのか」って不安ですし、「いつレールからこぼれ落ちるかわからない」っていうような恐怖も味わっていますし。実は違うところにたまたまいるだけで、本当は同じ境遇、同じものを恐れているんですよね。

長谷川
普通って結局玉ねぎのようで、むいていくと何もないんですよね。でもこの社会がそうした普通幻想みたいなものがあって、それが手にできていないことがいけないことだっていうことを思わされている。ひきこもっているご本人たちのそうしたとらえ方は社会が用意していて、それにご本人たちが苦しんでいると感じました。

石井
普通っていうのは、細かくみるとみんなそれぞれ違うんですよ。たとえば物書きとしての普通と、会社に勤めている人の普通って違いますよね。もしそれを語ることができれば自分の普通を説明できて、相手に理解してもらえるんですよね。だけど言えない人っていうのは、わかってもらえないまま、自分だけどんどん傷ついてしまったり、不安になってしまう。
あと、お父さまやお母さまに対して「産んでくれなければよかった」とか「親が亡くなるのを待つしかない」という言い方をするひきこもりの当事者がいますが、これも言葉がうまく言えない部分があると思うんです。もっとコミュニケーションができる人だとしたら、うまく表現をして理解できるように言えると思うんです。でもああいう言い方をせざるを得ない理由や背景っていうのは必ずあるんですよね。そこにきちんと耳を澄まして理解するということが非常に大切だと思います。

長谷川
ひきこもりの方たちはとても繊細だと思うんです。実は私たちはどちらかといったら鈍感なのかもしれない。鈍感だから社会でいろんなことができている。彼らはやっぱり繊細で、あとなんというか、腹をくくるというような技術がなかなか手にできていなくて、言葉にできないまま自分の中で悩みが循環してしまう。その中で言葉を失っていったり、自分がどういう感情かわからなくなってしまう。そのときに最後のわかりやすい言葉として「生きる」「死ぬ」という言葉が出てきているんじゃないのか。生きる、死ぬという言葉の奥にどんな思いがあるのかということを、気遣う態度が本当は必要だったんでしょうけど、それが親子間でなかったということもあるんじゃないかなと感じました。

栗原
ラジオへのメッセージやツイートでも「死にたいと思っている」「消えたい」という言葉が多くてすごくハッとさせられるのですが、それをラジオで読むか、少し躊躇してしまう部分があるんです。でもそれをあえて伝えてくださるのは、たぶん本人たちが一番いま言いたかったこと、一番誰かに届けたかった言葉なのかなと思います。

武田
本当は、生きる、死ぬ、死にたい、消えたい、という言葉の手前に、多くの人たちが飲み込んでやり過ごしていることがたくさんあって、そこにうまく対応できないということなんでしょうかね。

長谷川
そうですね。認めてほしい、わかってほしいというのが一番そこにある気持ちなんじゃないでしょうか。それが生きる、死ぬという言葉に表れている。認めてほしい、わかってほしいという思いは私たちも皆持っていることです。私たちは周囲に助けを求めることができるけれども、彼ら彼女たちは助けを求めにくいという特徴がある。そういう違いでしかないんじゃないかと思います。

石井
そうですね。彼らの言葉に出てくるものが、どうしても曖昧だったり、あるいは生きる死ぬのような究極の言葉でしかなくなってしまうんですけれども。そこをどう社会として理解するのか、あるいはもし社会が理解できないのだとしたならば、メディアであるわれわれが、死ぬといった言葉を分解して、人に伝えるということが必要だと思います。

当事者コミュニティとしてのラジオ

武田
そういう意味ではこの「みんなでひきこもりラジオ」は、今まで聞こえてこなかった多くの人たちの声が表に表れてきた、すごく意義のあることだと思うんです。栗原さんは特に何を大切にして放送してきたのですか?

