「自分の演技を世界一大きな舞台で発揮できたら」
羽生選手がスケートを始めたのは4歳の時です。生まれ育った仙台市内のリンクで練習を重ねました。
2008年には全日本ジュニアで優勝。
2009年にはブルガリアで開かれたジュニアの世界選手権に初出場しました。この時は12位でしたが、その次のシーズンから羽生選手は世界へと大きく羽ばたいていきます。
その歩みは苦難の連続でした。それでも彼は前を向き、決して挑戦することをやめようとはしません。
フィギュアスケート男子シングルの羽生結弦選手。19歳でオリンピックの頂点に立った彼は、4年後にその王座を守りました。そして27歳で迎える北京の舞台。3連覇という偉業を成し遂げるだけでなく、前人未踏の大技「4回転半ジャンプ(=クアッドアクセル)」の完成も目指しています。
「3連覇という権利を有しているのは僕しかいない。もちろん夢に描いていたものではなかったかもしれないが、この夢の続きをしっかり描いて、前回やその前とは違った強さでオリンピックに臨みたい」
羽生選手のこれまでの歩みを振り返ります。
羽生選手がスケートを始めたのは4歳の時です。生まれ育った仙台市内のリンクで練習を重ねました。
2008年には全日本ジュニアで優勝。
2009年にはブルガリアで開かれたジュニアの世界選手権に初出場しました。この時は12位でしたが、その次のシーズンから羽生選手は世界へと大きく羽ばたいていきます。
2009-10年シーズン。羽生選手は全日本ジュニアで2連覇を果たし、ジュニアのグランプリファイナルで初優勝します。
この頃のNHKの取材で、オリンピックへの思いを話していました。
「将来はオリンピックで金メダルっていうのがいちばんの目標なんですけど、自分の中で世界一大きな大会だと思うので、そこで自分の演技が発揮できるかわからないけど、世界一の舞台で発揮できたらすごく気持ちいいんだろうなって思います」
そして羽生選手は2010年のジュニア世界選手権で優勝。
後半のフリーでは3回転半ジャンプ(=トリプルアクセル)に2回成功するなど圧倒的な演技を見せました。
「今後は4回転ジャンプにも挑戦したい。4年後の(ソチ)オリンピックでは日本のエースになれるよう頑張っていきたい」
2010-11年シーズンからシニアに参戦した羽生選手。
グランプリシリーズのNHK杯のフリーでは4回転トーループに成功するなどして4位に入ります。
さらに2011年2月には四大陸選手権に出場し、銀メダルを獲得しました。
3月7日、自身が通っていた仙台市内にある東北高校に戻って「さらに高みを目指すので応援よろしくお願いします」と銀メダルを報告しました。
その4日後の3月11日。東日本大震災が発生します。
大きな揺れを感じたのは仙台市内で練習のさなかでした。
スケートリンクは使えなくなりました。
自宅も壊れ、羽生選手は避難所での生活を余儀なくされました。
「もうスケーターとしての気持ちじゃない。とにかく地震から逃れて生活することが第一でした。そのつらさを知っているから、自分が滑っていいのかと。自分はそれより、本当にボランティアに行ったほうがいいんじゃないかとか、そういう頭になっていました」
そうした迷いを振り払ってくれたのが「スケート」でした。
羽生選手は全国を転々としながらチャリティーアイスショーに参加。
3年後のソチオリンピックで活躍することで、被災した地元に何か伝えられることがあるのではないかと考えるようになりました。
「地震の直後はどうすることもできない無力さと、自分が育った町が壊れていく悔しさを感じた。でも自分にできることはスケートしかない。みんなで力を合わせることで復興への見通しは開けてくると思う」
「とにかく自分が練習してきた中で、精一杯のことをやっていって、被災しても頑張ってこられたんだね、そういう意味を込めて元気になってもらえれば、そういう力になれればうれしい」
この年の12月、羽生選手は全日本選手権で3位となり、初めて世界選手権の代表に選ばれます。
