小熊英二さん「もうもたない!? 社会のしくみを変えるには」

歴史社会学者として活躍する小熊英二さん(56)。膨大な資料をもとに、『<日本人>の境界』『<民主>と<愛国>』といった著作で、日本社会の意識の変遷を読み解いてきました。2019年7月に出版した本では、終身雇用や年功序列といった雇用慣行をはじめとした日本社会の構造を、雇用、教育、福祉の観点から横断的に分析し、解き明かしています。小熊さんは、「今の社会は、1970年代の仕組みのままで、もうもたなくなっている」といいます。
(聞き手:ネットワーク報道部記者 岡田真理紗 木下隆児)

“約26%”にとっては「変わらなかった時代」

――平成から、令和の時代になって半年が経ちました。平成の間は契約社員や派遣社員が増えたり、地方では、商店街がなくなってショッピングモールが出来たりといった変化がありましたが、社会が大きく変わったということでしょうか。

「どのポジションから見るかによって、全然見え方の違う30年」だったと思いますね。日本社会の約26%に当たる、大企業の正社員や官庁勤めの人から見れば、「変わらなかった時代」。ただ、それ以外の人たちにとってみれば、かなり大きな変化があった時代だと思います。

最近書いた『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』という本で、私は現代日本での生き方を「大企業型」「地元型」「残余型」の3つの類型に分けて説明しました。

「大企業型」は、毎年、賃金が年功序列で上がっていく人たち。大学を出て大企業の正社員や官僚になった人などが代表です。「地元型」は、地元にとどまっている人。地元の学校を卒業して、農業や自営業、地方公務員、建設業などで働いている人が多いです。「大企業型」は、所得は多いものの、長時間労働や通勤時間が長く、地域社会につながりが薄い人が多い。「地元型」は、所得は比較的少ないものの、地域コミュニティーを担い、持ち家や田んぼがあったり、人間関係が豊かだったりします。

ただ、平成の時代に増加してきたのが、所得も低く、人間関係も希薄という「残余型」。都市部の非正規労働者などがその象徴です。
これらの3つの類型を先行研究などをもとに2017年のデータで推計したところ、「大企業型」が約26%、「地元型」が約36%、「残余型」が約38%となりました。

このうち「大企業型」の割合は1982年から2017年までほとんど変化がなかったのです。日本社会の約26%にあたる「大企業型」の人たちの雇用形態や働き方は70年代初めに完成した「社会のしくみ」です。平成は、大枠で言えば、国際環境が大きく変わる中で、この「社会のしくみ」を無理にもたせてきた時代だったと言えると思います。

――正社員が減って非正規雇用が増えたイメージがあります。「大企業型」の人たちは減っていないのでしょうか。

正規雇用はバブル期に増加して、その増加分が2000年代前半に減ったという意味では増減していますが、大きなトレンドとしては変わっていません。一方で、非正規雇用は一貫して増えています。

就業地位別の推移
総務省『労働力調査』より作成『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』(講談社現代新書)より

ではどんな人が減ったかというと自営業主や家族労働者の人が減った。82年より前はそもそも政府の統計では「非正規雇用」という枠を取ってないのですけれども、それ以前も「日雇い」とか「臨時工」とか、そういう括りはありました。あるいは雇用において「その仕事を主とする者」「従とする者」のような位置づけはありました。ただ「主とする者」「従とする者」という表現がまさに象徴していると思うんですけど、結局、当時は臨時工や期間工をやる人というのは、農業を主としてやっていて、農業から一時的に期間工になっている人とか、家庭に所属していて一時的にパートに出ているとか、そういうイメージでとらえられていました。「そうじゃない人たち」が大量に発生したというのは比較的近年だと思います。

――「そうじゃない人たち」というのは?