栗原
いくつかあるのですが、まず一番大切だと思っているのは、これまでは取材としてお話を聞くアプローチだったんですけど、そうじゃなくて居場所になるということ。言葉を受けとめながら、居場所を共に作っていくことをすごく大事にしています。ラジオをやる中で、一番多く寄せられる反応は、「ひとりじゃないって思いました」という言葉なんですね。私もラジオで「ひとりじゃないですよ」と伝えるんですけれども、当事者の声を聞くと「わたしも同じ気持ちだった」とか「わたしも同じ状況だった」と。知ることで孤独感が和らいでいくと思います。
もうひとつは、今ちょっとずつラジオがコミュニティになってきているんですね。ツイッターをしながらラジオを聴いてくださるリスナーが多いですけど、たとえば誰かの「死にたい、消えたい」というメッセージがあると、ツイッターでは「大丈夫、僕がいるよ」とか「こういうことやるといいよ」とか、支え合いの言葉が本当にたくさんあふれていくんですね。いま4回放送しましたが(2020年12月現在)、どんなメッセージがきても僕も受けとめるし、僕だけじゃなくてラジオを聴いている当事者のリスナーが受けとめてくれる。だから、聴くだけでもいいですよとか、ツイートするだけでもいいですよ、メッセージ送るだけでもいいですよって伝えていて、一つひとつが社会とつながるステップになるように番組を続けています。

長谷川
生きづらさを共有するだけで励ましになるっていうね。これ非常に逆説的なんですけども、弱さや生きづらさなどネガティブにとらえられているものを手にすることでポジティブな力になるっていうことが、番組を通しておそらく日本中に生まれてきているとも思いました。

石井
あるひきこもりの子に話を聞いたとき、なぜ自分がひきこもっているのかわからないって言うわけです。でも対話をすることによって、一方通行ではなくて、たとえば栗原さんが何かを感じて、感想を言ってもらう。それによって自分自身をわかることもあると思うんです。彼らにとっては一歩前に進む、違うステージに行けることもあると思うんです。だから吐き出したいだけではなくて、人に吐き出して、人の感想や意見を聞くことによって、自分のことをわかっていくっていうことも大切なんだと思っています。

生活者としてのひきこもりを知る

栗原
もうひとつラジオをやっていてすごく大事だと思ったのは、同じ時を共に過ごすことだと思っています。ラジオでは暮らしにまつわることについてたくさんメッセージをお寄せいただいているんですが、たとえば食に関するテーマの回ではこんな投稿がありました。

「究極のひきこもりめしはラップに包んで冷蔵庫に入れておいたご飯をレンジでチンしたものです。お皿洗いしなくても済むし、楽ちんです」
「お金がないから買い物はできません。そのかわり風呂を洗ったり、庭の草を抜いたり、便所掃除して、100円玉を家族が置いてくれるので、それでなんとかパンを買って食べてます」
「昼間はほとんど家から出ないので、親が寝たあと夜中に食べることがあります」

生きづらさの中で手軽さを求める姿がみえる一方で、ひとり孤独にご飯を食べている姿も浮かび上がってきました。暮らしの中のテーマをみていくことで、うっすらとそこにある生きづらさがみえてきたり、そのことを吐き出せる形になってると思いました。

長谷川
ひきこもっている人たちも私たちも同じ生活者なんです。衣食住があって、食事も不自由な中でもいろいろ工夫をしていたりとか、こうありたいといった願いがみえてくる。ひきこもりというと外出か就労かになってしまって、まず生活をどう豊かにしていくのかということが全部抜け落ちていた。それを共有できることで安心や安全が感じられたのだと思いました。

栗原
あとは美容院に行けるかどうかというのもすごく盛り上がったんです。「髪を切りたいんですけれども、美容室がすごく苦手です。ヘアカット皆さんどうしているのが教えていただきたいです」という投稿がきたんですけれども、そうするとたくさんメッセージが寄せられました。中には「ひきこもり経験者の美容師です。いま皆さまのお役に立つためにどんな美容室ならヘアカットに行けるか、また訪問なら大丈夫なのか教えていただきたいです」。生活の中のちょっとしたアドバイスとか、ちょっとした知恵みたいなことも共有できて、暮らしに寄り添えている実感は出てきました。