その世界選手権(2012年3月)は、ショートプログラムで7位と出遅れたものの、フリーで巻き返し3位に。
最後は涙が止まりませんでした。
「これまで悩むことがあったが、スケートをやってきてよかった」
2012-13年シーズン。羽生選手は、ソチオリンピックを見据えて練習拠点をカナダのトロントに移しました。
教えを仰いだのは、ブライアン・オーサーコーチ。そこでスケーティングの基礎から自分の滑りを見つめ直しました。
このシーズン、羽生選手は、NHK杯の初優勝に続き、グランプリファイナルで2位。
そして全日本選手権で初優勝と結果を残します。
迎えたオリンピックシーズンの2013-14年シーズン。
羽生選手はグランプリファイナルの初優勝に続き、代表選考会を兼ねた全日本選手権で2連覇を達成。
初めてのオリンピックへの切符を手にしました。
「素直にうれしい。ここからがスタートと考えないといけない。課題が出たし、まだまだ足りないところがあったのでしっかりとやっていきたい」
2014年2月13日。
ソチオリンピック、男子シングル前半のショートプログラムが行われました。
羽生選手は4回転を含む3つのジャンプすべてを成功させ、101.45をマーク。
ショートプログラムで史上初めて100点を超える得点をマークし、自身の世界最高得点をオリンピックの舞台で更新。トップに立ちます。
後半のフリー。
羽生選手は冒頭の4回転サルコーで転倒。次の4回転トーループは何とか決めましたが、その後の3回転ジャンプは転倒してしまいます。
「体力も奪われ気持ちも沈んでいく一方だった」
それでも羽生選手は、プログラム後半の連続ジャンプを決めていきます。
“最後まで諦めない”という屈強な精神力を示しました。
ライバルの追い上げをかわし、日本の男子シングルで初めてとなる金メダルをつかみとりました。
試合後の記者会見。
羽生選手は報道陣から試合後にあまり笑顔を見せない理由を問われました。
「金メダルの実感がわかないこともありますが、震災からの復興のために自分に何ができたのかわからない。複雑な気持ちです」
「(震災当時は)スケートができなくて、本当にスケートをやめようと思いました。生活するのが精いっぱいという中で、大勢の人に支えられてスケートを続けることができました。金メダルを取れたのは被災した人たちや支えてくれた人たちの思いを背負ってやってきたからです」
4月、仙台市でパレードが行われ9万人余りのファンや市民が集まりました。
羽生選手は沿道の声援受け何度も深く頭をさげました。
オリンピックチャンピオンとして気持ち新たに臨んだ2014-15年シーズン。
羽生選手にとって予想もしなかった出来事が続きます。
持病の腰痛が悪化し、10月に予定していた国際大会を欠場。
そしてシーズン初戦となった11月のグランプリシリーズ中国大会では、フリー前の練習中に中国の選手と衝突。あごや頭、右足などを負傷したのです。
それでも羽生選手は試合に出場し、この大会は2位。
その後のNHK杯を経て12月のグランプリファイナル出場権をつかみました。
「逆境は、嫌いじゃない。それを乗り越えた先にある景色は、絶対にいいはずだと信じている」
その言葉どおり、羽生選手はグランプリファイナルで優勝し日本の男子で初の連覇を達成。
続く全日本選手権では3連覇を果たしました。
しかし“苦難”は続きました。
全日本選手権のあと、羽生選手は「尿膜管遺残症」と診断され手術を受けて入院しました。
退院後、練習を再開したものの、右足首をねんざしてしまいました。
2015年3月に中国の上海で開かれた世界選手権は2位。それでも決して後ろ向きにはなりませんでした。
「去年の大会で練習中に衝突してケガをしたこのリンクで最後まで滑り切れたのはよかった。今シーズンは山あり谷ありでよかったり悪かったりだったが、この経験は今後に生きていくと思う」
2015-16年シーズン。