職場で「正規の職員じゃない」と認識されていて、かつ、期間限定でもなければ、昼の2時間だけ来るとかじゃない。「フルタイムで長期間働いているんだけど、でも正規職員じゃない」という人が大量発生したということです。

結果的に言うと、「正社員で、賃金が右肩上がりに増えていく」グループの、2割から3割弱の人にとってみれば、「変えよう、変えようと言ったわりには大きく変わらなかった時期」と映るでしょうし、それ以外の7割ぐらいの人たちにとってみればかなり激変があった時期だと思います。

「社会のしくみ」とは何か

――70年代に完成した「社会のしくみ」とは、どんなものなのでしょうか。

「終身雇用」「年功序列の賃金システム」そして「新卒一括採用」などに象徴される日本の雇用慣行と、それに規定されてできていった教育や社会保障のあり方、さらには家族や地域のあり方など、日本社会の「慣習の束」を指してこう呼んでいます。

戦前の日本の社会は1つの企業の中でも階級差や身分差がはっきりある社会でした。エリートで学歴の高い、ホワイトカラーの事務系の正社員と、学歴の低い現場の作業員で、身分差別ともいえる格差がありました。それが戦後の民主化運動の中で、労働組合は「同じ企業の中の労働者はみんな平等であること」を望み、交渉の結果それが実現していきました。それまで一部のエリートだけに適用されていた、「終身雇用」や「年功序列の賃金システム」、そして「新卒一括採用」も、同じ企業の社員には全員に適用されるように拡大していったわけです。

並行して、教育のあり方や社会保障の制度、さらには先ほど述べた「大企業型」「地元型」「残余型」の類型も形をなしていきました。60年代後半から70年代のはじめに完成したその構造を「社会のしくみ」と呼んでいます。

その結果、日本は幸か不幸か「目に見えやすい階級社会」にはならなかった。大きな理由は、一つの企業の内部ではある程度の「社員の平等」が達成されたので、一つの会社の中に視野が限られている分には階級がみえにくくなったことでしょう。

とはいえ、日本社会にもある種の格差はあって、それは大企業と中小企業の格差や学歴の格差、都市と地方の格差という形で認識されてきました。一つの会社の内部が「平等」にみえるようになっても、大企業と中小企業の格差は明らかにあったし、大企業に入れるかどうかは学歴で決まると認識されていたからです。

しかし高度経済成長の結果、「全体の格差が縮んだ」という印象が、「一億総中流社会」という言葉に代表されている。もっとも実際には、終身雇用を実現できるような「大企業型」の生き方が、日本社会の三分の一以上に広がったことはおそらくありません。

それでも「一億総中流」といわれたのは、二つの理由からです。一つは高度成長期の人手不足で小企業も初任給だけは上げざるを得なかったので、賃金格差が一時的に縮んだようにみえたこと。もう一つは、まだ自営業が多くて地域社会が安定しており、そこに公共事業や産業誘致などで副業が増えたこと。これが、一つの社内だけで生きている分には「平等」のようだという生活実感とあいまって、「一億総中流」意識をつくったのでしょう。

そして、基本的にはまだこのときに生まれた社会秩序が継続していると思います。言われるほど正社員の数も減っていないし、正社員の中で、年功序列で賃金が上がっていく人たちの比率もほとんど変化がない。しかしそれは上の約3割の話で、下の約7割は変化している。自営業が減って非正規が増え、地域社会の安定が低下して、貧困が増えています。

そうして下の7割の安定性が下がっていく一方、上の約3割に入るための競争が続いている。このあり方は、もう別に平成の30年だけじゃなくて、高度成長が終わって「大企業型」の量的拡大が終わった70年代から、40年以上余り変わっていないと思います。

いわゆる日本型雇用が変わらないといわれるのは、上の3割の安定性を、下の7割から非正規雇用を調達しながら、ずっともたせてきたということです。よくもたせてきたなとも言えると思いますけどね。長期雇用が20世紀半ばに広がったのは日本だけのことではないですが、よいか悪いかは別として、ほかの先進国はもっと早く、長期雇用が崩れましたから。