相手をジャッジしないコミュニケーション

長谷川さん
僕もこれまで2回ラジオに出演をさせていただいて感じたのは、栗原さんがジャッジをしないんですよ。いい悪いというジャッジをしないっていうところが安心感だと思うんです。全部「ああ、そうなんですか」ということを基本形にしている。おそらくひきこもっている方たちって、そうやって受けとめられる経験が家庭の中でなかった。いつも親からジャッジされてた。ジャッジフリーになったということが、私たちが想像する以上に心地よかったんじゃないかなと思います。

武田
僕は「みんなでひきこもりラジオ」の一番の価値というのは、もしかしたらこのラジオで繰り広げられている風景が社会全体に広がっていったら、もっと皆さんお互いに生きやすくなるのかなって思っているんですね。今おっしゃったひきこもりの方々の行動をジャッジしないとか、同じ生活者としてとらえるとか、そういうことは皆さん誰でもできることだと思うんです。そういうふうに世の中に広げていくひとつの窓みたいなものになるといいなと思ったんです。

石井
人と人がぶつかるときというのは、表面的な状況の違いだけでぶつかってしまいがちなんですけれども、でも表面的な違いの背景には必ず物語があるんですよね。その物語を見れば、なぜこうなったのかという結末はわかるわけです。それにもかかわらず結末の部分だけを見ているからぶつかって、わかり合えないということが起きてしまうんです。ジャッジをしないというのはそこにある物語をきちんと見つめること。それってなかなか当事者同士ではできないすごく難しいことです。だからこそ第三者が入ることによって、その物語をきちんと見つめ直すことが必要だと思います。

長谷川
ラジオの視聴者がいろいろな声を送ってくれるというのは、いたたまれなくなって、誰かと話したくなって表現しているわけです。独白というか、ひとり語りですよね。ひとり語りをしたら、栗原さんが受けとめてくれて、短い会話になったという経験ってすごい大きいのだろうと思うんです。今まではひとり語りをしても、ジャッジされて、ピシャッと叩かれておしまいになっていたのが、受けとめてくれて会話になるっていう、モノローグがダイアローグにつながっていく循環の最初の経験をしている。そういう意味合いがあるんじゃないかなと思っています。

石井
ひきこもりの方々にとっては栗原さんもまったく別次元の人だと思うんですね、言い方に語弊があるかもしれませんけれども。NHKのアナウンサーをやっていて、全国的に発信力もあって、もしかしたらちょっと怖いと感じてしまうぐらいかけ離れているかもしれない。そういった人たちがなぜ栗原さんに声を聞いてほしい、届けたいと発信をしてきたのでしょうかね?

栗原
ひとつあるとすれば、本当に個人的な状況なんですけれど、自分の兄弟がひきこもっていた経験があるということでして。僕は当時何もできなくて、ただその状況を見ているだけだったし、「仕事こんなのがあるよ」とか「学校行かなくていいの?」とか、もしかしたら彼にとって生きづらさを与えてしまったんじゃないかという後悔があったんです。そのことをラジオの第1回の放送でお伝えしました。僕にとってはすごく勇気がいることでしたし、言っていいのかも考えたんですけれども、それがきっかけで少しずつ繋がることができたのかなと思いました。
あともうひとつは、放送をするたびに僕の考えも変わってきているんですけれども、やっぱり自分とあなたは違いがないですよということを、本当にお腹の底に落ちて考えられるようになってきていて。そうすると前は話しかけるのが怖かったですけれども、一緒に笑い合えたりとか、一緒に「いただきます」って言ってご飯食べて「ああ、いいですね、水飲んでるんですか」とか「いいですね、カツオのたたきですか」って、普通の話ができるようになってきて。そういったことがもしかしたら寄せてくださっている理由かなっていうふうに思いますね。

石井
なるほど。

栗原
あと、すごく覚えているのは、「僕は支えたいです」っていう言葉を口にしたときに、放送終わったあと長谷川さんから「栗原さん、その言葉はちょっとやめましょうか」と。なぜかというと、「支援者みたいに聞こえる。栗原さんは支援者じゃなくて一緒に話す人だから」というアドバイスをいただいたんですね。
ラジオの中では、長谷川さんも長谷川先生って呼ばず、僕はトッシーと呼んでいます。