羽生選手はフリーの曲に、平安時代の陰陽師、安倍晴明を描いた映画の曲「SEIMEI」を選びます。
次のピョンチャンオリンピックを見据えての選曲でした。
「陰陽師は、自分に合ったキャラクターだ。きゃしゃで、繊細だけど、戦いに挑むような気持ちを心の中に抱いている。繊細さの中に日本人らしい強さを表現したい」
「ソチオリンピックまでは4歳からスケートを始めて15年あったが、次のオリンピックまでは、3年しかない。去年は精神的に成長できたので、今度は、表現の幅を広げるなど肉体的な課題を見つけてオリンピックへ有意義な年にしたい。常に、明日の自分が、今の自分が見たら胸を張っていられるような、そんな今を過ごし続けたい」
11月のNHK杯。
羽生選手はショートプログラムで、ソチオリンピックで自らが出した世界最高得点を更新。
会心の演技でトップに立ちます。
さらに後半のフリー。
羽生選手が「SEIMEI」で圧倒的な演技を見せます。
4回転トーループと4回転サルコーの2種類の4回転ジャンプを3回跳び、いずれも成功。
「SEIMEI」の曲に合わせて、力強さとしなやかさを使い分ける表現や、スピードのあるスケーティング、技と技をつなぐ演技など、すべての点で完成度の高さをみせました。
演技構成点は、5項目すべてで10点満点中9点台を獲得。
史上初めて合計得点で300点超えとなる322.40の世界最高得点をマークしたのです。
これに続き、12月のグランプリファイナルでは、ショートプログラムで再び世界最高得点を更新。フリーでも高得点をマークし、合計得点の世界最高を再び更新する330.43をマーク。
史上初のファイナル3連覇を果たしました。
「皆さんは点数に注目しているかもしれないが、僕の中では点数は関係ない。自分のスケートを向上させて磨いていくことが大切。誰が見ても素晴らしいと思う演技ができるようにしていきたい」
2016-17年シーズン。
羽生選手はシーズン初戦として臨んだ国際大会のショートプログラムで、史上初めて「4回転ループ」に成功します。
11月にはNHK杯で2連覇。
12月にはグランプリファイナルで4連覇を達成するなど活躍を続けます。
2017年にフィンランドで行われた世界選手権は、ショートプログラムで5位と出遅れましたが、後半のフリーで、圧倒的な演技を見せました。
冒頭で4回転ループに成功すると4回転サルコーにも成功。
演技後半に4回転サルコーを含む連続ジャンプ、さらに4回転トーループも決め4つの4回転ジャンプをすべて成功させました。
みずからの世界最高得点を更新する223.20をマークし、逆転優勝を果たしたのです。
帰国後の会見では2連覇がかかるピョンチャンオリンピックについて思いを話しました。
「ソチで金メダルを取った時に、『第2のスケートの人生のスタートだ』と思い、そこから環境が変わった。オリンピックの舞台は、連覇がどうのこうのと言っている余裕はない。見ている方は、2連覇を期待しているし、期待に応えるための金メダルになると思う。自分の演技をどれだけ突き詰められるかが勝利に直結するので、毎日の練習の中で、どれだけ2連覇の意識を払しょくするかが大事になると思う。若干のプレッシャーはあるが楽しみだ」
ピョンチャンオリンピックへ向けた2017-18年シーズン。
羽生選手はフリーの曲を2シーズン前の曲、「SEIMEI」に戻すことを決めます。
ただし演技は、得点が高くなる後半の4回転ジャンプを3回に増やし、合わせて5回跳ぶ構成に。
自らの世界最高得点をさらに上回ることができる難度の高い構成としました。
「2シーズン前に演技した時からオリンピックシーズンで使いたいと思っていて迷いなく決めた。『SEIMEI』は自分でいられるプログラムで滑っていて気持ちいい。ピョンチャン大会は健康で、けがなく実力を出せる状態で代表に選ばれることが大事で、金メダルを目指したい」
しかし11月。羽生選手は再び大きな苦難に直面します。
