終戦から独立回復 昭和天皇を取り巻く状況

田島道治が長官を務めた時期は、新しい憲法のもと再スタートを切った日本がアメリカ軍など連合国軍の占領下から脱して独立を回復していった激動の時代です。

目次

「人間宣言」から「象徴」へ

昭和20年の敗戦後、連合国軍によって日本の非軍事化と民主化が推し進められ、皇室財産の凍結や国家神道の廃止などの改革が次々に打ち出されるとともに、戦争犯罪の追及が行われました。

こうした中、昭和天皇はいわゆる「人間宣言」を行って、みずから神話と伝説に基づく神であることを否定し、全国各地を巡幸して人々とふれあう中で、新たな天皇像を模索し始めます。

そして、統治権を総覧する君主であり陸海軍を率いる大元帥だった天皇は、昭和22年の日本国憲法の施行によって政治的な権能を奪われ「象徴」となりました。

連合国側は、極東国際軍事裁判いわゆる「東京裁判」で天皇を訴追しないことを決めましたが、昭和23年秋の判決が近づくにつれて再び内外から退位を求める声が上がりました。

極東国際軍事裁判の法廷に座るA級戦犯(昭和21(1946)年)

昭和天皇は東京裁判の判決に際して連合国軍最高司令官のマッカーサーに手紙を送り、退位せず天皇の位にとどまる意向を伝えましたが、このことは当時は公にされませんでした。

西側陣営で国際社会復帰へ

戦後の日本の政界では東西冷戦構造を背景に革新勢力が躍進し、一時は社会党が政権を担いましたが、いずれの政権も長く続かず混迷が続いていました。

田島の長官就任の4か月後に吉田茂が再び政権を担うようになると、日本は東西冷戦が厳しさを増す国際情勢の中で、西側陣営の一員として国際社会復帰を目指す道を選びました。

独立回復に向けて再軍備や憲法改正の議論が高まる中、昭和25年6月に朝鮮戦争が勃発すると連合国軍は対日政策を転換。日本を「反共の防波堤」と位置づけて、警察予備隊の組織やいわゆる「レッドパージ」、それに旧軍人らの公職追放解除など、「逆コース」と呼ばれる政策を進めました。

マッカーサー連合国軍最高司令官(右手前)後任のリッジウェイ中将(左)

朝鮮戦争が激化する中で、占領軍トップのマッカーサーは解任され、後任のリッジウェイのもとで昭和26年9月にサンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約が調印されました。

そして、翌昭和27年4月28日、昭和天皇の51歳の誕生日の前日に7年近くに及んだ占領が終わり、日本は独立を回復しました。

平和条約発効記念式典とは

日本の独立回復を祝う「平和条約発効並びに日本国憲法施行五周年記念式典」は、昭和27年5月3日、皇居前広場で開かれました。

昭和天皇は香淳(こうじゅん)皇后とともに壇上に上がり、当時の吉田茂総理大臣や衆参両院の議長の祝辞に続いて、およそ4万人の群衆を前におことばを述べました。

この中で昭和天皇は、初めて公の場で退位を否定して、引き続き国民とともに歩むことを明らかにし、当時の新聞は「退位説に終止符」「決意を新たに独立を祝う」などと報じました。

一方で、当初国民に伝えたいと考えていた戦争への悔恨と反省の気持ちを込めたメッセージが発せられることはなく、これまでこのときのおことばは「退位説を否定したおことば」と位置づけられてきました。

宮内庁が編さんした公式記録の「昭和天皇実録」には、昭和天皇のおことばのあと都議会議長の発声で「日本国万歳」が三唱されると、昭和天皇も香淳皇后とともに両手を高く挙げて万歳を唱和し、式典を後にする際には一般の参列者から期せずして起こった「天皇陛下万歳」の声に対し、シルクハットを掲げて応えたと記されています。

平和条約発効式典おことば

平和条約は、国民待望のうちに、その効力を発し、ここにわが国が独立国として再び国際社会に加わるを得たことは、まことに喜ばしく、日本国憲法施行五周年の今日、この式典に臨み、一層同慶の念に堪えません。

さきに、万世のために、太平を開かんと決意し、四国共同宣言を受諾して以来、年をけみすること七歳、米国を始め連合国の好意と国民不屈の努力とによって、ついにこの喜びの日を迎うることを得ました。

ここに、内外の協力と誠意とに対し、衷心感謝すると共に戦争による無数の犠牲者に対しては、あらためて深甚なる哀悼と同情の意を表します。

又特にこの際、既往の推移を深く省み、相共に戒慎し、過ちをふたたびせざることを、堅く心に銘すべきであると信じます。

今や世局は非常の機に臨み、前途もとより多難ではありますが、いたずらに明日を憂うることなく、深く人類の禍福と、これに対する現世代の責務とに思いを致し、同心協力、事に当るならば、ただに時難を克服するのみならず、新憲法の精神を発揮し、新日本建設の使命を達成し得ること、期して待つべきであります。

すべからく、民主主義の本旨に徹し、国際の信義を守るの覚悟を新たにし、東西の文化を総合して、国本につちかい、殖産通商を振興して、民力を養い、もって邦家の安栄を確保し、世界の協和を招来すべきであると思います。

この時に当り、身寡薄なれども、過去を顧み、世論に察し、沈思熟慮、あえて自らを励まして、負荷の重きにたえんことを期し、日夜ただおよばざることを、恐れるのみであります。

こいねがわくば、共に分を尽し、事に勉め、相たずさえて国家再建の志業を大成し、もって永くその慶福を共にせんことを切望して、やみません。

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