――日本は人口も多いので、国内需要がある程度あって、「変わらなくてもよかったがゆえの変われなさ」も感じます。

それは大きな要因で、これほど大きな国内市場がある国は珍しい。たとえばメディアや音楽産業はそうだと思います。ほぼ日本語で、ほとんど国内市場頼りですね。

労働市場もそうです。日本の学校を出れば日本で就職できるというサイクルを今でも維持していますし、大企業も基本的には国内労働市場依存です。他のアジア諸国と違って、英語ができなくても就職できるし、留学に行っても就職のプラスにならない。グローバル化の影響は、その点では受けていません。

だから官庁と大企業を中心とした上の3割は、日本経済の体力がもつ限りは、たぶんそれを続けたいと無意識に考えていると思いますよ。日本の大学を出れば、特にある程度上位の大学を出れば、正社員に就職できて昇進できます。今の役員クラスの人々自身が、そういう構造の中で地位を得ているわけですから、変えたくはないでしょう。「英語が話せないと役員になれません」とか、「業績が上がらなかったら社長はすぐ交代です」といったシステムを導入したがるとは思えません。

「しくみ」はなぜ維持されたのか?

――この「しくみ」は、なぜずっと維持されたのでしょうか。

70年代後半から80年代は、日本は、いわば今の中国みたいな位置にありました。つまり、世界の工場です。しかも当時は東西冷戦のさなかでしたから西側陣営の工場です。冷戦が終わると、その日本の地位は失われていくことになりました。

冷戦の終わりというのは、旧ソ連圏や中国などの社会主義圏が世界市場に参入してくることでした。そして世界の製造業の中心は、日本から中国や東南アジアにシフトしていきました。日本の製造業の就業者数は92年がピークですから、冷戦が終わったということと、ほぼ重なっています。

――国際環境が変化したのに構造をもたせてこられたのはなぜでしょうか。

「大企業型」の有業者に占める比率は、政府統計でわかる1982年からほとんど変わらず27%前後です。その量的な拡大はおそらく73年の石油ショックまでで終わってしまった。そういう意味では、1970年代後半からすでに苦しい状態でした。それで、年功賃金を享受できる層を絞り込むために、大企業正社員の長時間労働、単身赴任、人事査定、人事異動、子会社出向などが増えるといったことは、70年代から起きていました。

それでも、冷戦という世界構造があった時期までは、まだ日本の製造業は伸びていました。その後、平成に入ってからでも、90年代の半ば過ぎまでは、まだGDPも伸びていました。その時期がピークだった産業も多い。新聞にしても、出版にしても、CDの売り上げにしても、90年代後半くらいがピークです。円がその時期に上がっていたため、ドルベースでみれば90年代半ばまでは高度成長で、世界における日本の存在感も増していました。

一方で、農林自営業が減って非正規雇用が増えるトレンドは1980年代からずっと続いていました。非正規雇用が自営業セクターを人数的にうわまわったのが97年。それはちょうど日本の生産労働人口や雇用者平均賃金がピークアウトした時期でもありました。

そこからあとは1970・80年代の延長です。つまり、長時間労働、人事査定の強化、非正規雇用の活用といった方法をとりながら、大企業正社員の雇用慣行は基本的に維持してきました。ただしそれは上の2割か3割の話で、下の7割はどんどん非正規雇用に移動し、安定性を失っていったのはすでに述べたとおりです。

問題への気づきが遅れた理由

――その後、徐々に貧困や格差の拡大が問題視されるようになってきました。しかし、「しくみ」は変わらず、なかなか対応は進まなかったように思います。

貧困と格差という問題に関して、社会がどのように気づくか、という「気づき方」も、一貫して社会の上のほう、上位約26%に関係する変化がまず注目されていたからだと思います。やはりどうしても、メディアやものを論じる人たちのリアリティーというのは、「上の方のリアリティー」ですから。メディア労働者や官僚は彼ら自身が「大企業型」だし、学校の同級生もほとんど「大企業型」でしょうから、日本全国みんな「大企業型」だと思いやすいのでしょう。

