吉岡忍さん「なぜ、彼は人を殺したのか」

東京・埼玉幼女連続誘拐殺人事件に、神戸児童連続殺傷事件、そして秋葉原通り魔事件…。ノンフィクション作家の吉岡忍さんは、昭和から平成にかけて数多くの事件現場を取材してきた。吉岡さんがこだわってきたのが「加害者の取材」。理解しにくい存在を排除せず、知ろうとすることが、時代を、社会を知ることにつながるという。吉岡さんに「事件から見た平成の30年間」について語ってもらった。(聞き手:ネットワーク報道部記者 高橋大地)

平成の事件に共通するのは「歴史の蒸発」

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――平成という時代をひとことで表すと、どのような時代でしたでしょうか。

平成の時代というのはいろんな事件、嫌な事件が多いですけれども、被害者ではなくて加害者のほうばかりと言ってもいいくらいに、加害者側を僕は取材してきたんですね。彼らがどんな子ども時代を過ごし、どんな友達関係があって、そしてなぜ犯行に至ったのか、というプロセスを取材してくると気がついたことがいくつかあって、その1つが「歴史の蒸発」です。

加害者は大体いろんな妄想を持って事件に突き進んでいくんですが、そのブレーキになるのは、いろんな人間に対する考え方だとか、我々がいったいどこから来たのかというふうな、過去の歴史についての知識だと思うんですが、それが全くない事に気が付くんですね。ある犯人の場合はですね、日本とアメリカが戦争したことすら知らない。広島に修学旅行に行きながら原爆が落ちたことも知らない。そういう少年時代を過ごしてきて、今に至っている。 これがいろんな暴力事件のブレーキになるはずなのに、そういうことを知っていれば、いったい人間はどれだけ残酷になるのかとか、どれだけひどいことしてしまうものかということがわかるはずなのに、そういう歴史がまったく欠如していて、そのまま事件につき進んでいくっていう軌跡をあちこちで見たんですね。それが平成の事件に共通していたと思います。その意味で「歴史の蒸発」という言葉が、頭に浮かんだんです。

事件は私たちが暮らす この時代が作り出している

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幼女連続誘拐殺人事件の捜索 埼玉 入間 昭和63年(1988)

――共通するということは、個人ではなく時代に理由があったと?

平成の一番最初の大きな事件というのは、幼女連続誘拐殺害事件なんですね。これは昭和の終わりから平成の初めにかけて起きた事件で、東京の郊外、埼玉にかけて4人の幼女が次々誘拐されて、そして殺されて遺体を損壊されたり、あるいは、その遺骨が被害者の家に両親の所に届けられたり、非常に凄惨な事件だったんですね。いったいこれはなぜ起きたのかってことを、当然みんなも思いましたし、私もそう思って、現地にずっと泊まり込んで取材していたんです。

事件の取材は、いろんな方法があると思います。もちろん、被害を受けた側の怒りと悲しみを取材する方法もあると思います。私はどちらかというと加害者の方に取材の方向を向けていくんですね。なぜかというと、こういう事件というのは、一緒に我々が暮らしている時代がどういう人間像を作り出したのか、そしてその人間像はその時代の中でどういう動機を作ってきたか。その生い立ちを見ると、あるいは友達関係の中で何を発言したり、どんな振る舞いをしたりしたのかを調べていくと、やっぱり時代が作り出したということがよくわかるんですね。

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事件を題材に執筆を続けてきた 平成7年(1995)

時代とか社会というのは、普通はのっぺりしていますから、取っかかりがないわけですよ。私たち一人一人にとって見ても、どこから入っていけば世の中が見えるのか、なかなかわかりにくいと思うんですけれども、そういう事件はある瞬間、その事件が起きた時、世の中の断面というのを本当に鋭利な刃物で切り裂いたように、時代の断面が見えるんですね。

彼の生い立ちというものを調べていくと、我々はどういう時代を生きてきたのかそれは彼だけではなくて、同じ環境に私たちもいるわけですから、我々もどういう時代を生きてきたのかってことが見える。そういう意味で私は事件取材というのは、事件そのものを取材するし、犯人も取材しますけれども、同時に我々自身も取材するという見方をするんですね。

幼女連続誘拐殺人事件と映像の攻撃性

それでこの事件も調べ始めました。最初はもちろんわかりませんけれども、もともと彼は手に障害があって、なかなかそれを人に言えなくてうっ屈していたという若い時代を過ごすんですね。ちょうど、バブルがバーッと、花開いた時代でしたから、さまざまな映像メディアというものが、レンタルビデオもあるし、セルビデオもあればさまざまなものがあふれかえっていて。それをコレクションする、単に集めるだけじゃなくて人が持っていないものを大量に持つことによって、ある種の優越感を持つ。そういうふうにして、手の障害があってなかなか思うように振る舞えない時に、他と一生懸命に張り合おうとする。