NHK杯の公式練習。フリーのプログラムに組み込んでいる「4回転ルッツ」の練習で着氷した際に転倒。「右足首のじん帯損傷」と診断されたのです。
NHK杯は欠場。
回復が遅れ、オリンピックの代表選考会を兼ねた全日本選手権も欠場を余儀なくされました。
実績が考慮され代表に選ばれたものの、試合から遠ざかったままオリンピック本番を迎えることになりました。
2018年2月11日。羽生選手は韓国に入りました。
ケガをしてから3か月。復帰戦がオリンピックという大きなプレッシャーがかかる状況であっても羽生選手には、連覇への強い覚悟を持っていました。
「どの選手よりもいちばん勝ちたいという気持ちが強くあると思う。しっかりと頂点というものを追いながら頑張りたい」
「クリーンに滑ることができれば、絶対に勝てる自信がある。オリンピックに出られると思うぐらいの練習はしてきた。やるべきことしてきたし、これ以上ないことをしてきた。夢に描いていた舞台で、夢に描いていた演技をしたい」
2月16日、男子シングルショートプログラム。
羽生選手は最終グループの1番目、全体の25番目に登場しました。
冒頭の4回転サルコー、演技後半にはトリプルアクセル、そして4回転トーループと3回転トーループの連続ジャンプと、3つのジャンプすべてを体の軸がぶれず流れるような着氷で成功させました。
ピアノの曲に合わせた繊細な表現力、なめらかなスケーティングも高く評価され、自身が持つ世界最高得点に迫る111.68でトップに立ちました。
そして翌日のフリー。
冒頭の4回転サルコー、次の4回転トーループはスピードに乗った助走から流れるような着氷を見せ、出来栄えではいずれも満点をえて点数を伸ばしました。
演技後半には、3連続ジャンプを予定していた4回転トーループで着氷が乱れて大きく減点され、最後に跳んだ3回転ルッツも着氷が乱れました。
それでも4回転サルコーと3回転トーループの連続ジャンプをはじめ、成功させたジャンプはいずれも高い出来栄え点を獲得しました。
「SEIMEI」に合わせ、曲のリズムを刻むようなステップや体を大きく使う緩急のある振り付けを見せ、演技構成点は全体のトップの点数をマーク。
世界最高得点である自己ベストには及ばなかったものの、206.17でフリーではアメリカのネイサン・チェン選手に次いで2位の得点。
合計317.85で金メダルを獲得し、男子シングルで66年ぶりとなるオリンピック2連覇を果たしました。
「とにかく右足が頑張ってくれて、感謝しかない。ここまで来るのにたくさんの人に支えられて生きてきた。スケートだけでなく、たくさんの方に羽生結弦を育ててもらったことを感謝したい」
「今回は初めて自分をコントロールしながら作戦を立てながら、自分でつかみとった金メダルだったと言えると思う」
翌日の一夜明け会見。
羽生選手が口にしたのはさらなる高みへの挑戦でした。
「たくさんの思いを込めて取りにいった金メダルだった。思い描いていた結果になり金メダルをかけていることが幸せだ。夢は叶ったし、やるべきことはやれた。すがすがしい気持ちだ」
「最後の最後まで支えてくれたのはトリプルアクセルだった。アクセルジャンプへの思い、時間は、質、量でどのジャンプより多い。アクセルは“王様のジャンプ”で4回転アクセルを目指したい。モチベーションは4回転アクセルだけ」
2018-19年シーズン。
羽生選手はフリーで、幼い頃から憧れていたロシアのエフゲニー・プルシェンコさんのプログラムで使用された曲を使用します。
世界で誰も成し遂げていない4回転トーループとトリプルアクセルの連続ジャンプを取り入れるなど、レベルの高い演技構成でのぞみました。
グランプリシリーズの自身の初戦となったフィンランド大会。
羽生選手は史上初めて4回転トーループとトリプルアクセルの連続ジャンプに着氷するなどしてシーズンの世界最高得点をマークして優勝、本人の意欲と演技がかみ合って、順調に滑り出しました。
しかし2戦目のロシア大会。
フリーの前の公式練習で、ジャンプの着氷の際に転倒し、右足首をけがしてしまいます。
