こだわった「反省」の言葉

「拝謁記」では、戦争の道義的責任を感じ、深い悔恨の念と、二度と繰り返さないよう反省の言葉を国民の前で語りたいと強く望んだ昭和天皇と、それを語ることで再び退位論をよびさまし、戦後復興に水をさすことを避けたいという当時の吉田茂総理大臣の考えの違いが浮き彫りになっています。

目次

国民へのメッセージ 語るべきか

最初に昭和天皇が国民へのメッセージに言及したのは講和をめぐる日米交渉が本格化していた昭和26年1月24日の拝謁でした。

この中で昭和天皇は「媾和となれば私が演説といふか放送といふか何かしなければならぬかと思ふがその事を考へてくれ」としたうえで、「演説…といふ様なものなれば政治ニ関係ハないといつていへぬ事ハないとしても矢張り政府ニ無関係といふ訳ニもいかぬ様であり政府と相談しなければならぬと思ふが」と述べ、講和成立時に国民にどのようなメッセージを語るべきか検討するよう田島長官に指示したことが記されています。

これに対し田島長官は「それは天皇は政治ニ無関係でありまするから政治ニ関しての御話の事はありませぬが政治に関連する事ハ確かでありまするから充分政府と連絡してからでないといけませんと存じます」と答えたと記されています。

このとき昭和天皇は、自らのメッセージの内容について「困る事が二つあると思ふ」と、懸念を語ったと記されています。

その1つは領土の問題だとして小笠原諸島と沖縄を返還しないというマッカーサーの方針に言及し、「そうすると徳川時代以下となる事だ。これは誠に困つた事で たとへ実質は違つても、主権のある事だけ認めてくれると大変いゝが同一人種民族が二国(にこく)二なるといふ事はどうかと思ふのだが此点ニ関し演説で何といふか」と述べたと記されています。

さらに、「今一つは再軍備の問題だ こゝで私の責任の事だが従来の様にカモフラージュでゆくかちやんと実状を話すかの問題があると思ふ 此点急に媾和が出来てあは(わ)てぬやうに考へておいて欲しい」と田島長官に求めたと記され、領土を失ったことについてどう触れるかや、自らの道義上の責任を明確に語るべきかどうかを気にかけていたことがうかがえます。

これに対し田島長官は「それは御演説をそういふ非常の時ニ国民に直接御話頂く事は大事のやうに思ひますがよく慎重ニあつた方がよいか、よいとしたらどういふ内容とすべきかといふ問題の研究といふ事の様に存じますから其点今日からよく研究致します」と答えたと記されています。

独立「少シモ喜ブベキデナイ」

さらに、その半年後、▽サンフランシスコ平和条約の調印が翌々月に迫った昭和26年7月26日の拝謁では、独立することになっても、敗戦の結果であることを考えれば、決して喜べないという複雑な心境を吐露しています。

ダレス米国務長官顧問(昭和25(1950)年)

この中で昭和天皇は「私ハ媾和はDulles(ダレス)等ノ配慮デ 敗戦国トシテ第一次の独ヨリモドコヨリモ 寛大ナ条件デヨロシイト思フ 又六年モ独立国デナカツタノガ 独立スルコト故(ゆえ)結構ト思フシ 国民ニモソノ感ジハアルガ 素(もと)ヨリ敗戦ノ結果デアリ 領土ノ一部ヲ失フトウフコト 戦死傷者ノコト 未帰還者ノコト等 戦争ニツイテノ 犠牲者ノコトヲ考フレバ 少シモ喜ブベキデナイ」と述べたと記されています。