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宮崎勤 元死刑囚

ところがだんだん彼が映像の力っていうのに気が付いてくるんですね。彼は写真の学校に行っていまして、最初あんまりカメラに興味なかったんですけど、ある時カメラをもって小さな都内の公園に行ってね、女の子が鉄棒で逆上がりしているところを写真に撮ったんですね。その時、彼が何を思ったか。「ざまぁ見ろ」と思ったということを語っているんですね。これどういう事なのかなと、考えてみますとね。非常に珍しいもの、写真を集めている当時のオタクの世界では、ある種優越感を持てる。例えば「逆上がりしている女の子の下着が見えたりするような写真を、これはなかなかみんな持ってない自分だけが持っているものだ。そういうものを盗み見た物を映像化したぞ」っていう意味での、「ざまぁ見ろ」。非常に攻撃的なんですよね、映像はこれだけ攻撃的になるのか。その考え方一つで、だんだん自分の攻撃性というのをどんどん強くしていった。

例えばカメラがあったとすれば、カメラを使って自分の表現ってものに更に磨きをかけていくという方向に行くことも可能だと思うんです。いろんな美術とか写真というものは、自分の中にあるもやもやとした積極性とか攻撃性を育てることによって自分の腕を磨いていくわけですよね、でもそこで止まってしまった。攻撃的であるだけに、なぜここで止まったのか。

なぜ彼は人を殺し、私たちは殺さないのか

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普通、人間は頭でいろんなことを妄想も含めていろんなグロテスクなことも含めて考えます。考えるけど、それをなかなか実行に移さないのが普通です。なぜ、彼だけはそういう殺人事件を起こしていって、ほかの人はそういうふうにならないのはなぜなのか。というふうに考えてみると、やっぱり自分の中にブレーキがある。一般の人たちは、それまで人間の生い立ちの中につきあった友達もいれば、親もいればきっと隣近所の人もいれば、いろんな人間たちに会ってきて人間がどうやって生きているのか、なかなか言葉にならなくても実感としては知っていることがたくさんあります。そうやって自分も生きている人間の一人であって、というふうにして何かブレーキをかける。

あるいは人間がどれだけ残酷になれるか、例えば戦争のことを知っていれば、戦争を語る言葉っていっぱいあって、当時の国際戦略から語る人もいれば、戦場の人間の姿から語る人もいます。その人間の姿を見ていれば、人間はこれだけ、こういう所に置かれたら残酷になる、残虐にもなる、悲惨な目に遭うということを知っていれば、今生きることの命のかけがえのなさもわかってくるわけですね。それが一人一人の中にブレーキとなっているんだけれども、そのことを知らなければ、歴史も知らなければ、あるいは他人とのそういう交わりも少なければ、自分の妄想や、力の誇示、攻撃性だけをどんどん強くしていく。

しかし、とは言ったってそれほど人間強くなれないですから、必ず、その暴力というのは弱い人に行く。例えばこの事件の場合は、子ども、幼児ですね。4歳5歳6歳7歳という幼女に向かって自分の力を誇示する。そこでこの事件の場合は、もう1つ言われたことが、解離性の人格障害つまり、多重人格ということ。さすがに自分の中に「やっぱりこれまずいな」って気持ちはどこかにあるんですね。でもそれを乗り越えるために違う人格、「自分の今のこの人格ではなくて別の人格が、事件を起こしたんだ」というふうに、頭の中で考えていく。多重人格っていうのは裁判になってから、精神鑑定が行われまして。当時26、27歳ですけれども、そういう精神鑑定もありましたけれど、多重人格によって自分を守っていくというふうな防御のメカニズムが働いたりした。

ということを考えていくと、やっぱり、平成の始まりのところにですね、人間の中にある攻撃性とか暴力性を、抑制するブレーキというものがないところから始まった気がするんですね。いろんなことを知っておく、歴史を含め、知識が、強烈に欠如していた気がします。

児童殺傷事件は歴史から切り離されたニュータウンで起きた

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少年が新聞社に送った犯行声明

――そういった時代になった背景には何があったのでしょうか。

もう1つの、いわゆる「酒鬼薔薇事件」、神戸市の少年A事件がありましたね。あれに最も典型的に現れていると思うんですけれども、あれは神戸市の郊外の新しい街、ニュータウンで当時14歳の少年が幼女を殺したり、児童を殺害したりして、遺体の一部を中学校の校門に置いたりという、これまた凄惨(せいさん)な事件です。同時にあの事件の場合は犯行声明文というものが出て、「さあゲームの始まりです」とか「酒鬼薔薇聖斗」というふうな名前が書かれていて、これは非常にまた特異な事件だったですね。

この事件を調べたときに感じたことですけれども、事件が起きたのはとても清潔感があり整然としたニュータウンでした。私が「生活圏の街」と呼ぶ、生活しかない、もっといえば消費しかない街、そういう街の印象でしたね。で、あの街には、お墓がないんです。普通、人間は元気に生きる時もあれば、死ぬ時もある。死というものを、近くにお墓があったり、お寺があったりして、人は子どもの時から死というものを意識するわけです。ところがあの街には、お墓がぜんぜんない。不思議な街なんですね。でも清潔だし便利そうだし整然としている。こういう町で、子どもですから、いろいろなこと考えますよね。アニメを見たり、ホラービデオを見たりして、いろんなことを少年は考えた。