それでも羽生選手は、プルシェンコさんの地元でもあり「特別なこの場所で勝ちたい」という思いでフリーにのぞみました。
ジャンプの転倒などもあって満足のいく演技ではなかったものの優勝を勝ち取りましたが、演技のあとロシアの振付師、タチアナ・タラソワさんが抱きしめると涙を流しました。
「タラソワさんが、“よく頑張ったね”と声をかけてくれたが、“素晴らしかった”と言われる演技をしなくてはいけなかった。この地でそれができなくて悔しい」
その翌日、羽生選手は松葉杖をついて表彰台に姿を見せました。
「右足首」のケガは、じん帯の損傷などで、3週間の安静と、およそ1か月のリハビリが必要と診断されました。
グランプリファイナル、そして全日本選手権は欠場を余儀なくされました。
試合に復帰したのは2019年3月の世界選手権。4か月ぶりの実戦となりました。
ショートプログラムで3位につけた羽生選手。
逆転を目指したフリーは冒頭の4回転ループに成功。
続く4回転サルコーは、着氷で体勢が崩れるのを何とかこらえましたが、回転不足と判定されました。それでも、4回転トーループとトリプルアクセルの連続ジャンプを決めるなどミスを最小限に抑えました。
合計得点は300.97。
優勝してもおかしくないような高得点でしたが、羽生選手は2位で優勝には届きませんでした。
羽生選手を上回ったのが、アメリカのネイサン・チェン選手。
3種類の4回転ジャンプを全て決めるなどして世界最高得点(新採点方式)となる合計323.42をマークし優勝したのです。
羽生選手にとって大きな衝撃でした。
「300点をちょっと超えただけでは勝てない。今の自分はこれまででいちばん強い状態にいると思うが、もっと色々なことを試していく必要があるし、とにかく強くなりたい。強くなるためには練習しかない。今回、ショートプログラムとフリーの両方をミスなく演技していても、たぶん、すごくぎりぎりでチェン選手には勝てなかったと思う。自力が足りないし、完全に実力不足だ。彼へのリスペクトがあるからこそ、勝ちたいし、ルッツやフリップといった4回転ジャンプの種類を増やしたい。4回転半ジャンプを含めて得点源になるジャンプをもっと増やさないといけないと思う」
2019-20年シーズン。
羽生選手とチェン選手の争いに一層注目が集まりました。
12月のグランプリファイナル。
前半のショートプログラムは、チェン選手がトップで羽生選手が2位につけます。
後半のフリー。
羽生選手は4種類の4回転ジャンプを5本跳ぶ難度の高い演技で臨みました。
冒頭の4回転ループをほぼ完璧に決め、2年ぶりに演技に組み込んだ4回転ルッツにも成功します。
しかし、後半は4回転からの連続ジャンプが回転不足になったり、トリプルアクセルを決められなかったりとミスが続きました。
合計得点は291.43で2位。
優勝はチェン選手で、4回転ジャンプや連続ジャンプをほぼミスなく決める圧倒的な演技を見せ、合計得点は335.30。
自身が持つ世界最高得点を更新して大会3連覇を達成しました。
この大会、フリーの前日の練習で、羽生選手は「4回転半ジャンプ」の練習を繰り返していました。
「4回転半」は羽生選手がピョンチャンオリンピックで2連覇を達成したあと、“目指したいジャンプ”として口にしていた世界でまだ誰も試合で成功していない大技です。
なぜそのタイミングで練習をしたのか、試合後の取材に答えました。
「ショートプログラムを終えた時点で、チェン選手に勝つのは難しいだろうと思っていた。すると幼い頃の自分が、いまの自分を見たときに“胸を張って自分がここで何かをやったのか”と言われているような気がした。何かしら、ここで残せる何かをと考えたときに、4回転アクセルを決めることを思いついた」
