競泳チームの“お母さん”として
パラリンピックに6回出場して金メダル15個を獲得し、「水の女王」とも呼ばれる成田選手の素顔は「女王」のイメージとは程遠い印象を受けます。強化拠点としている横浜市のスイミングスクールでは練習が終わると入れ代わりでやってくる子どもたちに声をかける姿が日常の光景となっています。
幼稚園や保育園での出来事を報告する子どもたちの話に優しい笑顔で耳を傾ける姿は「お母さん」という感じがぴったりです。
東京パラリンピックの競泳チームで最年長の成田選手は最年少の14歳、山田美幸選手とは親子ほどに年が離れています。
合宿などで山田選手の髪を結んであげる姿を見ると、選手たちにとってもお母さんのような存在だと感じました。
成田選手は「『お母さんみたいだから』と言って頼ってもらえるのはすごくうれしい。リオ大会の時は“お母さん的存在”だったけど、私の同級生はおばあちゃんになった人もいる」と笑います。
“水の女王”の意地
ただプールに入るとその雰囲気は一変します。
水の抵抗を増やすためにパラシュートを体につけるなど、工夫した練習で、多いときには1日に4000メートル近くも泳ぐといいます。
しかし体は正直でした。2年前には右ひじを痛め、3か月近く練習もセーブせざるをえない時期があり、練習後にはボロボロになった体のケアのため針治療に通いました。
成田真由美選手
「水泳のために毎日生きていて、0.01秒でも縮めたい思い。苦しすぎて涙が出るけどね。でもその次に自分を超えたって思える」
成田選手がパラリンピックに初めて出場したのは、1996年のアトランタ大会でした。北京大会まで4大会連続で出場したあと、いったんは競技から離れましたが、招致段階から携わった東京パラリンピックの開催が決まったことをきっかけに競技に復帰しました。
成田選手が持つ日本記録は7種目。そのうちの6種目がリオデジャネイロ大会以降に更新されたものです。年齢を重ねても、なぜタイムを伸ばし続けられるのか。答えは実にシンプルでした。
成田真由美選手
「毎日毎日これだけの練習をこなしていけている。単純かもしれないけど、それだけ追い込んでるからじゃないですか」
誰もが暮らしやすい社会の実現へ
成田選手がそこまで頑張るのには理由があります。
13歳で脊髄炎が原因で下半身が不自由になり、電車やバス、飲食店、さまざまな場所で足が動いた時とは違う生きづらさを感じてきたといいます。23歳で水泳を始めようとした時、何か所ものスイミングスクールに受け入れを断られて、やっと見つけたのが今の練習拠点でした。
選手としての活動だけでなく、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の理事や、電車内に車いすスペースを増設するよう提言するといった活動も行ってきました。「誰もが暮らしやすい社会の実現」という思いがその原動力になっています。
成田真由美選手
「私たちがスポーツをしている姿を見てもらった時に、車いすの人ってどうやって生活しているんだろうか、車いす用の駐車場とか車いす用のトイレってどうなっているかなとか。そういう所まで含めて考えるきっかけになれば、もっともっとみんなが暮らしやすい社会になってくれると思う。せっかく東京でパラリンピックが開かれるんだったら、社会を変えなくちゃいけない、変えられるチャンスだと思っている」
コロナ禍でも「挑戦しなければ後悔する」
そんな成田選手にとって新型コロナウイルスの感染拡大の影響は深刻でした。障害の影響で肺機能が弱い成田選手は感染すれば重症化するおそれもあります。さらに大会が延期され開催を巡っても賛否が分かれるなど、選手としても、組織委員会の理事としてもコロナ禍で苦しい立場に立たされました。
成田真由美選手
「コロナ禍で緊急事態宣言が続く中、本当に私は練習をしていいんだろうかという葛藤がすごくある」
それでもプールが閉鎖されている期間には、毎日4キロの鉄アレイを車いすに乗せて、自宅から近くの駅までの1.3キロを往復するなど練習を続けました。
成田真由美選手
「私は泳ぐ事しかできない。私が泳いで結果を出すことが自分ができる精いっぱいのことなのかなと気持ちを切り替えた。挑戦できることが目の前にあるんだったら、挑戦しないで終わるほうが後悔すると思った」
最後の舞台“泣いて笑顔で”
「泣いて笑顔で終われる東京パラリンピックにしたい」
そんな思いで迎えた6回目のパラリンピックで、30年近くに及ぶキャリアは最後の舞台を迎えました。
しかし世界の壁は厚く、100メートル自由形、100メートル平泳ぎ、混合リレーはいずれも9位。出場した3種目ではいずれもあと一歩のところで決勝進出を逃しました。
最後はメイン種目としている50メートル背泳ぎ。30日午前の予選で同着ながら8位に入った成田選手は、最後の最後で決勝進出を果たしました。
迎えた決勝。
「これが最後なので肩が壊れてもいい」
スタートから懸命の泳ぎで6位に入りました。“水の女王”としての意地を見せました。
レースの後はプールに向かって一礼した成田選手。
インタビューで「世界6位になったのだから、まだ戦えるのではないか」と聞くと、晴れやかな表情でこう答えました。
「今の試合が最後のレースです。6位という余韻にしばらく浸りたい」
これまでパラリンピックで15個もの金メダルを獲得してきた成田選手が最後に残した6位という成績。その水泳人生に胸を張って、みずからの願いを口にしました。
「パラリンピックを通して、いろいろな気づきをしていただけると思う。そこからバリアフリーとか障害者の生活の面とか、いろいろなことを考えていただければ」
そこには「水の女王」でも「お母さん」でもない顔が浮かんでいました。その言葉にはパラスポーツを通して誰もが暮らしやすい社会を実現するというバトンを若い世代に引き継いでいってもらいたいという願いが込められていました。
「この25年間、選手としてやってこられたことは、すごく恵まれていたし、すごく幸せなこと」
すべてをやり遂げたあとにそう話した柔和な表情はいつもの「お母さん」のような成田選手に戻っていました。