長谷川
はい、トッシーです。

栗原
権威のある人じゃない、専門家でもない、一緒に語るひとりという役割を担ってくださっています。

石井
ジャッジするときの言い方って「~すべき」っていう言い方になってると思うんですね。
だけれども、これは僕は取材のときにいつもそうなんですけども、直接本人を目の前にしたときには「~すべきだ」って言えないんですよ。言いたくなるときもあるんですよ。でも言えないんです。なぜかいうと、そこにはその人なりの物語があるからなんです。「べきだ」って言った瞬間に、僕の考え方の押し付けでしかなくなってしまう。やはりその物語をきちんと聞いた上で、「~すべき」ではなくて、一緒になって理解するということで十分なのじゃないのかなというふうに思います。

栗原
なかなか答えるのが難しい、重たいシビアなメッセージもくるんですけれども、大事にしてるのは、とにかく必死で考えて出た言葉で受け答えをすることかなと思っています。専門的になったり分析的になったり僕はできないですし、会話のような形にだんだんとなってきたかなと思います。

武田
そういう会話であれば、多くの人でももしかしたらできるかもしれないですね。

ひきこもり報道への違和感

武田
私たちはこれまでも度々、ひきこもりに関する番組をお伝えしているんですけれども、それでもやっぱり、なにか特殊な人たち、自分たちと関係ない別の場所に生きている人たちというふうに見がちだったと思うんです。メディアのあり方については長谷川さん、どういうふうにお感じになっていますか?

長谷川
これまで多くの報道がひきこもりについて伝えてくださっていますけれども、やっぱりあまりにもセンセーショナルで、見ている視聴者がドキドキしてしまうような、私たちの生活と地続きじゃないというか、そうしたものばかりが切り取られて、消費されていく。なおかつそこにはどうしたら外出できるのか、働くことができるか、わたしたちと同じようなゴールをやっぱり強要しているようなメッセージが含まれていたんじゃないかなと思います。だからひきこもりの本人たちは、ああいう番組は絶対見られないと。見ると本当に苦しくなる。だけど親はとても見るんですよね。どうしたら子供を部屋から出せるのか知りたいですから。報道のあり方によって本人を追いこんだり、親に誤った考えやゴールを提供してしまうという、フェアじゃなかったところも多く見受けられたと思っています。

栗原
ラジオをやるきっかけになったのも、一緒に取材している記者やディレクターの中に、これまでのひきこもりの伝え方に対して本当にこれが皆さんの役に立っているのだろうか、という危機感がありました。何かできることはないかと考えたときに、取材したひきこもりの当事者の方からメールをいただきました。「ラジオだったらみんなの声が届くよ」とか「自分たちのメディアがほしい」という声がたくさん寄せられてきたので、それでスタートした番組だったんです。だから取材する側とされる側という関係性だけでなく、一緒に作っていく、一緒に参加していく形をどれだけ用意できるかがすごく大事と思いながら担当しています。

石井
栗原さんは今までひきこもりの報道のどういうところに違和感を感じていたんですか?

栗原
取材で家の中に入れない、ドアの向こうに行けないので、どうしてもドアや散らかった部屋のイメージカットというのがたくさん使われてきたと思うんです。それはひきこもりのステレオタイプを広げてしまったのではないかなと思っています。あと、本人たちはモザイクをかけないと番組に出られないことが多々ありますが、そうするとなにか不穏なものというか、見ちゃいけないものという当事者の印象を与えてしまったのではないかなと思っています。

武田
私は、どうしてひきこもってしまうんだろう?というのがずっとわからなかったんです。それはなぜか、今いろんな方のお話を聞いて振り返ってみると、部屋の中に閉じこもっている風景だけをみていたし、それだけを伝えていた。その人たちがどういう思いでいるのか、あるいは日々どういうふうに暮らしているのか、さっきの食事の話もありましたけれども、そういうことすらわからずに、ただ部屋の中でひとり過ごしている風景だけをみて、なぜだろうと疑問をぐるぐる自分の中で繰り返していたんですね。本当に僕らが抱えている不安と同じなんだということは、ひきこもりを理解するための大きな鍵になる、糸口になると感じました。

(後編へ続きます)

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