パラスポーツに出会って気づいた“本当の価値”
有安諒平選手は東京 小金井市出身の35歳。
15歳の時に「黄斑ジストロフィー」という視力低下などを引き起こす難病と診断され、中心の視野がかける障害があります。
徐々に視野が欠けていく中、自身が生きる世界も狭まったような感覚をもつようになったといいます。
そんな有安選手を変えたのが、パラスポーツでした。

有安諒平選手
「障害を隠すような感じでずっと生活をしていました。自分が視覚障害者になって、免許が取れないとか、できない事ばっかり見ていたような価値観の中で、パラスポーツっていうものと出会って、『そうか、パラリンピックって視覚障害があるからこそ出られる』っていうことで、視覚障害そのものをポジティブに捉える初めてのきっかけになりました」
初めは視覚障害者柔道に取り組んだ有安選手。
東京都の選手発掘プログラムに参加してボートに転向し、東京パラリンピックに出場しました。

種目は「混合舵手付きフォア」。
異なる障害のある男女4人の漕ぎ手が1つの舟を漕ぎ、舵取り(コックス)として、障害のない人も一緒に戦う種目に出場して、大切なことに気づきました。
有安諒平選手
「障害のある人、ない人が同じスポーツに取り組んでいること、そこに本当に価値があってみんなに伝わっていけばいいなっていうことに確信を持って挑むことができるようになった。それが一番大きく変わった部分です」
雪の上を滑るときの“命綱”はガイドの声
ボートの練習ができない冬場のトレーニングの一環として、有安選手が3年前から取り組んできたのがクロスカントリースキーでした。
しかし、視覚に障害があるため、有安選手は自分の滑るコースの先がどうなているかほとんわかりません。
本人によると、視界の中心が白く欠けていて、かろうじて前を滑るガイドの足元が見えている状態だといいます。

このため有安選手は、進む方向や、カーブの角度、坂の傾斜などを細かく伝えるガイドの声を頼りに滑ることになります。
その有安選手を支えているのがガイドの藤田佑平さんです。
練習の取材に行くと、雪の上でも、陸の上の練習でも、ガイドの藤田さんの声が響きます。
1対1で練習を重ねる中で、有安選手は、競技としてのスキーにチャレンジすることを決意しました。

有安諒平選手
「まずレースをするうえで、ガイドの声が不可欠なのは当たり前ですが、ガイドの声かけと僕の動きのお互いの連携というのが非常に重要な競技。そのままタイムに直結するような感覚があります」
恐怖心から滑るときに無意識に重心が後ろに傾きスピードに乗れないという課題がありましたが、ピョンチャンパラリンピックにもガイドとして出場した経験がある藤田さんとともにフォームの改善などに取り組んできました。

日本が獲得していた北京パラリンピックの出場枠には入ることができませんでしたが、IPC=国際パラリンピック委員会が各国の推薦選手から選ぶ特別枠で出場が決まり、わずか半年の間に夏冬両方のパラリンピック出場となりました。
ガイドと2人 同じ夢をかなえるために
北京パラリンピックへの出場が決まった有安選手と藤田さん。
実は北京の4年後には入賞、8年後には金メダルをとると、2人で目標を決めて、一緒に向かっています。

「家族よりも一緒にいる時間は長いかもしれない」という2人ですが、取材をしていると練習の間は互いに敬語で話し続けていることに気が付きました。
理由を尋ねると、メダルをとるという目標のためには厳しいトレーニングが必要で「なれ合い」は良くないと考えていると教えてくれました。

藤田佑平さん
「(有安)諒平さんもメダルがほしい、僕もガイドとしてメダルがほしい。諒平さんの力、高のパフォーマンスを引き出すガイドを常に目指さないといけない」
いつか世界の頂点に立つために、同じ目標に向かって進んでいるのです。
有安諒平選手
「彼を介助者という扱いにしたくないし、本気で2人で目標を掲げて、そこに向かって一緒にイーブンに挑んでいける。ここにやはり大きな魅力を感じています」
1月には第一子が生まれたという有安選手。
初めての冬のパラリンピックでの活躍を誓っています。

有安諒平選手
「夏のパラリンピックが終わった翌日から活動を始め、ようやくスキーに必要な体の動きが自分の中でつながってきた。少しでも高い順位を目指して頑張りたい」