初代宮内庁長官 田島道治氏

田島道治は、日本国憲法施行の翌年の昭和23年6月、宮中改革を進めたいGHQ=連合国軍総司令部の意向を受けた当時の芦田均総理大臣に任命され宮内庁の前身の宮内府の長官に就任しました。

目次

戦後初めて民間から長官に

新渡戸稲造氏(左) 後藤新平氏(右)

学生時代は国際親善と平和を説いた新渡戸稲造に学び、地元愛知県の銀行に勤務したあと、31歳から2年ほど鉄道院総裁だった後藤新平の秘書などを務め中央官僚としての経験を積みました。

後列左が田島道治氏 前列中央が新渡戸稲造氏 その右隣が後藤新平氏

その後、新渡戸や後藤らとともに欧米への外遊も経験しました。外遊後は地元愛知の銀行に戻りましたが、40代から50代にかけては再び東京に移って昭和銀行の頭取として金融恐慌後の銀行の建て直しに尽力し、戦後その手腕を買われて初めて民間から宮内府の長官に登用されました。

当時の日本は、まだアメリカ軍など連合国軍の占領下で、昭和天皇は連合国が戦争指導者を裁く極東国際軍事裁判いわゆる「東京裁判」での訴追は免れていましたが、判決が近づくにつれて内外で退位を求める声が上がっていました。

長官就任当時63歳だった田島は、こうした状況の中で天皇の退位問題への対応や連合国側との折衝にあたり、日本の独立回復をはじめ、当時皇太子だった上皇さまの教育や初めての外国訪問など様々な難局で昭和天皇を支え続けました。

また、長官を退いたあとも皇太子妃選定のメンバーの1人として、初の民間出身の皇太子妃の誕生に深く関わるなど、戦後の皇室の基礎を築きました。

田島は日銀の参与やソニーの会長を歴任するなど晩年まで経済人として活躍し、昭和43年に83歳で亡くなりました。

「焼却される寸前だった」

孫の田島圭介さん

戦後間もない時期、祖父 田島道治と同じ家で暮らしその後も20代半ばごろまで度々一緒に過ごすこともあったという孫の田島圭介さんは「祖父はすごく頭が鋭くて、自分に対しても他人に対しても非常に厳しい人でした。記憶力が抜群で、以前と違うことを言うとすぐ気付いて怒られました。しかもそれは最期まで衰えませんでした」とその人柄を振り返りました。

そのうえで、「拝謁記の筆跡は祖父のもので間違いありません。亡くなる直前まで、病室の中でも日記をつけていたほどまめできちょうめんな人だったので、昭和天皇と会うたびにこうした記録を詳細につけていたのは祖父らしいと思います」と話しました。

さらに、晩年入退院を繰り返していた田島道治が、身辺整理のため「拝謁記」を焼却処分しようとした際、圭介さんの叔父が寸前で気付いて止めたエピソードを明かし、「決して悪いようには取り扱わないから焼かないで残しなさいと説得して、かろうじて焼却は免れた」と語りました。

そして、「当時はまだ昭和天皇がご存命だったので、拝謁記を燃やそうとしたこともわかるし、それを止めたことも理解できます。祖父が説得を受け入れて焼却をやめたということは、いずれ歴史の1つとして拝謁記を公にすることを受け入れたのだと考え、今回、内容の公開を決意しました」と述べました。

さらに、「祖父は自分が目立つのがとても嫌いな人だったので、『余計なこと言うなよ』って天国からどなられるかもしれませんね」と話しました。

田島家では、今後、「拝謁記」など残された資料を公的機関に移し、いずれ公開することにしています。

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