家族をみると、日本の南の方の島から明治、大正の時代、当時、日本がちょうど工業国になっていく時に神戸にやってきた。神戸というのは造船の町で、今は異人街があって、きれいな店、街が見えますけれども、日本の工業の発祥地の1つですね。そこで造船業の仕事に就いたんです。おじいさんの時代ですよ。それはおじいさんだけじゃなくて、その南の方の島の人たちはたくさん神戸に来たんですね。神戸市の中心街にその島からの出身者だけで形成されているコミュニティーがあるくらいたくさんの人たちが来た。それで、一番苦労したんですよ。造船っていろんな仕事がありますけれども、一番船の底のほうで、もう本当に暑いです。もう空気が逃げない所で溶接の作業があるんですけど、これをやる人なかなかいなかった。で、南のほうから出稼ぎに来た人たちが、出稼ぎというか定住していますけれども、そうした労働者たちがやったんですね。

そういう暮らしをしていて、今度お父さんの代になって、違う仕事に就き、そしてそのニュータウンに家を買って、そして親子で暮らしていた。つまりこう、明治、大正、昭和とそして、平成の頭に至るまでの一家の家族史をみると、だんだんこうステップアップして。みんな苦労していますよ、それぞれの世代の中でね。そしてやっとニュータウンにきた、一軒家をやっと持ったというね。時代の中で普通の人たちが、庶民がどう生きてきたのかってことがよくわかるような家族史を持っているんですね。

そういう家族史が、あの少年に伝わっていたか。伝わってなかったと思いますね。おじいさんが亡くなられておばあさんが子どものころは住んでいましたけれど、もうその少年はそのニュータウンの子ですよ。その歴史を知らない。

「清潔な」街の裏にあるものに目を背けてきた時代

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小6男児が殺害された現場 神戸 平成9年(1997)

それで、アニメを見て、ホラービデオを見て、いろんなことを考えるわけですね、頭の中で。子どもですから、そういうのって子どもとしては当たり前のこと。子ども時代にいろんな夢を見ない、気持ち悪い夢まで含めて見ない子はいませんからね。で、それを見てですね。まだ小学生の時だと思いますけれども、そうやって夢に見たりとか妄想したりした事柄を、学校で粘土細工にして作ったんですよ。どういうものかというと、心臓のような形をした粘土を固めてですね、そこにカッターナイフの刃を埋め込んで、触れば危険といえば危険、気持ち悪いといえば気持ち悪い。そういうものを作ったんですよ。初めて自分の心の中にあった気持ちの悪いものを形にしたというふうにいってもいいと思います。でもいろんなアートというものは、そうやって作られていくものですね。アーティストの頭の中で、心の中でいろんな妄想の中でさまざまな浮かんだものを形にしていくというのは、一番基本的な形です。

ところがそれをですね、学校の先生が見て「こんな気持ち悪いもの作って駄目じゃないの」とまず怒った。しかも家庭訪問して、「お宅のお子さんこんなもの作りましたよ」と、「家でも注意してください」みたいな注意をしちゃったんですよ。それ以来、その少年Aは、自分の思っていることを言わなくなるわけです。あるいは自分の思っていることを形にしなくなるわけです。ですから周りにはとてもいい子に見えているわけです。だけど頭の中にグロテスクなさまざまなキャラクターが生き始めて、動いている。それを今度止める、ブレーキになるものがやっぱり育ってない。彼の中にね、祖父や父親たちの歴史も伝わってない。そのニュータウンのきれいな所で猫を殺したりとかそういうことから始めて、そして全然ブレーキが利かないまま、いろんな犯行に及んでしまうという軌跡をたどっていきます。

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遺体の一部が置かれていた中学校の校門 神戸

そういう街ですから、「まさか自分たちのコミュニティーの内側にそんなひどい事をする、犯人がいるはずがない。みんなこれは外から来た人間の仕業にちがいない」といって、みんな事件が起きたあたりから夜回りをしたりとか、パトロールしたりしているわけ。でも実は清潔感のある街の内側から、こういうグロテスクな妄想と、グロテスクな事件が始まっていたということが、この事件を調べているとわかるわけです。

そうなると、高度成長期からバブルを経て、平成の時代というのは、日本中の町が「清潔だ」と言いだす時から始まるわけです。清潔に見えるんだけれど、実はその内側にいろんなドロドロしたものを抱え込んでいて、そのことにみんな目を背けてしまう、なかなかそこを見ようとしないという時代が、このあたりから始まったのかなというふうに思いますね。

――それまでの時代では起きなかった事件だったということでしょうか。

それ以前の時代でも恐らく、小さないたずらはやっているわけですよ。猫を捕まえてきて殺してしまうみたいな。でも、それに周りの人が気が付くわけです。「おまえ何やってんの」という隣近所の目があったりするわけですね。それがないじゃないですかニュータウンは。何か悪いことをしても、大人がわかっていてもなかなか人の家の子どもを注意するのはしにくいとかね。

ですから清潔な街なんだけど、お互いが無関心、無干渉になっていく。子どもは「生活圏の街」、ニュータウンで暮らしていると、大人が働いているところとか、大人が悩んだり苦しんだり喜んだりしながら働いている姿とかを見てないわけですよね。ですから、ますますブレーキがなくなる。人からも言われない、自分の中にもブレーキができないというふうになっていくんじゃないかなという風に思いますね。

すべては幼女連続誘拐殺人事件から始まった

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女児が行方不明になった公園 東京 江東区 平成元年(1989)

――そのうえで、あらためて平成を象徴する事件というと何になるのでしょうか?