吉田総理の意向

そして、国民にどう話すべきか、こうした点の「カネアヒノ処ガドウモ分ラヌ」と悩む昭和天皇の指示を受けて、田島長官は吉田総理大臣を訪ねて考えを聞きます。

その2週間後の拝謁(昭和26年8月9日)では田島長官が吉田総理大臣の意向を報告しました。

田島長官は「まけた国が条約をむすぶのに全権団等ニ大さわぎするのはどうかと思つてるらしく、軽はづみ上調子の事ハ避けたいとの意向でそれには首相としてハ米国以外の国の思惑を余程(よほど)顧慮(こりょ)致して居りまするらしく」としたうえで、「派手な事と思はれる部類の事ハ止(や)めにして例へば陛下の御放送の如きも願ハず又媾和ニ際して陛下の特別の御声明等も必要なく国会開会式のおことばニより国会を通じて国民へ御よびかけ頂きたい吉田の意思のやうでありました」と述べ、吉田総理大臣が終戦を告げた玉音放送のような特別なことをするのではなく、国会の開会式のおことばの中に盛り込むよう求めたことが記されています。

吉田茂首相

その後、しばらくは、国会開会式のおことばにメッセージを盛り込む方向で調整が進められましたが、吉田総理大臣の(昭和26年10月4日)「憲法上よりして反対党ニ議論の余地を与へ度なき」という意向によって見送られ、結局、昭和天皇のメッセージは独立回復時のおことばに盛り込まれることになりました。

こだわった「反省」の言葉

昭和26年12月9日の拝謁では、田島長官が「予(かね)ての問題でありまする平和ニ関しての陛下の御声明の事ハ兎ニ角(とにかく)田島が書いて見ます故よければ出すといふやうな点まで話が進んで参りました」と報告したと記されていて、このあとおことばの草案作りが本格化したことがわかります。

この中で、昭和天皇がこだわったのは「反省」という言葉を盛り込むことでした。

昭和27年1月11日の拝謁では、昭和天皇が「私は例の声明メッセージには反省するという文句ハ入れた方がよいと思ふ/此前(このまえ)長官は反省するといふと政治上の責任が私にあるやうにいいがかれるといけないといつたが私ハどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」と述べたと記されています。

さらに昭和27年2月20日の拝謁では「反省といふのは私ニも沢山あるといへばある」と認めたうえで、「私の届かぬ事であるが軍も政府も国民もすべて下剋上とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すればわるいことがあるからそれらを皆反省して繰返したくないものだといふ意味も今度のいふ事の内ニうまく書いて欲しいと思ふ」と述べ、政府や国民もともに反省して二度と繰り返したくないという認識を示したと記されています。

しかし、これに対し宮内庁内部では「御弁解のような感を与える」として全面的に修正する案が出たと記されています。

その6日後の拝謁(昭和27年2月26日)で、田島長官が、検討の結果「反省」の文字を削除したことを告げると、昭和天皇は「矢張り過去の反省と将来自戒の個所が何とか字句をかへて入れて欲しい/よく字句をもう一度練つてくれ」と反省と自戒の要素を盛り込むことに強くこだわったことが記されていました。

また、昭和天皇が「琉球を失つた事ハ書いてあつたか」と尋ねると、田島長官が「残念とは直接ありませぬが『国土を失ひ』とあります」と答えたことや、昭和天皇が「そうかそれハよろしいが戦争犠牲者ニ対する厚生を書いてあるか」と尋ねると、田島長官が「『犠牲を重ね』とハありますがその厚生の事ハある時の案ニハありましたが削りました。/万一政治ニ結びつけられるとわるいと思ひましたからですが之ハ大切の事故(ことゆえ)又よく考へます」と答え、これに対して昭和天皇が「犠牲者ニ対し同情ニ堪えないといふ感情をのべる事ハ当然であり それが政治問題ニなる事ハないと思ふが…」と述べたことも記されていました。

昭和27年3月4日の拝謁では、田島長官が例の作文がひととおり出来たので「一寸(ちょっと)読んで見ますから訂正を要すところを仰せ頂きたいと存じます」と述べ、文案を読み上げたと記されています。

これに対して、昭和天皇は2点注文をつけたうえで、「内外に対する感謝、戦争犠牲者に対する同情及反省の点ハよろしい」と述べ、さらに「内閣へ相談してあまり変へられたくないネー」と述べたと記されていました。