たとえば、90年代の終わりに注目されたのは、「中高年のリストラ」という問題、そして「若い世代の就職難」という問題でした。しかしどちらも、大企業のリストラ、大企業に就職しにくい、といった問題です。極端にいえば、「新聞社の部長の問題」と「新聞社の部長の息子の問題」でした。同時期に、高卒労働市場が3分の1になってしまったことなどは、ほとんど注目されませんでした。

教育の問題に関しても、最初に火がついたのは、1999年に『分数ができない大学生』という本がベストセラーになったことです。これはトップの大学の数学力が落ちているという問題ですが、おそらく高校時点の受験コース分けが徹底して経済学部入学者などが数学を高校であまり勉強しなくなったことが原因で、全体の学力低下とは別の文脈があったでしょう。ところがそれが、教育困難校の学級崩壊と一緒に論じられたりした。また非正規雇用の増大は、自営業の減少や地方の疲弊の問題とは、別のものとして論じられてきました。

それはやはり、日本の社会というものが、異質な部分から構成されているという認識が薄かったからだと思います。1950年代ぐらいまでは、日本社会は二重構造だというのが多くの経済学者の常識で、日本は異質な部分から構成されているという意識が結構ありました。高度成長を過ぎたあたりから、日本社会は一億総中流で同質社会だという認識が広まりました。いわゆる「日本人論」のピークも70年代から80年代ですが、たいてい「大企業型」の生き方が「日本人の生き方」だとされていました。

日本のしくみだと、階級や階層の格差を自覚するのが難しい。アメリカやヨーロッパ、あるいはインドの企業だと、ホワイトカラーとブルーカラーの差は画然としていて、同じ会社の中に階層差があるのがはっきりわかります。日本だと、同じ会社の中ではそれが見えにくい。実際に統計を取ってみると、日本でも格差、たとえば企業間賃金格差や地域間格差があるのですが、一つの社内で生きているとそれが自覚できない。企業というコミュニティーを1歩出ると格差があるわけですが、同じコミュニティーの中でぐるぐる回っている限りはみんな平等にみえます。

2000年代になって非正規雇用の問題が注目されたのはそれも一因でしょう。「同じ企業」の中なのに、格差があることが目に入ってくる。統計的にどうこう以前に、目の前の人間と格差があることが明確にわかる。こういう問題は、高度成長後の日本社会では経験してこなかったのです。そのためか最近は、「上級国民」「下級国民」とかいう言葉が出てくるようになりました。そこはすこし変わったなとは思う。マクロ的には、それ以前から企業規模間格差とか、出稼ぎの臨時工とか、見えにくい格差はずっとあったのですけどね。

2009年1月5日 「年越し派遣村」が開設された東京 日比谷公園で炊き出しに並ぶ人たち

――アメリカやヨーロッパでは、高い地位の職業につくにはそれに対応した修士号や博士号が必要になっていると指摘されています。なぜ日本では他の国のような動きが起きてこなかったのでしょうか。

ひと言で言ってしまえば、やっぱりそれ以前のシステムをもたせたからですよね。80年代以降に、特にアメリカは、大学院で学位を取った人間が高い地位に就くというシステムを作っていきました。今ではヨーロッパもそうなっていますけれども、特定の役職に就くには、その役職に対応した専門の修士号や博士号が要求される。逆に言えば、修士号、博士号をもっていれば、他企業からの人でも、勤続年数が少なくても、女性でも黒人でも構わないというシステムを作りました。

でも、日本はその方向には行かなかった。なぜ行かなかったかというとアメリカのように「職務」の範囲が決まっていませんでした。どこまでが誰の仕事かを明確に切り分けるということをやっていないので、その職務の専門学位のある人をそのポストに就けるという方法はとれませんでした。

さらに、「博士号をとらないと管理職や役員になれません」といったシステムは、日本の役員も経営者も導入したくなかったでしょう。自分より学歴の高い女性や、他企業からの転入者が入ってきて、自分の地位を追われるのは嫌だったでしょう。アメリカだと、基本的に株主の力が強くて、「経営者にはもっと優秀で経営学修士の資格がある人材を採れ」という圧力が働くわけですけれども、日本はそういう力が働きませんでした。

