親のとなりが自分の居場所 ~小堀先生と親子の日々~

在宅での終末医療を担う小堀鴎一郎医師。

訪問先の高齢患者には、仕事を持たず家にこもり続ける中高年の子供がいる場合が多い。そんな「こもりびと」の子供たちが、小堀医師に支えられ、親の「しまいの時間」に向き合い続けている。
親の看取り(みとり)を担うことで、社会的に孤立した人々が、自分の居場所を見つけていく姿を取材した。

(NHKエンタープライズ 情報文化番組部 エグゼクティブ・プロデューサー
下村幸子)

「しまいの時間」を一緒に過ごす

みずからハンドルをにぎり、高齢者の家を一軒一軒まわる訪問診療医、小堀鴎一郎医師。埼玉県新座市の堀之内病院の訪問診療チームで、医師6名と看護師2名で地域に住む168人の健康を支えている。小堀先生が担当するのは、80歳以上の高齢者がほとんど。

この小堀先生の背中をおいかけると、さまざまな家族の姿に出会う。近年多いのは、仕事をもたない中高年の子が、親の介護をしているケースだ。小堀先生が担当する家の1割以上で、介護をする子どもが仕事をせず親の年金で生活している。

今回の取材で、3組の親子を取材させていただいたが、特に印象深かったのが93歳のがん末期の父親と57歳の息子のケースだ。

父は、若い頃に陸軍士官学校に在籍。息子は、その父の背中を追って自衛隊に入るが、うまくいかずわずか数か月で退職。その後、精神疾患に。母親は、9年前に自転車事故で他界。以来、息子は父と二人きりの生活を続けてきた。

しかし、2年前に父にがんがみつかる。父は、息子を一人にはできないと、検査もそこそこに病院から退院してしまった。

そこで、小堀先生が主治医として担当することになった。
がん末期の父は、小堀先生に「住み慣れた家で息子に手をとってもらいながら逝きたい」と最期の願いを託した。

先生は、父親の最期の願いをかなえるべく、ケアマネージャーや訪問看護師らとタッグを組んで、患者の「しまいの時間」を一緒に過ごしていく。

在宅医療では、病院とは違い「日常の中に医療がある」。だから、同居している家族もひっくるめて診ていくことが大事だと小堀先生はいう。なぜなら、世話をする家族の健康も患者に大きく影響してくるからだ。

小堀先生は、心の病をもつこの息子に、気遣いながらもはっきりと、父の死に際の願いのことを告げた。

ただ大きな不安材料もあった。精神的に不安定な息子が、はたして父の臨終に耐えられるか、小堀先生も自信が持てなかったのだ。

しかし、私がこの親子の取材をはじめたおととしの8月からの2年と2か月で、息子の様子は大きく変化した。今息子は、父親への介助を率先して行っている。表情も明るくなり、会話も増えた。それは、小堀先生自身も予測していなかったほどだと思う。

手術のエキスパートから在宅医へ

小堀先生は、明治の文豪、森鴎外の孫にあたる。東大病院の外科医として年間300件以上の手術を手がけていた。しかし、定年後、患者の看取りまで担う在宅医となり、延命治療をめざしてきたこれまでの経験とは全く別の医療の世界に足を踏み入れた。

小堀先生
「臨床の時は、あまり患者さんのバックグラウンドや、パーソナルなことにはほとんど興味がなかった。手術だけうまくやっていればよかった。しかし、今、やっている在宅医っていうのは、抜群に奥が深い。毎日が新しい発見だから」

在宅医となった小堀先生が目指すところは、ひたすら患者の望む「最期」を実現できるようにすることだ。

母の介護を20年以上

小堀先生の患者に一人息子、政久さん(59)の介護を受けている正榮さん(95)がいる。

政久さんは独身で、同居する母親の介護を20年以上つづけてきた。30代後半まで職を転々としたが、長く続かなかった。正榮さんは、若い頃に離婚。家族をささえるため、公務員として42年間働いた。その蓄えと年金が息子との2人の生活を支えている。

その後、変化が起きる。正榮さんが肺炎で呼吸困難となり、入院となってしまう。状態は、深刻だった。正榮さんには、最期は自宅でむかえたいという強い希望があった。

それを知った小堀先生は政久さんを説得し正榮さんの退院を促す。そして、小堀先生が主治医となり在宅療養をはじめることになったのである。

政久さんは、母親のおむつ交換から食事の介助まで世話を続けた。退院してきて、はじめて息子におむつをかえてもらった正榮さんは涙したという。「まさかこういう状態になるとは思わなかった」という正榮さんだが、側にいて自分の世話をしてくれる政久さんを頼りとしていた。政久さんも、介護をとおしての母との濃密な時間は「宝だ」という。