始まりを告げたという意味で、やはり連続幼女誘拐殺害事件ですね。1980年代のおしまいから90年代になりますね、平成の冒頭というのは。あのころは、気持ち悪い事件がいっぱいありました。連続幼女誘拐殺害事件もそうだし、少年Aの事件もそうでした。気持ち悪い事件っていうのはその2つだけじゃなくて、いろんなところで起きた。例えば、先生をいきなりナイフで刺してしまった少年の事件とか。それから母を殺してしまって、遺体をばらして、鉢植えに植えてあったとか。

気持ち悪い事件いっぱいあったんですよ、でもその現場訪ねてみると、みんな、きれいな町なんですよ。古そうに見える町でも、人間関係が全く都会と一緒になっていて、おじいちゃんおばあちゃんが縁側に座って近くの子どもたちに「コラーッ」とか言いながら注意したりとか、一緒に笑ったりとかいうことも全くない。そういう街でしたね。ニュータウンとか、かつての伝統だとか歴史だとかが消えた集落はどこも一緒だなというふうに思いましたね。

オウム真理教にもあった「歴史の蒸発」

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地下鉄サリン事件 平成7年(1995)

――連続幼女誘拐殺人事件が、その後の事件にもつながっていくということでしょうか。

その後、その傾向はますます深まってきましたね。「歴史の蒸発」ということで言うと、オウム事件もあります。地下鉄サリン事件というのは、阪神・淡路大震災のあとに起きた事件で、あっという間に阪神・淡路大震災のニュースからオウム事件へと移っていきました。これはとんでもない事件で、地下鉄で12人、翌日に亡くなった方を含めて13人、6300人が影響を受けたという大きな事件でしたけれども、この事件でも私は信者たちを随分取材をしました。

いくつか道場があったんですよ、都内にもありました。まだオウムの事件と断定される前は信者たちが街頭に出て、いろんなチラシを配ったりしていました。そういう人の話を聞いたり、道場を一つ一つ訪ねたりしていました。ほとんどの信者たちはこのオウム事件の関係者ではなかったですけれども、この人たちの話を聞いていくと幾つか気が付いたことがありまして。

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平成はバブル絶頂期でスタートした 平成元年(1989)

経済的にいうとバブルは崩壊していたかもしれませんが、ちょっと思い出して頂きたいんですけれども、あの時代、90年代の頭から真ん中にかけてですけどね。バブルは、普通の我々の生活の中で何が起きていたかというと、とにかく、株、土地、ゴルフ会員権に投資して、お金をもうけるとか、ものすごく身近にお金もうけの話があって、それを全部足してみると日本列島1つでアメリカが2つ買えるぞ、みたいなとんでもない誇大妄想があったり、それから六本木のディスコに行くとお立ち台があってみんな大騒ぎしていたりとか。クリスマスになると東京中の一流ホテルが全部若いカップルで満杯になるとか。とんでもない狂騒状態が、東京だけじゃなくて日本中で広がった時代ですよ。

この時、若い信者たちがそういう情景を一つ一つあげて、「いったいこれでいいんですか日本は」「こんな、時代、世の中ってものは、自分は間違っていると思うし、ここから逃げたいと思う」という嫌悪感ですね、この時代に対する。それをよく語っていたんですね。もう一人残らずといってもいいくらい語っていたと思います。その意味に限ってだけでいうと、私は同意しますね。あまりにひどかったですね。私は当時よくヨーロッパとかアメリカを往復していて、ほとんどの1年のうちを半分を日本で、半分を外国で過ごしていました。ちょうど、ベルリンの壁が崩れ、東西冷戦が終わっていく中で、みんな一生懸命「いったい次の時代はどうしたらいいんだ」と考えている時、日本だけがって言ってもいいと思いますけれども、狂騒状態にあるわけですよ。「これ、どうなっちゃってるんだ」というふうに私はその時思いました。

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オウム真理教の道場 平成元年(1989)

同じことを彼らはやっぱり言うわけですよね。その感覚は正確だったというふうに思いますけれども、もう1つ問題はこの目の前にある何とも訳がわからないけれど、そのことに対する拒否感を示すのはいいんだけれど、じゃあどうするのかと言った時に、彼らの教義はオウム真理教で教えていたものは、何とも突拍子もないっていうものに私は受け取れたんですね。

オウム真理教はたくさん本を出していました。私も20~30冊読んだと思います。いろんなことが書かれていますけれども、1つ典型的なのは、こういう時代にハルマゲドンが来ると。世界最終戦争ですね、ハルマゲドンが来て、ここから君ら信者は生き延びなければならない。それだけに厳しい修行をしなさいということと、その修行の中には「ポア」というものがある。自分が助かるだけじゃなくて他人の命を高い次元に移すことによって、その彼をあるいは彼女を、精神の高みに上げてやることができる。その「ポア」というのは人を殺すことなんですね。相手の精神も魂も高い次元にやることなんだから悪いことじゃないんだというふうなものまで入ってくる。

