繰り返し戦争を回顧 後悔語る

「拝謁記」には、昭和天皇が繰り返し敗戦に至る道のりを振り返り、田島長官に悔恨の念を語ったと記されています。その多くは開戦を止められなかったことに対するものでした。

目次

昭和3年「張作霖爆殺事件」

張作霖搭乗の列車爆破現場(昭和3(1928)年)

昭和3年、中国に駐留していた「関東軍」が満州軍閥の張作霖(ちょうさくりん)を乗っている列車ごと爆破して殺害した事件。

田中義一首相(昭和4(1929)年)

昭和天皇は、事件をあいまいに処理しようとした当時の田中義一総理大臣を叱責しましたが、首謀者が停職になっただけで事件の真相は明らかにされませんでした。3年後、関東軍は独断で満州事変を引き起こし、政府もそれを追認しました。

「拝謁記」の中で、昭和天皇は軍が勝手に動く様を「下剋上」と表現して繰り返し批判したと記載され、昭和27年5月30日の拝謁では「考へれば下剋上を早く根絶しなかったからだ。田中内閣の時ニ張作霖爆死を厳罰ニすればよかつたのだ。あの時ハ軍でも大して反対せず断じてやればきいたらうと思ふ」と後悔の言葉を述べたと記されています。

また、昭和26年6月8日の拝謁では「張作霖事件の処罰を曖昧ニした事が後年陸軍の紀綱のゆるむ始めニなつた。張作霖事件のさばき方が不徹底であつた事が今日(こんにち)の敗戦ニ至る禍根の抑々(そもそも)の発端」などと繰り返し事件に触れて当時の対応を悔やんでいて、田島長官は「御信念より相当繰り返し御主張ニなる」と記していました。

昭和11年「2・26事件」

陸軍の青年将校たちが起こしたクーデター、2・26事件では、昭和天皇は厳罰にするよう指示し、反乱は鎮圧されましたが、軍部の台頭はさらに強まりました。

首相官邸付近の反乱部隊(昭和11(1936)年2月26日)

昭和25年11月7日の拝謁で、昭和天皇は「青年将校ハ私をかつぐけれど私の真意を少しも尊重しないむしろありもせぬ事をいつて彼是(かれこれ)極端な説をなすものだ」と述べ、その翌月の拝謁(昭和25年12月26日)でも、「兎ニ角(とにかく)軍部のやる事はあの時分は眞ニ無茶で迚も(とても)あの時分の軍部の勢は誰でも止め得られなかつたと思ふ」と振り返ったと記されています。

昭和16年「太平洋戦争」

さらに太平洋戦争開戦時の対応についても振り返り、後悔の言葉を述べたと記されています。

昭和16年、東條英機内閣はアメリカとイギリスに宣戦布告し太平洋戦争が始まりました。

太平洋戦争 真珠湾攻撃(昭和16(1941)年)

昭和天皇は昭和26年9月10日の拝謁で「東條が唯一の陸軍を抑え得る人間と思つて内閣を作らしたのだ。勿論(もちろん)見込み違いをしたといえばその通りだが」と振り返り、昭和26年12月14日の拝謁では「平和を念じながら止められなかった」、「東条内閣の時ハ既ニ病が進んで最早(もはや)どうすることも出来ぬといふ事になつてた」と述べたと記されています。

東條内閣(昭和16(1941)年)

また、昭和27年5月28日の拝謁では「東條は政治上の大きな見通しを誤ったといふ点はあったかも知れぬ」としたうえで、「強過ぎて部下がいふ事をきかなくなった程下剋上的の勢が強く、あの場合若し(もし)戦争にならぬようにすれば内乱を起した事になったかも知れず、又東条の辞職の頃ハあのまゝ居れば殺されたかも知れない。兎に角(とにかく)負け惜しみをいふ様だが、今回の戦争ハあゝ一部の者の意見が大勢を制して了(しま)つた上は、どうも避けられなかつたのではなかつたかしら」と語ったと記されています。

さらに、昭和27年4月5日の拝謁では、間接的な原因を結果に結びつけて厳しく批判する意味の「春秋の筆法からすれば」という言い回しを使って、「太平洋戦争ハ近衛が始めたといつてよいよ」とも述べ、日米開戦を防げなかった責任は開戦時の総理大臣だった東條英機の前任の近衛文麿にあるという認識を示したとされています。