「演技構成点を頑張ったとしても、今の得点に5点加わるくらいだと思う。5点くらいであれば、連続ジャンプを難しくすれば、もらえる点数なのかも知れない。ただ、やはり、それでは僕の中でスケートをやる意味にならない。自分にとって4回転アクセルは“王様のジャンプ”だと思う。4回転アクセルをやったうえで、ジャンプだけでなく、フィギュアスケーターとして完成させたいという気持ちは強い」
2020年2月。
羽生選手は韓国で開かれた四大陸選手権に出場し、この大会初優勝を果たしました。
しかし、この後予定されていた世界選手権は、新型コロナウイルスの影響で中止されます。
羽生選手は、新型コロナの影響を考慮して2020-21年シーズンのグランプリシリーズを欠場することを決断。
長く試合から遠ざかることになりました。
新型コロナウイルスの感染が世界で広がる中、羽生選手はコーチと離れ、ひとり日本国内で練習を続けました。
2020-21年シーズンの初戦となった12月の全日本選手権前の取材では、かつて経験したことのない環境を前向きにとらえようとしていたことを明かしました。
「毎日、1人でコーチなしで練習をして、ケアも難しかった。なるべく家族以外とはほぼ接触もせず、外に出て行くということが全くなかった。それでもスケートに集中できる環境だったし、いい練習はできたと思っている」
「悩み始めると、どうしても負のスパイラルにはまりやすいなとは思っていたが、その中でうまくコントロールするすべだとか、1人だからこそ深く分析したりだとか、どういうふうに調子が悪くなっていくのか、どのように調子がよくなっていくのかとか、そういうことを経験するいい機会になった」
迎えた全日本選手権。
ショートプログラムでトップに立った羽生選手は、ブランクを感じさせない圧倒的な演技を見せました。
新しいフリーのプログラムは「天と地と」。
ゆったりとした曲調の中で滑り始め、冒頭の4回転ループと続く4回転サルコーをほぼ完璧に決めるなどすべてのジャンプを成功させました。
2位に30点以上の差をつけて5年ぶり5回目の優勝を果たしました。
「このプログラムにすごく思い入れがあって、曲を聞けば感情が入るし、振りの1つ1つにいろいろな意味を込めている。ただ、その中でもジャンプを完成させないとプログラムの一連の流れとして伝わるものが伝わらなくなる。初戦だったとはいえ、自分が伝えたいこと、このプログラムで見せたいことはジャンプが途切れなかったという意味でも少しは見せることができた」
そして、自身の今後の目標について話しました。
「とにかく4回転半を試合でおりたい。そこが最終目標だ。4回転半の難しさ、そこまでたどり着けるのか、夢物語なのではないかという感覚まであったことを考えると、本当にそれを最終目標にしていいのかなという感じもなくはない。ただ、そこにたどり着かなければ、自分がスケートをやりたい気持ちを押し通してトレーニングをさせてもらう理由がなくなる。とても険しい壁に向かって突き進んでいて、ハードルがすごく高いが、幻想のままにしたくない。絶対に自分の手でつかみとって、その先の壁がない壁の先を見たい」
北京オリンピックに向けた2021-22年シーズン。
羽生選手はシーズン初戦に11月のNHK杯を予定していました。
しかし、大会の直前に練習中に転倒。
右足関節じん帯の損傷で大会を欠場を余儀なくされました。
次に予定していたグランプリシーズのロシア大会も欠場。
ケガからの復帰戦にしてシーズンの初戦が、北京オリンピックの代表選考会を兼ねた12月の全日本選手権となりました。
羽生選手は、大会を前に3連覇がかかる北京オリンピックへの出場を目指す意向を明らかにしたうえで、4回転半ジャンプに挑む考えを示します。
「ここで4回転半ジャンプができたら満足するのかもしれない。それは諦めていない。ここでやることを。きょうもきょうでできること、きょうやるべきことを積み重ねたと思っているし、望みを捨てずに諦めずに、しっかりやっていきたいなとは思う。ただ延長線上に北京はあるかもしれないなと腹をくくってここまできた」
迎えた全日本選手権。
ショートプログラムは、冒頭で4回転サルコーをほぼ完璧に決めます。