もともとはチベット仏教のバリエーションというか、チベット仏教それ自体はそんなこと言っていませんけど、そのバリエーションだと主張するわけですね。それをみんな信じる、信者の人たちはほとんど高学歴の若者たちでしたよね。今、話をしていると「そんなバカな」「そんなのありえるわけない」ってみんな思うけど、あまりにも周りがバブルに踊っていたものだから、本気に見えちゃうんですよね。不思議だなって思いましたけれども、地下鉄サリン事件や、坂本弁護士一家殺害事件などといったものがだんだん露見してくるにしたがって動揺するわけですよね。自分は関係ないから、リアリティーがないというか、何を考えていい、どう考えていいかわからないというふうな混乱状態に彼ら自身がだんだん陥っていくんですね。

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松本智津夫 元死刑囚

これはやっぱり歴史の問題にかかわっていくんですけれども、高学歴で大学院まで出て核戦争のことはとてもよく知っている。例えばアメリカの核は今どうなっている、ロシアの核はどうなっているってことまで彼らの教義には書いてありました。でもそれを読んでも、それが長崎にも広島にも落ちた原爆だとか、そのためにそういう悲惨なことがどれだけ生じたのか、そしてその前に原爆を落とされた日本はそれまでに何をやってきたのかとか、というふうなことが全く抜けているんです。一行もないんですよ。30冊くらい読んで一行もないんです。たかだか数十年前のできことですよ。それがなしにハルマゲドンのほうが怖いってなるわけ。この思考の倒錯っていうか、ひっくり返った様、いったい何なんだっていう風に思いましたね。

じゃあ誰がそれを教えるのかということになりますね。教科書を含めた学校教育でそういう仕事をして来たでしょう、あるいは僕らは子どもの時っていうのは、両親とか祖父母がまだ戦争体験を生々しく覚えていた時代ですから当然そこからも聞くことがあった。いろんなことを聞きながら僕らは育ってきたし、隣近所に聞くこともあったでしょう。学校、地域、家庭といろんな教育が行われる場所っていうのがありますけれども、昭和の時代からそれはもう始まっているかもしれませんけど、究極のところ平成の時代というのは、学校にそういう機能がなく、教育力がなくなり、家庭になくなり、地域になくなるというふうに、私たちがどのような時代を経て今ここにいるのかということを語る、きっかけが全くない。そういう時代に入ってしまったというふうに感じたんですね。オウム事件の時に一生懸命彼らのテキストを読んだ時に、あ、ここまで来たかっていうふうに感じましたね。

転換点は秋葉原通り魔事件

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事件が起きた秋葉原の交差点 平成20年(2008)

――平成の後半にもたくさん事件が起きましたが、つながりはあるのでしょうか。

それまでのオウム事件ぐらいまでと、それから秋葉原の通り魔事件とか相模原の障害者施設の事件、9人の遺体が見つかった神奈川 座間の事件、この辺りをずっと見ていますと、転換点があった気がするんですね。それはやっぱり秋葉原事件だったというふうに思うんですね。

僕もすぐに事件が起きた日から、秋葉原に行っていろんな取材をしました。またネット掲示板に彼は事件に至る直前まで、断片的であれ、たくさんのことを書き込んでいたんですね。それももちろん読みました。で、これをどう考えるかと思ったんですね。それは今までお話したような事件との比較の中でどう考えるか。で、ちょっと困ったなというふうに思いました。

それはね、幼女連続誘拐殺害事件にしても神戸市の事件にしても、まだ、それなりに彼らは場所、生きる場所を持てたんですね。「生活圏の街」であれ。だけど、この秋葉原の事件の時に、彼は東北で生まれて、そしていくつかの自動車部品工場だとか、いろんな警備会社とか、派遣労働をずっと転々としていくわけですよね。そうするともう彼に定点というものがなくなっているんですよね。このころから派遣労働という言葉が、普通に我々の知る言葉になったんですね。こういう形容がいいのかどうかわかりませんけど、流れる砂のように、若い彼らがですね、労働力としてこう漂っていくというイメージがあるんですね。結構つらい人生ですよ、それって。つらい生活ですよ、いつ切られるかわからないし、もちろん蓄えができるような高給をもらっていませんし、ですからいつでも動くことを強いられている。

これが当たり前の状況っていうものが、日本の中に生まれてきていて。それを経済学では新自由主義というふうに言うんでしょうけれど、生活実感からするとこれってたまらないですよね。そうするとものをじっと、一か所にとどまって何かを考えることほとんどできない。考えること自体全てぶつ切りにされていく。ネット掲示板に残されていた言葉っていうのは全部断片なんですよ。自分がこういう境遇にいるのがなぜかわからない、本人もわからない。

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加藤智大 死刑囚

それでトラックという自分の力の何倍も何百倍も大きくしてくれる車に乗って、秋葉原の交差点につっこんでいくわけですよね。これは自分の力を、そうやって暮らしてきた自分の力の誇示ですよね。「自分にはまだこれだけの力がある」ということがいわばストレートに犯罪になる、犯行になってしまう。人殺しになってしまう。殺されたほうもたまらないけど、傷ついたほうもたまらないけど、犯行に及んだ側も、これでいったい何ができたのかってこともわからない。そういうものですよね。

