ひきこもりからの回復 当事者が語る“女性のひきこもり”

当事者と親世代の高齢化が進むひきこもり。“女性のひきこもり”は、女性ならではの親子関係や社会的背景が反映されているところに特徴があります。ひきこもりからの回復に20年もの月日がかかった林恭子さんの歩みを見つめます。

「優等生」がひきこもりに “本当の自分”と向き合うまでの日々

林恭子さん(右)と夫・篤哉さん

「横浜で毎週日曜日に開かれる市場で自分の店を開いている林恭子さん。“不登校”や“ひきこもり”を経験し、苦しみ続けた過去を持つ林さんは、同じくひきこもった経験のある夫の篤哉さんとともに、5年前から夫婦で古本屋を営んでいます。林さんがひきこもりから回復するまでには20年もの月日がかかりました。

長女として生まれ、中学までは両親や学校の教師の言うことに素直に従う「優等生」だったという林さん。しかし高校に進学すると、進学校で校則も厳しかった学校に馴染めず次第に息苦しさを感じるようになっていきます。

そんな中、1学年上の男子生徒が突然学校を中退するという出来事が起こります。中退の理由が「アフリカに行きたいから、そのために肉体労働をしてお金を稼ぎたいからだ」と耳にした林さん。目的のために自分の進路を決めていることに「あぁ、すごいな」と感じたといいます。ところが周囲の大人も学生たちも皆「何て馬鹿なことをするんだ」という反応を示したことで、周囲との違いを感じるようになっていきました。

「私は『馬鹿だな』と思わない訳ですよね。『むしろすごいな』って。それが周りとみんなと違うんですよね。で、そのころには『ちょっとやっぱりそれを私、今ここで言うと、多分、何かぎくしゃくするだろう』というようなことはもう分かり始めてたんですね。なので誰にもそれは言わなかったんですね。」(林さん)

この出来事の直後、林さんは学校へ行くことができなくなります。当時は高校2年生、16歳でした。「行こう」と思うのに、頭痛や微熱があるというようなことが続いていったといいます。

「ご飯もほとんど食べられないし、胃が痛いとか、肩こりが目で見てここが膨らんでるのが分かるぐらいに肩がこったりとか。想像できるあらゆる症状がもう出ちゃったんですね。」(林さん)

1年にわたる“不登校”を経て、林さんは自らの意思で高校を中退します。病院に通院する以外は自宅にひきこもる生活が続きました。当時を振り返り、林さんは「道があると思ってて歩いたら、突然大きな“落とし穴”に落ちた」ような感覚だったと表現します。ほとんどものを食べることもできなくなり、ふらついて歩けないほどにまで体重が減っていたときには、家の中をはって歩いていたこともあったといいます。

「“生きる屍”みたいになってただただ布団の中にいる。『顔を洗う』とか『お風呂入る』とか『ご飯食べる』っていうのは自分をちゃんと生きさせるための、『生きるためにしなきゃいけないこと』ですよね。でももう『生きよう』と思えない訳だから『必要がない』っていう感覚も多分あったと思いますね。」(林さん)

なんとか通信制の高校を卒業し、20歳のときに東京の大学へと進学したものの、再び中退してしまいました。なぜ自分は学校や社会にうまく適応できないのか――自らの“生きづらさの理由”を探し求め心理学などの本を読みあさるなかでたどり着いたのが、『自分と母親との関係』でした。母親について、「とにかく自分が正しいから自分の思うように子育てをしたい」と当時の印象を語った林さん。長女である林さんに対しては特に一切自己主張を認めてはくれなかったと振り返ります。

「物心ついたときからそうだったんですね。着る服も私、高校に入るぐらいまで、休みの日、制服以外のときも。母が朝、用意して出した服をそのまま身に着けていたんですね。」(林さん)

記憶をたどっていくうちに、林さんは“ある出来事”について強い怒りを感じるようになります。高校受験のとき、母親から希望する学校の受験を断念させられたのです。林さんは、不本意な高校に進学したから自分は“不登校”になったのだ、母親に人生を壊されたのでは、と考えるようになっていきました。母親への“恨み”や“憤り”がマグマのように噴き出し、体力を消耗し具合が悪くなるほどにまで母親とぶつかったという当時を振り返ります。

「昼夜逆転してるので昼ぐらいまで起きないんですよね。そうすると母は掃除機をかけながら私の部屋に入ってくる訳ですよね。そんな生活がもう何年も毎日のように続く。いくらそれを『止めてくれ!』って言っても“母の理屈”では止めない訳ですよね。そういう日々のこととか、昔『こうだった』『ああだった』っていうようなことも私は思い出すのでそれも訴えるんですけれども。うちの母は一切そんなことはもう受けつけない。『それはあんたの被害妄想だ』と。」(林さん)