近衛文麿首相

一方で、アメリカをはじめとする連合国の開戦以前の対応についても振り返っていたと記されています。

昭和天皇は昭和25年12月1日の拝謁で「之は私の勝手のグチだが」とことわったうえで、「米国が満州事変の時もつと強く出て呉れるか或いは適当ニ妥協してあとの事ハ絶対駄目と出てくれゝばよかつたと思ふ」と述べたと記されています。

また、戦艦や空母などの主力艦の保有比率をアメリカやイギリスの6割に制限した大正10年のワシントン海軍軍縮条約に触れ、「五五三の海軍比率が海軍を刺戟(しげき)して平和的の海軍が兎に角く(とにかく)あゝいふ風ニ仕舞ひニ戦争ニ賛成し又比率関係上堂々と戦へずパールハーバーになつた」と述べたと記されていて、アメリカとイギリスが中心となって日本を抑え込んだ「ワシントン体制」が太平洋戦争の遠因だという認識を示していたことがわかりました。

そのうえで、軍縮条約締結時のアメリカの国務長官の名前を挙げ、「春秋の筆法なればHuphes(ヒューズ)国務長官がパールハーバーの奇襲をしたともいへる」と述べると、田島長官が「これは此(この)御部屋の中だけの御話でございます」と決して他言しないよう釘を刺したことが記されています。

終戦工作 敗戦

さらに、なぜもっと早く戦争を終わらせることができなかったのかなど、終戦時のことも田島長官に繰り返し語ったと記されています。

昭和27年2月26日の拝謁では、昭和天皇が「実ハ私はもつと早く終戦といふ考を持つてゐたが条約の信義といふ事を私は非常ニ重んじてた為、単独媾和ハせぬと独乙(ドイツ)と一旦条約を結んだ以上之を破るはわるいと思つた為おそくなつた」と語ったほか、日独伊三国同盟を結んだ理由については、日本の軍閥がドイツが勝つことを信じ切っていたためだが、その予想が違ったと述べたと記されています。

昭和26年10月30日の拝謁では、ソ連のスターリンの対応に触れて、「私が戦争を仲裁して止めてくれ、条件ハ無条件降伏の心組で其頃ハゐたが…と頼んだのを拒絶し、あまつさへ一年間期限の残る中立条約を蹂躙して宣戦して来るのがスターリンだからネー/これはスターリンとしてハ私ハ失敗だと思ふ なぜなら此時こちらの頼み通り仲ニ立てば米軍勢力下ニ日本が在るよりはもつとソ連勢力下ニなつてたニ違ひないからだ。又私ハスターリンによる平和克復ハ失敗したが実ハ結果ハ失敗した為め日本は幸福だつたといへる」などと力説したと記されていました。

昭和天皇はポツダム宣言を受け入れる、いわゆる「聖断」を行い、昭和20年8月15日に戦争が終わりましたが、昭和27年3月14日の拝謁では「私ハ実ハ無条件降伏は矢張りいやで、どこかいゝ機会を見て早く平和ニ持つて行きたいと念願し、それには一寸(ちょっと)こちらが勝つたような時ニ其時を見付けたいといふ念もあつた」と語ったと記されていて、いわゆる「一撃講和論」にあたる考えを持っていたことを明かしていたことがわかりました。

東京 皇居前広場(昭和20(1945)年8月15日)

そして、昭和26年12月17日の拝謁で昭和天皇は「終戦で戦争を止める位なら宣戦前か或(あるい)はもつと早く止(や)める事が出来なかつたかといふやうな疑を退位論者でなくとも疑問を持つと思ふし、又首相をかへる事ハ大権で出来る事故(ことゆえ)、なぜしなかつたかと疑ふ向きもあると思ふ」と述べたと記されています。

田島長官が「それは勿論(もちろん)あると思ひます」と述べると、昭和天皇は「いやそうだらうと思ふが事の実際としてハ下剋上でとても出来るものではなかつた」と答えたと記されていて、太平洋戦争を止められなかった後悔で、戦後も苦悩し続けたことがうかがえます。

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