この翌日(3月5日)、田島長官は吉田茂総理大臣のもとを訪ねておことば案を説明した結果を報告しました。この中で、田島長官は「おことばの文案も読みまして聞いて貰ひ これは首相の助言と承認とハ関係ない 陛下御自身のことだから餘(あま)り内閣でいぢらないやうに申しまして了承致しました」としたうえで、吉田総理大臣から「大体結構であるが今少し積極的ニ新日本の理想といふものを力強く表ハして頂きたい」と希望が出されたと述べたと記されています。

そして田島長官が「至極同感であります故 試みるつもりでございます」と述べると、昭和天皇は「それはその方がイヽネー」と述べたと記されています。

国民に直接語りたいという昭和天皇の思いは強く、昭和27年3月6日の拝謁では「相変らず日本は旧態依然でハどうかと思ふ故 これはラヂオがよいと思ふ よく調べて研究してくれ」と述べ、もし講話条約発効の記念式典が開かれない場合でも、ラジオを通じて国民に語りかけたいという意向を示したことが記されています。

昭和27年3月10日に、田島長官が宮内庁幹部の間での推敲の結果を報告しました。この中で、田島長官は「主な二三の反対を強く致しましたがその第一は『事志(ことこころざし)と違ひ』といふのを削除するといふ事でありました。何か感じがよくないとの事であります」と述べ、戦争が本意ではなかったことを伝える文言を削ったことを告げました。

田島長官や宮内庁の幹部らは、昭和天皇が戦争は自らの本意ではなかったと語ることが責任逃れのように国民に受け止められるのではないかと危惧していました。

これに対し、昭和天皇は「どうして感じがよくないだらう?、私は『豈(あに)朕(ちん)が志ならんや』といふことを特ニ入れて貰つたのだし、/それをいつてどこがわるいのだらう」とか、「実際私ハそうなのだから 私ハあつた方がよいと思ふ」と不満を述べたことが記されています。

お言葉の文言をめぐるやりとりは翌日の拝謁(昭和27年3月11日)でも続き、昭和天皇が「私ハあの時東條にハツキリ英米両国と袂を分つといふ事ハ実に忍びないといつたのだから」と述べたところ、田島長官が「陛下が『豈朕が志ならんや』と仰せニなりましても、結局 詔書ニ書いてある理由で 宣戦を陛下の御名御璽(ぎょめいぎょじ)の詔書で仰せ出しになりましたこと故 表面的ニハ陛下ニよつて戦(いくさ)が宣せられたのでありますから、志でなければ戦を宣されなければよいではないかといふ理屈ニなります」と述べたと記されています。

田島長官は、結局、「事志と違い」を削除し、「勢いの赴くところ」という表現に修正しました。

戦争への悔恨 一節全体削除

その後、昭和天皇と田島長官らとの間で文案がまとまり、最終調整が進められますが、式典が目前に迫った昭和27年4月18日の拝謁では、文案への意見を求めていた吉田総理大臣から戦争への悔恨を表す一節全体を削除してほしいと求める手紙が届いたことを昭和天皇に報告します。

田島長官は「一昨日夕方 手紙を送って参りました。処が一節全体を削除願ひたいといふ申出でありましたが それは此節であります」と述べてその一節を読み上げたあと、吉田総理大臣の反対の理由について、「折角(せっかく)今声をひそめてる御退位説を又呼びさますのではないかとの不安があるといふ事でありまして、今日(こんにち)は最早(もはや)、戦争とか、敗戦とか、いふ事はいつて頂きたいない気がする(原文ママ)、領土の問題、困苦ニなつたといふ事ハ今日申しては天皇責任論にひつかゝりが出来る気がするとの話でありました/其次の勢の赴く所以下は兎ニ角 戦争を御始めになつた責任があるといはれる危険があると申すのでございます」などと説明したと記されています。

そのうえで、吉田総理大臣に「田島としましては 昨年来陛下が国民に真情を告げたいといふ思召(おぼしめし)の出発点が消えて了(しま)つては困りますといふやうな事で一応分れて参りましたが 御思召御感じの程ハ如何でございませうか」と述べたと記しています。