これを見た時に、どう考えたらいいのかこれは、恐らくこれはこういう事件が次から次に起きるだろうなと。で、結局、そういうところに押し込められているから、でも人間って押し込められてじっと我慢している人っていないですから何らかの形でもう1回、自分を作り変えていくんですよね。どういう形でしていくかは、いろんな方法があると思いますけれども、彼の場合はトラックを使う(事件だった)。

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犯行に使われたトラック

加害者の攻撃性 いつでも暴力は弱いものに向く

今までお話しした事件というのはね、結局、昔の事件とは違う。加害者と被害者がつながらないんですよ。加害者と被害者の間には恨みがあったとか、借金に追われていたとか何とかといって殺し合ったりしたのがかつての事件だとすれば、平成の時代に起きた事件というのは、われわれがゾッとして見ている事件は、どれも加害者と被害者がつながらない。不特定多数なんです、そこにたまたま歩いていたとか、たまたまそこで遊んでいたから被害にあったとか、みんなそうですよ。

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相模原障害者施設殺傷事件 平成28年(2016)

それからもう1つは攻撃性。暴力ってものは、必ず弱い人のところへいく。絶対自分より強いところはいきませんからね。知的障害者施設に飛び込んでいったりとか、自殺願望のある若い人たちを呼び寄せて殺してしまったりとか。または子どもに向かって、あるいは幼女に向くこともあれば、障害者に向くこともある。あるいは事件にならないまでも、生活保護の人たちに向いてとか、時には外国人に向いていくとか。

自分の力を誇示したいがために、どんどん弱いところを次から次に、見つけてそして攻撃していく、そして事件になっていく、こういう社会なんですよ、今。そのことの実態を見るためには、やっぱり人はなぜ事件を起こすのかという加害者の側を見ていかないと、この社会像というのは浮かび上がってこないじゃないかなというふうに思います。

私たちは加害者を「わからない」と言って切り捨ててきた

――彼らを、私たちや社会はどう受け止めてきたのでしょうか。

実は、幼女連続殺害事件のときからもすでに始まったんですけれども、最初はこういうふうに起きたんです。精神鑑定が行われた。精神鑑定は3通りの鑑定書が出たんですれけれども、1つは多重人格、1つは統合失調症、もう1つは性格の偏り。この性格の偏りってこの鑑定書、これは積み上げると1メートルくらいあるんですけど、全部読みました。で、結局採用されたのは、性格の偏りなんですけれども、これって読んだらみんなびっくりすると思います。

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宮崎勤 元死刑囚

普通、精神鑑定ですからこの人が、どういう両親のもとにどんな家庭生活を送り、地域社会に暮らし、学校で生活してきたかっていう生育史っていうのがあるんですね。生育史というのは一番、鑑定の肝になるわけですよ。ところが、これが全部警察調書の引用なんです。聞いてないと思わないんですけれども、精神鑑定のプロですから、だけど、全部引用なんですよ。都合のいいところだけ、ピックアップするんですね。

例えばどういうことあったかというと、お母さんが「この子が小さい時に柿の木に登って柿を取って食べていました」というようなことを説明するわけです。そしてその箇所が、鑑定書の中に移ると、「この子は小さい時に柿の木に登って柿の実を全部食べてしまった」っていう記述に変わっているんですよ。全部食べたのと、柿の木に登って食べますって全然意味が違いますよね。そういうのが平気で、そのまま通っているわけです。で、この子は子どもの時からちょっと性格が偏っていたという傍証にされているわけですね。それが故にこの事件を起こしたっていうふうに精神鑑定書が書かれていくわけです。

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これってまず、専門家の仕事とは私には思えなかったですね。これ鑑定じゃないんじゃないか。私は精神鑑定も全く素人ですけどでも、多少勉強して、精神医学から犯罪者をどう見るかっていうのはとても大事な仕事だと思っていましたから敬意も持っていました。でもこれってプロの仕事じゃないよなと。でも採用されたのはこの鑑定書です。それで死刑判決が出て、実際に死刑も執行された。

このプロセスを見た時、「あっ、この今のわたしたちの世の中は、こういう事件が起きた時に処理のしようがないんだな、理解のしようがないんだ」っていうふうに思ったんですね。案の定、この事件は多重人格でもなければ、統合失調症でもなければ普通のちょっと変わったやつが変わった事件を起こしたってだけで終わってしまったんですね。これ以降ですね、ほかの事件でもそうですけれども、起きた事件を私たちはどう理解するのかという時にだんだん報道のスタイルもそうでしたけど、被害者の方にどんどん関心が移っていったんです。

不特定多数に対するアタックですから、アタックされた側は怒りもあれば悲しみもあれば、もしそこで命を落としたりすれば遺族の怒りとか悲しみを通り越した気持ちを抱えます。それをどうやって聞くかというだけに、だんだん我々の関心が移っていって、この人物、この犯人がですね、加害者の側はなぜこんな人間がこの社会に生まれたのかという関心をどんどん失ってきた。あるいは、どうとらえていいかわからなかった。それで切り捨てるって方向に行くんです。それを「もう理解しなくていい、こいつはもうこんなひどいことやったんだからもう隔離して、抹殺してしまえ」っていうふうにどんどん進んでいったんですね。