日本の雇用慣行は、基本的には新卒一括採用で、社内での経験に応じて、社内でしか通用しないランクで格付けされて出世していくというシステムです。どこの大学を出たかという意味での学歴は、会社に入る時点では重要だけれど、その後は「社内のがんばり」の方が重要になります。いったん同じ会社に入ってしまえば、あとはどれだけ陰日向なく働くかまで含めて、ちゃんと上司が見てくれて評価してくれる。それが日本の労働者の望みだったのだと思いますよ。

経済学者の遠藤公嗣さんが「役職位と学歴にかかわらない企業内の平等処遇が、日本の労働者が理解した戦後民主主義であった」(※1)と述べています。日本の労働者は、出身と学歴によって差別されないことを望み、実際にそういう会社を作っていったわけです。もちろんその処遇の平等性は、全社会的なものではなくて、個々の会社の内部でしか通用しないものでしたが。

(※1)出典:遠藤公嗣『日本の人事査定』1999.5

“古い日本”を支える外国人

施設利用者の世話をするインドネシア人の介護福祉士(2017年3月)

――社会の変化でいいますと、日本社会に外国にルーツを保つ人たちが増えてきたということもあります。平成のはじめごろから、日本は政策として、日系ブラジル人などを労働力として受け入れてきました。ただ、外国人への日本語教育などは国としてはほとんど仕組みを用意しておらず、社会に包摂されているとは言いがたいです。この30年間をどう見ていますか。

外国人労働者についていえば、日本社会の構造をもたせるために、「足りない部分に人を入れる」という以上のことは何もやってきませんでした。国レベルで言えば、担当する官庁すらない。強いていえば警察と入管だけです。自治体レベルでは、いろいろやらざるをえなかった、あるいは一生懸命やろうとしたところもあると思いますけども、国としてはそういうものだったと思います。

そして「足りない部分」はどこかといえば、大企業正社員ではない。日本の人がやりたくない仕事の部分です。具体的には、流通、飲食、介護です。そして都市部よりも地方の、しかも一番衰弱している産業。たとえば農林水産業、建設、繊維などです。つまり外国人労働者を、結果としては日本社会の一番衰退していて、古い部分を維持するのに使ったということです。

ジャーナリストの安田浩一さん(※2)が書いていたのですが、私はとても印象に残っている記述がありました。外国人労働者が入ると日本の社会が変わってしまうとか、崩れてしまうというのはとんでもない間違いで、外国人労働者が日本のいちばん古い風景を維持しているのだというのです。

(※2)出典:安田浩一『ルポ 外国人「隷属」労働者/G2 No.17 2014年9月号』
「ビニールハウスの群れと、どこまでも続く緑の農地を視野に収めながら、私は複雑な気持ちになった。これこそ典型的な日本の風景だ。/その日本が、日本の地場産業が、低賃金で働く外国人実習生によって、ぎりぎりのところで生き永らえている。外国人によって日本の風景が守られている。」


つまり、低賃金で働く外国人を入れることで、古い部分を延命している。とくに技能実習制度については、私はあの制度は「人間補助金」とさえ言えると思っています。

――「人間補助金」?

技能実習制度では、滞在期間のたとえば3年は、受け入れ企業を基本的に変更できない。つまり待遇が悪くとも転職できないし、勤務先の企業や業界も選べません。そして政治の力で、指定した産業に、外国人実習生を割り当てています。つまり市場経済では人が集まらない産業、このままではもたない古い産業に、政治的に労働力を配分しています。そして配分先は、往々にして自民党の政治家たちが、補助金を配分してきた産業でもあります。だから、技能実習生は、極端に言えば「人間補助金」を配分しているとも言えるわけです。