これに対して昭和天皇は、「私はそこで反省を皆がしなければならぬと思ふ」としたうえで、「矢張り戦争が意思ニ反して行ハれ其結果が、こんなになつたといふ事を前に書いてあるから既往の推移といつても分かるがそれなしでハいかぬ」と述べたと記されています。

さらに3日後の拝謁(昭和27年4月21日)では、昭和天皇が「あれからずつと考へたのだが、あゝいふ事ハ私ハ外国人にはいつでもいつてるし、どうもわるいとは思ハないが、総理が困るといへば不満だけれども仕方ないとしても、文章は忘れたけれども 私の念願といふことからつゞけて 遺憾な結果ニなつたといふ事にして 反省の処へつゞける事は出来ぬものか」と述べ、総理大臣の意見の重さに理解を示しながらも、自らの深い悔恨の念をおことばの中に残したいと田島長官に伝えたことが記されています。

これについて田島長官は「今日ははつきり不満を仰せになる」と記していました。そして、田島長官は「総理の考へと致しましては終戦迄の事ハ終戦の時の御詔勅で一先づ(ひとまず)すみと致しまして今回ハ終戦後の事で始めとしてむしろ今後の明るい方面の方の事を主としていつて頂きたいといふ方の考へであります。/此際(このさい)戦争とか敗戦とかいふ事ハ 生々しい事ハ避けたいという意味であります」と重ねて吉田総理大臣の考えを説明したと記されていました。

これに対して昭和天皇は「御不興気な御顔」で、「然し戦争の事をいはないで反省の事がどうしてつなぐか」と述べ、田島長官は「戦争の事ニ関して明示ない以上 ぼんやり致しますが 反省すべき事が何だといふ事は分ると思ひます」と述べたと記されています。

昭和27年4月22日の拝謁で、田島長官は「職責上一人の責任をもちまして矢張り総理申出の通りあの一節を削除願つた方がよろしいといふ結論に達しました」としたうえで、その理由について「現在のまゝ御留位の御表明でありまする故、日本最高の機関と申しますか、天皇の御地位ニ何の変化もありませぬる事故、国政ニ無関係と申す訳でありますが、此事(このこと)の裏を読みますれば、多少問題となって来た御退位、即ち国政の重大事の御退位のない事の表明であります故、実ハ大きな国政問題の内容を持って居ると存じまする。そういふ性質の問題でありまする以上、国政の責任者である首相の意見は重んぜられなければならぬと思ひます。/折角静まつてる退位論の寝た子を起すの心配といふ事でありますれば、一層そうかと存じます」と説明したことが記されています。

さらに、「陛下から仰せ頂きました事志(ことこころざし)と違ひと具体的ニ戦争、敗戦、戦禍と申しませぬ迄で国是や御念願ニ反した結果ニなつた言訳的文句又ハ戦争ハしたが今更平和論者のやうな顔するといふ誤解もありまするので、思ひ切つて全文一節とつた方がよろしいかと存じまする 陛下には御不満と拝察し恐入りまするが御許しを願ひたいと存じまする。祝典のおことばで独立の喜びで将来ニ嘱目する方が似付かはしく、むしろ戦争の事を具体的に取上げ書きたてる事ハ避けた方がよいとも考へられます故」と述べたと記されています。

対日講和条約が発効し東京 上野広小路で祝賀行事(昭和27(1952)年)

これに対して、昭和天皇は「長官がいろ/\そうやつて考へた末だからそれでよろしい」としたうえで、「木戸が巣鴨に居る。内大臣として再側近のものだ。それが戦犯といふ事ハ私ニも責任といふ論が出るのではないかと思ふ」と述べ、田島長官が「御思召(おぼしめし)を一年近く承りながら今頃こんな不手際ニ御心配おかけし御不満かも知れませぬものを御許しを願ひ誠に申訳ございませぬ」とわびると、昭和天皇は「いや、大局から見て私ハこの方がよいと思ふ」と受け入れたと記されています。

こうして昭和天皇が強く望んだ深い悔恨の一節は削除され、国民に伝えられることはありませんでした。

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