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松本智津夫 元死刑囚 平成7年(1995)

オウム事件もそうですね、ずっと今に至るまで、「とにかくもうこんな人間のことは理解する必要ない。とんでもないことやったのだからそいつだけ切り捨ててしまえ、もうこの世の中にいる価値はないこんなやつは」というふうにどんどんなってきた。こういうふうに事件を処理するというのは、僕はやっぱり間違っていると思う。この事件を起こした人間はけしからんと思うし、ひどいことだと思うけれども、だけどこの社会が作ったんですよ、間違いなく。この時代が作ったんですよ、間違いなく。この人を理解しなかったら我々は、我々が生きている時代と社会ってものを理解できないってことなんですよ。

“理解したくないものは排除”が社会全体に広がった

僕が加害者の側の取材はとても大事だと言い続けているのは、この事件を理解するためにももちろん大事なんだけど、我々自身を理解するために大事だからなんですね。そうしなければ、我々ってどういう時代、何を考えどうすればいいのかわからないんですよね。だけど、理解するのは結構大変です。すごく大変です。それは本当に生い立ちから調べ、家庭環境も調べ、学校のことも調べ、その上でないと理解できない。でもやっぱり我々の時代、我々の社会の一部なんです、この人たちは。

今、そういうふうなものの考え方がないから、どんな小さな事件でも、ネットなんか見るとね、何か問題を起こした人の実名がすぐ出てみたりとか、顔写真がすぐ載ってみたりとか、あるいは事件を起こさなくても生活保護を受けている人に攻撃が続いてみたりとか。とにかく、理解できないものは排除する。理解したくないものは排除するという雰囲気が社会全体に広がってしまった。これは、本当にこの平成の時代に起きたことですよ。

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――周りに不寛容な時代になっていると。

もちろん、人間の社会ですからいろんな人がいますよ。自分の考えと違う人はいっぱいいるし、違う行いをする人はいっぱいいますね。言い始めたら本当にきりがない。お風呂の温度が1度違うだけでも違うとかそんなことでも怒ったりする人がいっぱいますからね。違うのは当たり前ということに対する許容力がなくなってきちゃうんですよね。そうなっていくと、次から次へ気に入らないことばかりが身の回りを占めていて、どんどん自分も偏屈になっていくというプロセスをあちこち見るわけですね。やっぱりそれは、なかなか理解しがたいものをどう理解するか。しかもそれは自分の一部を作っているということまで含めて理解するということがなければ、生きにくいばかり、そういう社会がどんどん広がっていくという気がして。

じゃあ、そこから反転するきっかけが今の日本の社会にあるかとか、世界の中にあるかというと、あんまり言いたくないんだけどやっぱりちょっと、ぼう然とします。そのなさが、そういうきっかけとかチャンスとかいうものがなくて、もちろん細かく見ていけばあると思いますけれども、みんなが納得するような形で、「あ、こういうふうにすればいいね」っていうふうなことがなかなかなくて、これはちょっと僕も愕然とするときもあります。

「情報」ではなくて「知識」を得る

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――インターネットで情報が入るようになったことも大きいのでしょうか。

情報って言葉が使われるようになったのは1970年代の頭からで、それまで情報なんて言葉はあまり使われなかったんです。でも今は日常語ですよ。情報って、きのうスマホで調べたことって多分皆さん、誰も思い出せません。右から入って左から抜けていくもので、その瞬間だけ使えればいいものであって、別にそれは知識ではない。また、本を読んで得られる、テレビを見て得られるというのも、これまた情報なんです。「若い時に本を読みなさい」っていうふうによく言いますけど、僕はそれはやっぱり情報だなって思っているんですね、それはスマホと一緒ですね。「じゃあ知識って何なの」ってことになれば、自分で苦労して得たもの、得た情報のことを知識という。これを分けるのはすごく大変なんです。

情報を得ても自分にとっての知識にするためどうすればいいか。僕の仕事の場合は現場に行って、当事者の話を聞く、あるいは現地を歩くことをするわけだけど、普通の人はなかなかできません。だから結局、自分の中いろんな経験をする。旅もそうでしょうし、あちこち旅行してみていろんな人と会ったり話をしてみたりとか、そういうたくさんの経験をすることが一つ一つ知識になっていく。そうやって苦労して得たもの、そこで見た美しい景色だとかいうものも実は知識なんです。

単に、スマホの画面の中で見た景色とは違って、自分がわざわざ現地まで行ってみた美しい富士山でもいいし、そういうものは、知識なんです。自分にとって、そうやって自分で体を動かして、そして得た知識というのはいったい自分の中にどれだけあるかということを時々自分で検証してみないと。その知識だけを使ってものを考えたら、情報じゃなくて、自分の中にある知識だけを使ってものを考えるっていう、癖をつけていくということがとても大事なんだと思いますね。

被害者になることではなく加害者になることを恐れよ

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地下鉄サリン事件 平成7年(1995)