――4月に入管法が改正されて「特定技能」が創設されました。今の技能実習制度がスライドしていくことを想定している制度です。これは、引き続き構造を「もたせていく」ということでしょうか。

そういうことだと私は受けとめています。あの政策を推進したのは自民党の農林部会など、いわば一番古い産業を担当している政治家たちでした。つまりいちばん保守的な政治家たちが、“移民”を導入したわけです。だから、ほとんど反対もなく通ったともいえます。「外国人が日本を壊す」政策だなんて批判しているのは一部の人たちだけでしょう。

――平成の中で外国人労働者が増えて、日本に残る人も増えて、子どもも増えてくる中で、令和の時代においてさらに増えるとしたら、それは慣れるしかないということですか。

日本側の人にとっては「慣れなくてはいけないのか」の問題かもしれませんが、入る側にとってみれば人権の問題です。実習生の全員の待遇が悪いわけでもないでしょうが、ばらつきがひどい。実質的に監理団体(※3)に任せっぱなしで、受け入れ企業の経営者の人格しだいといった状況ですから。

(※3)監理団体=技能実習生の受け入れを仲介し、実習生を受け入れた企業が計画に基づいて技能実習を実施しているかどうかを確認・指導する団体

なぜそうなるかというと、行政の手が足りないからです。労働基準監督署の人手も足りないから、個々の企業の経営者と、商工会や農業協同組合といった監理団体にまかせるしかない。私は、日本の社会は行政の人手が少なすぎると思います。人口千人当たりの公務員の数は、フランスの3分の1、アメリカの2分の1くらいです。

ただし、行政の「命令力」や「規定力」だけはやたらとある。けれども、基本的にはいわば「間接統治」で、行政が業界団体や監理団体に対して指示して、あとは業界団体にまかせるしかありません。直接に管理するほど手足となる人員は行政はもっていないですから。

――なぜ行政の人員が少ないのでしょうか。

日本は近代化が遅かった国だったので、先進国に比べてソーシャルキャピタル(地域のつながりや人間関係)がとても豊かでした。だから、行政は方針だけは出すけれども、地域のことは地域で、業界のことは業界でやってくださいという、そういう姿勢でやってきたからでしょう。

これまでの日本は、非常に安上がりな国家だったと思います。地域社会の力にあぐらをかいて、行政職員を増やさないでやってきた。なんでそんな安上がりな国家が築けたかと言えば、遅れて近代化したがゆえに、地域社会の関係が多かったからだと思います。自治会長か中学校の先生に聞けば、その地域のどこの家族が貧困であるか、おおかたわかる。つい最近までそういう社会でした。

ところが、それがもたなくなってきました。地域社会を支えていた自営業の人々、具体的には町内会や自治会や商店会を担ってきた人々が、高齢化するか、非正規雇用に移動している。そうなれば、地域のつながりは希薄になります。そうなると、行政が自治会や業界団体に方針を示しても、地域の末端や業界の末端まで、それが行きわたらなくなりました。私は、基本的には、他の先進国の基準程度には、公務員を増やさないとこれからもたないと思います。

――自営業が減って非正規雇用の労働者が増えるというトレンドがあると、働くにしても賃金が高い方に、ということで、東京、大都市圏に集中するのは必然的な動きになってきますか。

そう思いますね。統計的に明らかですが、90年代の半ばまでは、景気のいいときは都市部への移動が多く、景気が悪くなると地方に帰る移動が多くなっていた。しかし90年代後半以降はずっと地方から都市に一方通行で出っぱなしですから。それは当然、地域社会の関係の減少にもつながります。

――そうして疲弊した地方に、今度は外国人労働者を入れているという大きな構造があるわけですね。

外国人でもたせようとしているということです。でも、その外国人が自然とその地域へ行くならまだしも、政治的に補助金のように人間を割り当てるのは、いい政策とは私は思いません。

