静かな歴史的瞬間
7月30日夜、フェンシング男子エペ団体で日本は金メダルを獲得、初めて表彰台の真ん中に立った。
フェンシングは第1回大会から実施され続けてきた伝統競技。これまで日本は世界の壁に何度跳ね返されたかは分からない。それでも挑戦をやめなかった日本の努力が「東京の舞台」でまさに花開いた瞬間だった。
会場の幕張メッセを一歩外に出た。人が、いない。徒歩5分の距離にある駅に向かう道中も誰かとすれ違うこともない。駅前の広場も閑散とし、当然ながら大勢の人波を誘導して巧みな話術で騒ぎを落ち着かせる「DJポリス」などいるわけもない。
「記録にも、記憶にも残るはずの日本の金メダル」の静かすぎる余韻は、コロナ禍での大会の現実だった。
コロナ禍で失ったもの
コロナ禍で失ったもの。
日本は開催国ならではの“ホームアドバンテージ”も失った。
すべての試合が無観客で行われたバレーボール。
1964年の東京大会で「東洋の魔女」が大活躍し金メダルを獲得した女子の日本代表。その後輩たちは8月2日、予選リーグ突破をかけてドミニカ共和国との試合に臨んでいた。会場に響き渡るのはシューズが床をこする音や“ドスン”というボールを打ちぬく鈍い音。その音が鮮明に聞こえれば聞こえるほど、そこにあるはずだった大声援の不在が際だった。
コロナ禍のオリンピックに出場した選手には、見えない相手から“やいば”が向けられることもあった。“ネット上の声”だ。
選手のSNSなどにはの応援やねぎらいのコメントが数多く送られた一方で、国内外を問わず選手をひぼう中傷する投稿も目立った。
感染拡大が収まらず、開催そのものへの反対意見も根強く残る“逆風”のさなかでのオリンピックであることは選手自身も重々、理解していた。
大会の招致活動にも関わり、今大会で競泳日本代表の主将を務めた31歳のベテラン、入江陵介選手は大会前、「何が何でもオリンピックをやりたいという気持ちはない」と複雑な思いを口にしたことがあった。
大会期間中も国内の感染者は爆発的に増加。
競技を終えた入江選手は「いろんな葛藤があった」と最後まで複雑な感情を抱えたまま勝負に挑んでいたことを明かした。
もし言葉も文化も違う異国の地で行われたオリンピックであれば、選手たちは批判に直面せず、より競技に集中できたのかもしれない。
ある競技の日本チーム関係者が漏らしたことばが頭から離れない。
「自国開催だからこそ、大会中も批判的な意見にも接し続けなければならない。日本選手がいちばん苦しみながら戦っている」
輝いた新しい力~体操~
これまでのオリンピックとは違う、さまざまな思いを一人一人が抱いて臨んだ大舞台。その中で、鮮烈な輝きを放ったのは日本の若い力だった。
日本のお家芸と言われる体操では若きエースが誕生した。
橋本大輝選手だ。大会中に20歳になった橋本選手は、中学3年生だった5年前のリオデジャネイロ大会は金メダルを獲得した日本の男子団体の試合をテレビで見ていた。
「夢のまた夢だよな」とキラキラと輝くその舞台を、違う世界の出来事と眺めるだけだった。
それからの5年間、橋本選手はすさまじい成長を遂げた。
ゆかでG難度の「リ・ジョンソン」。跳馬では世界最高難度の「ヨネクラ」。
世界トップクラスの演技構成を身につけ、気がつけば憧れの内村航平選手とともに夢の舞台に立っていた。
しかし、そこには予想もしていなかった現実が待っていた。
内村選手がまさかの予選敗退に終わったのだ。
橋本選手はレジェンドの思いも背負って大会に挑むことになる。
日本の新たなエースとして戦った団体決勝。ライバルの中国、そしてロシアオリンピック委員会(ROC)と大接戦で迎えた日本の最後の種目は鉄棒だった。
これまで内村選手が担ってきた最後の演技を任された橋本選手。すべてを背負い込んで臨んだ演技できっちり着地を決めてた。
わずかな差でROCに届かなかったが、全員が初出場のメンバ-で銀メダルを引き寄せた。勢いに乗り橋本選手は史上最年少で個人総合の金メダルを獲得、種目別の鉄棒と合わせて2つ金メダルを獲得した。それでも現状に満足はない。
「3つのメダルを取ったが団体の銀メダルは悔しい。この悔しさを成長に変えてパリで絶対に団体の金メダルを取る。早く練習がしたい」
今大会の経験を胸に、3年後のパリ大会を見据えて、さらなる飛躍を誓った。
輝いた新しい力~スケートボード~
東京の地でオリンピックに新たに芽吹いた新競技は、その始まりにふさわしい若い力がまばゆい光を放った。
オリンピックデビューを果たしたスケートボード。主役は日本の10代の選手たちだった。
手すりや階段といった街中を再現したコースを舞台に技を競う女子ストリートでは13歳の金メダリストが誕生。西矢椛選手は1992年バルセロナ大会で14歳で金メダルを獲得した岩崎恭子さんの最年少記録を更新した。
「実感はわかないけど、うれしいです」とあどけない笑顔で喜びを表現したかと思えば「世界で知らない人がいないスケーターになりたい」と壮大な目標を口にした。
さらに9日後。すり鉢状の複雑なコースで迫力ある“エア”が見どころの女子パークで12歳の開心那選手が銀メダルを獲得して記録を塗り替えた。
スケートボードの日本のメダリストは5人、このうち4人が10代というのがこの競技を象徴している。
男子ストリートで金メダルを獲得した22歳の堀米雄斗選手はこう表現した。