――そうできていれば事件は起きなかったのでしょうか。

本当に起きなかったと思いますね。それこそ、連続幼女誘拐殺害事件から障害者施設殺傷事件とか、今に至るまでの事件の加害者に聞いてみたらですね。日本、世界、人間がどんな愚かなことをしてきたか、戦争についてほとんど知らないですよ。びっくりするほど知らないです。日本が中国に攻め込んだことも知らないし、日本がアメリカと戦ったことも知らない。原爆が落ちたことも知らないし、核兵器が世界でどれだけ危ないものといわれているかについても何の関心もないです。ビックリしますよ、これって。

それは、学校の先生は教えたつもりでしょ、親たちは知っているから子どもに伝えたつもり、地域はこんなことありましたっていうふうに、地域学習やったつもりでしょ。でも、全然わかりません、でも全然知っていません、理解していません。100年もたっていないですよ、親たちが生きた時代ですよ、そのことすら何も知らない。日本のこの教育力のなさは、僕らが考える以上にすごいことが起きている。

今まで事件を考えるときに、普通、ニュースで見たり、新聞で見たりして、自分はみんな被害者になると思っていたんですよ。違うんですよ、自分が加害者になるんです。そのことを恐れなくちゃいけない。あっという間に、SNSでもってひっかかっただけで、あっという間に加害者になってしまう。そのブレーキを自分たちでどう作るのかということを考えなければ、被害者になるんじゃない、加害者になっていく。あなたが、私が、これを考えなければ。これが一番怖いんですよ。これを考えないことが一番怖い。

「妄想から物語へ」 次の時代を良いものにするために

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――平成の次の時代はどうなっていくでしょうか、またどうなってほしいでしょうか。

「妄想から物語へ」です。平成の時代の事件というのは、みんなそれぞれに加害者の側が頭の中でいろんなグロテスクなキャラクターを思い浮かべたりとか、自分の力を誇大に考えてみたりとか、妄想を起こすんですよね。それが現実化した時に事件が起きる。でもそれをどうやって物語にしていくか。物語っていうのは妄想ではなくてやはり起承転結がなくちゃいけないし、起承転結を追って、読者と他者が共有できる。自分の中にあるいろんな妄想を、きちんと他者に語れるような、他者と了解可能のようなそういう物語にしていく。それはとても大事なことだしちょっとした、それは芸術の世界に入ってくる。

我々の多くは、攻撃性が自分の中にあったとしてもすぐに事件を起こすようなことはしないんですけれども、事件を起こす加害者たちは犯行に及んでいる。それをなんとか物語にできるようにする。そのためには知識が必要ですし、他者に語る言葉が必要ですし、効果的に伝えるためには技術も必要ですし、そういう技能というものを身につけていく。そういうことが可能になれば、多分、次の時代というのは、嫌な事件がいっぱいあったこの時代を越えていけるかもしれないというふうに思っている。

――最後に、次の世代を生きていく若者たちへのメッセージをお願いいたします。

個人のレベルでも地域社会のレベルでも、それから日本という国のレベルでも、世界というレベルでもそうなんですけど、あまり説得的ではない言葉がネットの上でも日常会話の中でも、組織の中でもいろいろ交わされている気がするんですね。

それがある時は一国、自国優先主義みたいになってくることもあれば、小さい狭いレベルだと個人が力を行使するようなアクションになることもある。それを、この30年間、平成の時代というのは経験してきたんですけれども、これをどうやって乗り越えていくのか。これは簡単ではないと思います、とても大事なことなんだけれども簡単じゃない。妄想を妄想のまま語っていた方が、なんとなく大声で言えるし、いいふうに思うんだけれど、これは国際政治から日常生活まで全部をゆがめていく。全員が、誰もが加害者になってしまう、そういう、状況を生み出して来た。

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妄想を持つのは、当たり前だと思うんですね。妄想を持っちゃいけないとは思わない。誰もが持つ、だけど自分の中だけじゃなくて他者に対して、家の中でも家庭の中でも地域でも世の中でも組織の中でも語れるような、そしてそれを説得的に共有できるような物語にしていく。一つ一つの妄想の区切りごとに、あるいはその妄想のストーリーごとにちゃんと、豊かな言葉を持たなければ。単に気持ち悪いとか怖いとかじゃなくて、豊かな言葉を持たなくちゃいけない、それを言葉で語るとすれば、絵で描くとすれば単に黒く塗りつぶすだけじゃなくてそこに形というものを作り、あるいは造形する。そういう技術が必要になってきますね。

これは、単にSNSでつぶやいたりとか、頭の中で妄想を膨らませたりするのとは違う技術です。そうやって他者との関係を作っていく。身近な人もいるでしょうし、ネットの向こう側の人もいるでしょうし、そういう関係を具体的に作る。その物語の魅力が人を惹きつけるというふうになっていけば、妄想を悪役にするのではなくて、人と共に生きる、そして彼と彼女と自分とは違うという違いの中に生きていくコツもつかめるんじゃないかというふうに思いますね。

【プロフィール】
吉岡 忍(よしおか・しのぶ)
ノンフィクション作家。1948年生まれ。早稲田大学在学中から執筆活動を開始。1987年、「墜落の夏 日航123便事故全記録」で講談社ノンフィクション賞を受賞。幼女連続誘拐殺人事件や神戸児童連続殺傷事件を描いた「M/世界の、憂鬱な先端」など、緻密な取材と豊かな表現力に定評がある。日本ペンクラブ会長。