地域コミュニティーに頼って、公務員も少なくてやっていける「安上がりの国家」というのは一時的に偶然成り立っていた現象でした。終身雇用が実現できるような「大企業型」が実際には有業者の3割程度だったのに、「一億総中流」のようにみえたのは、下の7割が地域社会で安定していたからです。それは、一時の僥倖(ぎょうこう)だったと思ってくださいとしか言いようがないですよね。

これは社会保障も同じです。自民党が、家族と地域と会社で助け合うのが日本型福祉社会であるという本を出したのは1979年でした。その前提で、公的な社会保障が少なくともよいという、安上がりな国家を築いていたわけです。昔なら、農林自営業者は持ち家もあるし、畑で自分の食べ物もとれるし、地域の相互扶助もあるから、満額でも月額6万円台の国民年金でもやっていけたかもしれません。しかし彼らが非正規雇用になったら、生きていけないでしょう。

それでも90年代までは公共事業を含めていろいろな補助金をたくさん出し、地域コミュニティーをもたせてきました。利益誘導と言われようと、産業誘致で公害が出たと言われようと、それで人口を都市部に流出させなかったという効果はあったでしょう。

しかし公共事業というのは、やればやるほど、農家が農業をやめて建設の非正規労働者になってしまうということでもあった。もたせようとする努力そのものが、地域の構造を変えてきたわけです。つまり、随分かなり無理をして「もたせてきた」わけです。よく21世紀までもたせたと思いますね。それが、もうさすがにもたなくなったというのが現状でしょう。

「しくみ」は変わるのか

――これからどうなっていくと考えますか。

この「しくみ」を変えないでいった場合にどうなるかというと、3割の「大企業型」と、そのほかの7割の間の格差が、ますます開いていくことになります。下の7割は、かなり苦しい状態になると思います。具体的には地方の疲弊、都市部の非正規労働者の貧困、あるいは高齢者貧困者の増大という形で、すでに表れていると思います。基本的にはこの3つは同じ問題が異なる形で表れている現象です。

さらに、「大企業型」の3割弱も減っていくかもしれません。企業が新卒採用を絞り込んでいくとすれば、3割が2割になり、1割になり、となっていくかもしれない。そうなってくると、戦前の秩序にだんだん近づいていく。戦後の民主化と労働運動によって、ごく一部の特権だった長期雇用と年功賃金が3割まで広がったわけですから、それが縮んでいく場合は戦前回帰といえなくもないと思います。

ただし、そうならない可能性もあります。企業が新卒採用をしぼっていくと、部下のひとりもいない課長とかを設けなくてはならなくなって、企業秩序のバランスが崩れる。だからこれまでも限界だといわれながら組織の形を維持しようとしてきました。

基本のしくみは変えないままならば質が劣化していくでしょう。具体的には、年功賃金ではあるけれども上がる金額が少ないとか、長期雇用ではあるけれども長時間労働だとかです。これは1970年代以降、ずっと続いてきたトレンドでもあります。

――もうこのしくみがもたないとなったときに、私たちは何をあきらめなくてはならないのでしょうか。

最低限、「安上がりな国家」はもうもたないと思います。企業の正社員の数を増やすのはもう限界だとすれば、即効性があるのは公務員を増やすことですね。これで下の7割の正規雇用を増やすとともに、ケアワーカーなどを増やして、行政サービスが行き届くようにする。これはスウェーデンなどがとってきた戦略でもあります。そうなると、税金を上げざるを得ないでしょうが。

――「税金を上げる」「公務員を増やす」というと、抵抗がある人が多いのでは?