「オリンピックがあったことで、スケートボードに新しい歴史が刻まれた」
コロナとの戦いの終わりが見えず閉塞感すら漂う中で、日本の若者たちは夏の青空の下、伸び伸びと羽ばたいた。
なぜ続いた? まさかの敗退
一方で金メダルを有力視された“ビッグネーム”に「まさかの事態」が相次いだ。
競泳の瀬戸大也選手、テニスの大坂なおみ選手、そして体操の内村選手ー。
もちろん、それぞれ要因は違う。
ただひとつ言えるのは、延期によって生まれた“1年の過ごし方”に苦労してきたということだ。
瀬戸選手は去年、絶好調だった。そこで決まった大会の延期、モチベーションの維持に苦しんだ。その後、自身の女性問題が発覚。十分なトレーニングを積めたとは言えない状態で、東京大会を迎えた。
大坂選手は大会直前のことし5月、世界中から注目されることで常に不安にさらされていると精神面での不安を訴えた。
圧倒的な演技を見せ続けてきた体操の内村選手。肉体が悲鳴を上げ、満身創いの体で戦い続けてきた。
勝負の世界で“たられば”は禁物だ。それでも、もし大会が1年前だったら…。
そう思ってしまう時があるほど、悔しい結果が残った。
重圧におしつぶされてしまったのか
最も苦戦を強いられたのが“史上最強”の呼び声が高かったバドミントンだろう。
絶対的エースの桃田賢斗選手が予選で敗退したあと、まるで勝てなくなった。
時差がないなかで各選手の事前の調整は順調に進み、本番に向けて競技会場から離れた選手村ではなく会場に近いホテルを確保して万全を期した。
“地の利”を生かした万全の準備ができていたはずだったが、結果は惨敗だった。
日本代表のパク監督は要因の1つとして「自国開催の重圧」をあげた。
予選で格下の相手に10連続失点を喫するなど本来のできからほど遠かった桃田選手は「緊張していつもどおりのことができなかった」と肩を落とした。
女子ダブルスで世界2位のナガマツペアは「五輪のマークが試合中でも頭をよぎった」と珍しく弱音をこぼし勝ちきることができなかった。
前回のリオデジャネイロ大会の金メダル1つと銅メダル1つを超える成績を目標に掲げた日本だったが、終わってみれば手にしたメダルは混合ダブルスの銅メダル1つのみ。追われる立場で迎えた自国開催のオリンピック。選手にとってかつてない重圧となり、そして押しつぶされた。
真剣勝負ができる喜び
課せられた厳しい感染防止対策に無観客での開催。
難しい条件での戦いとなった選手たちだったが、随所で名勝負が生まれた。
勝者の歓喜、敗者の涙には、“4年に1度”、みずからの国や地域を背負って戦うことの重み、なによりライバルたちと真剣勝負ができる喜びがあらわれていた。
ゴルフでは象徴的なシーンがあった。
男子の最終ラウンド。7人もの選手が3位で並び銅メダリストを決めるプレーオフにもつれこんだのだ。
ことしのマスターズ・トーナメントを制した日本の松山英樹選手や海外メジャーで4勝をあげているアイルランドのローリー・マキロイ選手など、そうそうたる選手たちが銅メダルのために最後まで死力を尽くして戦う姿は、ふだんは優勝を決めるときにしかプレーオフを行わないゴルフでは異例の光景で新鮮だった。
敗れたマキロイ選手は、試合後に充実の表情で振り返った。
「3位になるためにこんなに頑張ったことはないよ。お金のためにプレーするのではない、古き良き時代に戻った気分だ。私にもオリンピック精神のようなものが芽生えた」
プロスポーツでもあるゴルフでは、高額な賞金がかかる海外メジャーなどビッグタイトルを優先してオリンピック出場を辞退する選手も少なくない。マキロイ選手自身もかつてオリンピックの価値を疑問視したこともあったが、初出場となった東京大会を経てその価値を実感していた。
トッププロの選手たちが誇りや名誉のために力のかぎり戦い抜いた4日間は、オリンピックの価値をあらためて感じさせた。
東京から始まる新たなオリンピック
東京大会は、変わらなければならない部分に光をあてようと選手たちが行動に移した最初の大会にもなった。
大会の理念にも掲げられる“ダイバーシティー”、多様性を認め合う世界の実現だ。その象徴がウエイトリフティングの競技会場にあった。
心と体の性が一致しないトランスジェンダーの選手が初めてオリンピックに出場。ほかの選手が不公平感を口にするなど定着に向けてはクリアしていかなければならない課題も多いが、閉じていた扉を開いたのは大きな一歩にほかならない。
この選手が残したのは「スポーツが世界中のすべての人々に開かれた活動であることを示してくれた」と感謝のことばだった。
また競技会場で選手たちが差別や抑圧に対する抗議の意思を示す行動が一部で認められるようになり、実際に行動に移した大会にもなった。
海外でプレーする選手もいるサッカー女子の日本代表「なでしこジャパン」は試合前にチーム全員で片方のひざを地面につけ、差別のない社会の実現を願った。
100年を超える近代オリンピックの歴史のなかで、新たな姿をみせる大会に東京大会はなった。
コロナ禍の世界からやって来た選手たちは、スポーツの価値、重圧、批判、制約など多くのものを背負って東京で戦った。そして、メダルの有無や色だけでは語れないオリンピックの価値があることを教えてくれた。その経験を次のステージに向けて選手たちが、ひいては私たちがどのように生かしていくのか。
それこそが東京大会のレガシーになると信じている。