「死にたい」という言葉の真意

林さんが“回復への大きな1歩”を踏み出したのは27歳のときのこと。ある精神科医との出会いがきっかけでした。

病院を転々としていた林さんが8人目の主治医として出会ったのが、泉谷閑示(いずみやかんじ)さんです。林さんは、泉谷さんに当時心にわだかまっていた母親への怒りをぶつけました。しかし、泉谷さんは、そんな林さんの話をあまり聞いてくれていないかのように見えたそうです。母親の話を続けようとする林さんに泉谷さんは「お母さんのことよりも、『あなたの今』と『これから』の話をしましょう」と切り出しました。

林さんは当時の心境を次のように振り返りました。

「自分のことを当時は考えようとすると『生きていかなくちゃいけないのに、そのやり方が分からない』っていうことがいちばん大きかったですね、私にとって。『だから、それを考えましょう』と言われても『何をどう考えていいのかがまず分からなかった』んですね。」(林さん)

泉谷さんは『母親』にこだわり続けていた林さんに『自分』へと目を向けるよう助言した理由を次のように語ります。

「彼女が『お母さんが変わってくれれば、自分も変われるんじゃないか』という風に考えているのが分かってきました。でも、僕はそうじゃないと考えていましたから。『お母さんが変わらないとしても、あなたはどうしますか?ということを考えましょう』と提案したんです。」(泉谷さん)

まず母親が変わり、そうしたら自分が変わるという考え方では、なかなかよい変化には結びついていかないと考えていました。

では本当の解決策はどこにあるのでしょうか?

「まずは親子でも違う人間、つまり“他者”なのだということを理解する必要があります。とりわけ日本人は「親子なんだから」といった理由で互いに“分身”であるかのような幻想を持っている傾向にありますが、実際には相当『違う』のです。『違う』という前提から始まることによって、分かり合えたことが喜びになる。初めてそこで相手を『違う人間』として眺めたときに相手をどう理解するか。どう感じているんだろうかという『“本当の相手”を知ろうとする興味』、考え方が出てきますので、そうなってからの方が、親子関係もいいものになるんですね。」(泉谷さん)

泉谷さんの提案をきっかけに、“学校を中退し、27歳になっても自立できずにいる自分自身”と向き合い始めた林さん。けれども、この頃から次第に心のバランスを大きく崩していきます。行きつく先は“死”しかないのではないかと思い詰めた林さんは、病院の診察室で泉谷さんに伝えました。

「『私が生きていける場所』はこの世界にはないし、それを『見つけ出す力』も自分にはないので。であるならば『もうここで終わりにするしかないな』と思ったんですね。で、その気持ちを病院に行って先生に『もう終わりにしたいと思います』と一度話をしたんですね。そのときに先生が『“本当のあなた”はあなたの底の方に眠っているだろうから、そのあなたまでいなくなってしまうのは残念ですね』とおっしゃったんですね。」(林さん)

泉谷さんのこの言葉は、患者自身の中にある“本当の自分”を主治医がしっかりと「信じる」というところから生まれたものだと言います。

回復までの過程では「死にたい」という言葉が出てくる患者も少なくありません。泉谷さんはそうした患者の言葉を「今までのその“偽りの自分”でこの先も生きていくんだったら、もう生きていたくない」という意味と受け取るのだといいます。

「『死にたい』っていう言葉の裏をひっくり返すと『今までの延長線上だったら、生きていきたくない』という表現だと思うんですよ。なので変な言い方ですけども、“偽りの自分”が死ぬことは僕も賛成する。そんな状態だったら『僕だって生きていたくない』と思うだろう。そこは共感する訳です。だけれど、その先に“本当のあなた”っていうものが実は新たに誕生してきているという、それが今度“自分”になって生きていく。ちゃんと『(患者を)信じることができる』っていうか。」(泉谷さん)

回復への第一歩

この対話から1か月後。林さんに少しずつ“変化”が現れ出します。

「ちょっとだけ“生きる方”につま先がちょっと向いたような感覚があったんですね。『あぁ、どうも私は2つの道があったときに“死という方”ではなくほんのちょっとだけつま先が“生きるという方”にどうも向いたみたいだと。自分はそっちをどうやら選択したみたいだな』って思ったんですね。なので、そのときに『もう頑張ろう』と。」(林さん)

このとき、「私はもう1回生きていこう」と自ら決心をしたという感覚はまったくなかったといいます。林さんは次のように続けました。

「自分の“心”とか“頭”で決めたと言うよりは何かこう“体”というか命がこう入っている“肉体”みたいなものがそっちをただ選んだっていう。それに後から自分の“気持ち”や“思考”がついていったっていう感覚だったんですね。」(林さん)

その後、林さんと母親との関係性はどのように変わっていったのか。

それまで「親子だから分かり合える」と思っていたのが、母親と自分とは性格も育った時代も違う「別の人間」なのだと気づいた林さん。林さんの側から「分かってほしい」と訴えるのをやめたとき、母親が“肩の力が抜けたような様子”になったことが今も印象に残っているそうです。

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