「公務員を増やす」と「官僚を増やす」はぜんぜん違います。私が言っているのは、現場で働くケアワーカーや福祉職員を増やすということです。2000年代に、公務員を減らせというブームが起きたとき、削減された公務員を調べると、中央のキャリア官僚ではなく、現場の公務員が減っていますから。それでも官庁は、「これだけ公務員を減らしました」と名目的な数は出せますからね。

――公務員の疲弊、たとえばケアワーカーの方も非正規雇用の方が多いですし、そのあたりもしっかり手当てしていくということですか。

そういうことです。あとは民生委員のように、地域社会の自営業者などが無給のボランティアでやっていた仕事を有給化することでしょう。そこを全部、地域社会の力に頼って、安上がりにすましてきたのが、現在ツケになって出てきているのだと思います。

――日本が「良かった」ころと比べて、今の先の見えない状況を、不安に感じている人もいると思います。

今だけが特別に苦しいとは思いません、いつの時代もみんな苦しかった。1950年代とか30年代の資料を読んでいると、別の意味で苦しんでいる。60年代や70年代の日本なんて、食べ物は添加物だらけだし、公害も多いし、暴力も多いし、街はゴミだらけだし、今みたいなセンシティブでクリーンな社会じゃない。女性は24歳までに結婚しなければ「売れ残り」扱いですよ。みんなそれが嫌だったから、そうじゃない社会に変えてきたのでしょう?

――この50年、得たものと失ったものがあって、これからも選ばなきゃいけないってことに自覚的になった方がいいということですか。

「自分が一番大切にしたいものは何か」というふうに考えたほうがいいとは思いますね。たとえば引退したご老人が、平穏で静かな生活を守りたいので近くに公園ができてジャングルジムができるのは困るというなら、それと引き換えに社会が少子化するのはそのつもりでいてください、ということです。

私は基本的には、そう単純に言えないこともあると思うけれども、結局は社会の多数派の意思が、社会のありかたを決めていると思っています。現状および未来は、「あなたがたが望んでいるように」なっている。「こんなはずではない」っていうのは、よく解きほぐしてみると「あなたがたが望んだことです」としか言いようがないことが多いです。

――社会の「しくみ」がもたなくなったとき、何が求められていると思いますか。

「プライオリティをつけられるようになる」ということと、「変化を怖がらない」ということが大切だと思います。プライオリティをつけるとは、自分にとって何が大切か、何を捨ててもいいか決めるということです。

たとえば「専門能力を評価してもらいたい」というのと、「同じ会社に入ったら全員平等に扱ってもらいたい」というのは両立しない。「格差も作りたくないけど、税金も上げてもらいたくない」というのは無理です。「金持ちからまず税金を取れ」というのは感情としてわかる。けれども、「金持ちだけから取れ、自分からは取るな」というのでは社会はもちません。税金は上げてもらいたくないと言うなら、格差が広がって治安が悪化しても気にしないでくださいということです。それは、薄々みんなわかっていると思いますね。

――だからこそ「変化を怖がらない」ことが大切なのでしょうか。

「一切何も変えたくない」というのは、いまもっているものは全部失いたくないということでしょう。この10数年の日本の世論は、変化を嫌がる方向に進んでいると思います。90年代の終わりから2000年代のはじめは、もうちょっと改革ムードが高かった。誤解も含めて、ヨーロッパやアメリカの働き方などが美化された時期でもありました。ただやはりそれは、2008年の金融危機で欧米の景気が悪くなる前まで。あるいは、2009年に民主党政権ができるところまでです。

最近の世論調査をみると、全体的にとても変化を嫌がっていると感じています。「憲法を変えたいですか?」と尋ねると「変えなくていい」。「政権を変えたいですか?」と尋ねると「変えなくていい」。変わってよくなりそうもないから現状維持、という意識が強そうです。とはいえそれは、このままではもたない、ひどくなりそうだ、という直感はみんなもっているからでしょう。

人間も社会も、変化していくものです。過去の状態で止めておくことはできません。「このままでいたい」と思うなら、本当に大切にしたいものは何か、変えてもいいものは何か、考えるべきでしょう。

【プロフィール】
小熊英二(おぐま・えいじ)
1962年東京生まれ。東京大学農学部卒。出版社勤務を経て、東京大学大学院博士課程修了。現在、慶應義塾大学総合政策学部教授。 主な著書に『単一民族神話の起源』『<民主>と<愛国>』など。膨大な資料をもとに近代日本の意識の変遷をあきらかにする研究を続けている。