続く4回転トーループと3回転トーループの連続ジャンプも成功。
圧倒的な演技でトップに立ちました。
後半のフリー。
最初のジャンプで「4回転半」に挑戦しました。
しかし、両足での着氷。回転が足りずトリプルアクセルと判定されました。
それでも、その後は4回転サルコーをほぼ完璧に決めました。
後半は、4回転トーループからの連続ジャンプ2つをミスなく着氷するなど、着実に得点を重ねました。
フリーの得点は211.05で、合計322.36をマーク。
2年連続6回目の優勝を果たすとともに、北京オリンピックへの切符をつかみとりました。
4歳でフィギュアスケートをはじめ、世界のトップへと成長していく過程でも、そしてトップになったあとも数多くの困難に遭い、その度に立ち向かい、何度も復活を果たしてきた羽生選手。
3回目のオリンピックとなる北京のリンクに、どんなストーリーを刻むのか注目されます。
「出るからには、勝ちをしっかりとつかみ取って来られるように。また今回のような4回転半ジャンプではなく、きちんと武器として4回転半ジャンプを携えていけるよう、精いっぱい頑張りたい」
「もちろん、1位を目指してやっていくが、ただ、自分の中ではこのままでは勝てないことはわかっている。もちろん4回転半ジャンプへのこだわりを捨てて勝ちにいくのであれば、他の選択肢はある。ただ、自分がこの北京オリンピックを目指す覚悟を決めた背景には、4回転半ジャンプを決めたい思いがいちばん強くある。4回転半ジャンプを成功させつつ、そのうえで優勝を目指して頑張る」
仙台市出身の羽生選手は、東日本大震災の発生から10年となった2021年3月11日にあわせて被災地へメッセージを送りました。震災が起きた時は高校1年生だった羽生選手。メッセージの中には10年という月日を経て気づいた思いが込められています。
“10年という節目を迎えて、何かが急に変わるわけではないと思います。
まだ、癒えない傷があると思います。街の傷も、心の傷も、痛む傷もあると思います。まだ、頑張らなくちゃいけないこともあると思います。
簡単には言えない言葉だとわかっています。言われなくても頑張らなきゃいけないこともわかっています。でも、やっぱり言わせてください。僕は、この言葉に一番支えられてきた人間だと思うので、その言葉が持つ意味を、力を一番知っている人間だと思うので、言わせてください。
頑張ってください。
あの日から、皆さんからたくさんの「頑張れ」をいただきました。本当に、ありがとうございます。
僕も、頑張ります”
名前 | 羽生結弦 |
出身地 | 宮城県仙台市 |
生年月日 | 1994年12月7日 |
2014年 | 【ソチ大会】 金メダル |
2018年 | 【ピョンチャン大会】 金メダル |
2012年 | 3位 |
2013年 | 4位 |
2014年 | 1位 |
2015年 | 2位 |
2016年 | 2位 |
2017年 | 1位 |
2019年 | 2位 |
2021年 | 3位 |
2011年 | 4位 |
2012年 | 2位 |
2013年 | 1位 |
2014年 | 1位 |
2015年 | 1位 |
2016年 | 1位 |
2019年 | 2位 |
2008年 | 8位 |
2009年 | 6位 |
2010年 | 4位 |
2011年 | 3位 |
2012年 | 1位 |
2013年 | 1位 |
2014年 | 1位 |
2015年 | 1位 |
2019年 | 2位 |
2020年 | 1位 |
2021年 | 1位 |
誰も到達したことのない領域に足を踏み入れた、希代のフィギュアスケーター、羽生結弦選手…
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前回ピョンチャン大会の日本選手の活躍を振り返ります。
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