そして、正榮さんは望みどおり、住み慣れた家で息子の側で96年の生涯を終える。

その一方で、老いた親を介護する中高年の子供には、その負担の大きさに絶えきれなくなる人も少なくない。そんなケースも、今回取材した。

90代の母を60代の息子がひとりで介護している家だ。
母の介護の負担が重くなるにつれ、息子はだんだん追い詰められていった。
そして、最後には自ら命を絶ってしまう。

取材時、小堀先生は、「われわれの仕事は、ほとんどが負け戦」といつも口癖のように言っていたのを覚えている。正解のない在宅医療。しかし、病院とは異なり、日々の生活に医師がはいっていくことで、そこに「こもっている人」とつながり、大切な人の「しまいの時間」を一緒に伴走することで、何かが変わっていくこともある。ぜひ、番組をとおして感じていただければと思う。

ひきこもりの中高年が担う親の介護とは

小堀医師との出会いは、今から3年前にさかのぼる。訪問診療医として、自宅での看取りまでを担う姿をみずからカメラを回し半年以上かけて取材。昨年、BS1スペシャル「在宅死 “死に際の医療”200日の記録」として放送すると多くの視聴者から反響をいただいた。

その後、再編集したNHKスペシャル「大往生 ~わが家で迎える最期~」の放送をへて、映画化が決定。映画「人生をしまう時間(とき)」が全国各地で上映された。

しかし、その後も私はカメラを置くことができなかった。小堀先生の訪問診療は続いており、番組で取り上げることができなかった人々の「しまいの時間」は続いていたからだ。

そんな時に制作することになったのが、「ひきこもり」について考える特集プロジェクトの番組だった。それが、11月21日(土)放送予定のETV特集「親のとなりが自分の居場所 ~小堀先生と親子の日々~」である

私は、この番組で小堀先生の取材を通して出会った、どうしても描きたい人々がいた。高齢の親の介護を一心にする中高年の人々。仕事などを通して社会との接点をもつことはなく、また、自分の家族ももたず、ただひたすら親の世話を続けている。

それが、上記で紹介した3組の親子である。

外の世界にたいして、心をとざしているようにみえるが、小堀先生をはじめ、在宅医療や在宅介護の人々がサポートに入っていくと変化がおこりはじめる。

私は、そこにある種の「希望」を感じた。

一方で、私には、どうしても気になることがあった。それは、「ひきこもり」ということばが持つ負のイメージだった。長年取材を続ける専門家に話を聞きにいったが、彼によれば、「ひきこもり」ということばが一般に知られるようになったのは2000年ごろからで、しかもそれは不幸な形だった。当時大きく報じられたバスジャック事件や、少女監禁事件の犯人が、どちらも「ひきこもり」状態だった人物であったため、ネガティブなイメージが世間に浸透する。

しかし、そうしたケースはまれで、むしろ静かに1人家で過ごす場合が大半なのだという。いじめ、DV、病気など、誰にでも起こりうるさまざまな「困りごと」を抱えて、人はひきこもるようになる。

私は、取材の間「ひきこもり」ということばのもつネガティブな考えを頭の中から払拭し、先入観なしのフラットな気持ちで現場をみつめるよう努めた。

人は、人と「つながる」ことでどれだけ変わっていけるのか…そのことを、映像が示している。

それは、どれだけ多くの時間を一緒にすごしたかの問題ではなく、どれだけ深く相手の尊厳を尊重し、最期のときに向けて一緒に歩んでいくかだと、小堀先生と現場が私に気付かせてくれた。

中高年の「こもりびと」の居場所

取材を終えて、タイトルを考えはじめた時、思い浮かんだのは「ベッドサイド」だった。

さまざまな事情で、社会とうまくやっていけない中高年が、親の介護でもっとも長く時間を過ごした場所、もしくは、今でも過ごしているのは、親の隣、「ベッドサイド」なのである。

私も、取材でカメラを回すうえで、いちばん多く立っていた場所だ。

彼らにとって、そこが安心できる「居場所」なのだ。自分が自分らしくなれて安心できる「居場所」があるのと、ないのとでは人生が全く違うと思う。そうした「居場所」が、ある人にとっては、たまたま介護する親の隣であったということなのだ。

その「居場所」をむしろ地域や社会で守っていくことが大事なのではないか。とくに、社会的に弱い立場の人々に対して。

超高齢化社会のなかで、8050問題として、中高年の「ひきこもり」が問題視される風潮もあるかもしれない。

でも、年老いた「親の看取り」に彼らが社会でみつけられなかった「生きがい」や「やりがい」を見いだせたなら、それはそれで「生き方の選択肢」として受け入れられる社会であってほしいと切に願う。

NHKエンタープライズ
文化情報番組部
エグゼクティブ・プロデューサー
下村幸子

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