世界最強を決める戦い
柔道男子100キロを超えるクラス。ここで頂点に立った選手は世界最強の柔道家と評される。体重無差別だった時代も含め歴代の日本選手たちは、柔道発祥国の威信をかけて戦ってきた。
1964年、前回の東京オリンピック、最終日の無差別で日本中の期待を背負った神永昭夫さんが決勝でオランダのアントン・ヘーシンクさんに敗北した。これは日本に衝撃を与えただけでなく、柔道が「JUDO」へと進化し世界に広まるきっかけにもなった。
ここから日本と世界の戦いが始まった。その後、ロサンゼルス大会の山下泰裕さん、ソウル大会の斉藤仁さんらが歴史をつないできた。ここ2大会は頂点の座を海外勢に奪われ、“最重量級の復権”は至上命題となった。
辞令 “最強の柔道家”を命じる
「世界一の柔道家を命ずる」
原沢選手の自宅リビングの棚に大切に掲げられている1通の辞令。
2018年4月、当時所属していたJRA=日本中央競馬会を退社した。充実したサポートや、その後の人生の安定を捨て、すべてをオリンピックにかけるという決断だった。
この辞令は、原沢選手を送り出した会社からの粋なはからい。そして、柔道界の悲願を表した言葉でもあった。
再スタートするも「オーバートレーニング」に
その世界一の柔道家の座に君臨し続けて来たのが、フランスのテディ・リネール選手。2016年のリオデジャネイロオリンピック、原沢選手は決勝の舞台でこの絶対王者に挑んだ。しかし壁は高かった。
原沢選手
「調子は最高に良かったのに追い詰めることができなかった。勝たないと意味が無い」
獲得した銀メダルは「自分にとっては手元に置く価値があると思わなかった」と山口県にある母校の高校に送った。
原沢選手
「自分は1度も世界一になっていない。だからこそ自分のために金メダルを取りたい。それが結果的に最重量級の復権につながればいい」
東京オリンピックを目指して再スタートを切るが、思うように結果が出ない。2017年の世界選手権では、ランキング下位の選手に敗れて初戦で敗退した。
海外勢のパワーに対抗しようと体重を5キロほど増やして130キロにしたが、これも体に負担をかける結果となってしまった。
稽古で多い込むとすぐに息が切れる異常なほどの疲労感。
“気持ちに体がついていかない”
病院で「オーバートレーニング症候群」と診断された。柔道人生で初めて1か月以上の休養を余儀なくされた。
原沢選手
「自分の思い描いている目標に向かって日々を過ごして行くことができない自分がいた。目標に向かって練習やトレーニングを調子を維持してやっていけないというのが1番つらかった」
それでも胸の中にある答えは1つだけだった。
原沢選手
「柔道をやりたいと思ったし、もう1回、目標の金メダルを目指して頑張りたいと思った」
JRAの退社を決意しフリーとなった。
体調管理 練習…すべて自己責任
原沢選手
「体調管理にしろ、練習にしろ、試合の結果にしろ、自分でみずからに責任を持って行動する。そういう意味で独り立ちできればまた違う世界が見えてくるのかなと思った」
すべての時間は柔道に費やすためのものとなった。まず見つめ直したのは「オーバートレーニング症候群」となった自身の体調管理。
その日の食事をスマートフォンで撮影して栄養士に送り、カロリー計算や栄養バランスのアドバイスを受けた。野菜ジュースが体にいいと聞くと自宅にミキサーを購入。自分で毎日作るのが日課になった。
トレーニングの専門機関とも契約。血圧や脈拍を日常的に計測し、体調のわずかな変化を見逃さずトレーニング量や稽古量を調整するようになった。
オリンピックで頂点争える力を証明
最重量級を制するため、肉体強化にも取り組んだ。トレーナーと相談しながら、重視したのは持ち味の俊敏性や瞬発力をさらに伸ばすことだった。細かいステップを繰り返すメニューや短い距離のダッシュなどで鍛えた。
そして、全力で組み合い技をかけ合う時間と、組み手争いで体力を温存する時間を繰り返す柔道の競技の特性を意識したメニューも取り入れた。全力で自転車をこぎ続け、一定のインターバルを置いてから、また全力でこぐ。まるで競輪選手のようなトレーニングもこなした。
自己責任での取り組みが軌道に乗り、少しずつ成績にもつながってきた。2019年夏、オリンピック会場の日本武道館で行われた世界選手権。銀メダルを獲得しオリンピックの舞台でも頂点を争える力があることは証明した。
感染拡大する中 「今できることをやる」
東京オリンピックで世界一になるために、さらに何に取り組んで行くのか。原沢選手と日本代表の井上康生監督の考えは一致していた。
井上監督
「競り合いになったら、逆に勝ちきらなくてはいけない。しばらく海外に合宿に行くとか、外国人選手と組み合う機会を増やさなくてはいけない」
原沢選手
「海外に行きたい。日本人選手相手では感じられないことがある」
海外勢のケタ違いの圧力とパワー。その圧力を受け続けながらも、最後は勝ちきる持久力をつけるためには、実際に海外で組み合う機会を増やさなければ強化できないという考えからだった。
ところが、新型コロナの感染拡大が、この強化計画を大きく狂わせることになった。去年3月以降の国際大会は相次いで中止。ようやく試合出場にこぎつけたことし1月の国際大会では初戦で敗退。この際、ろっ骨付近を痛めた。
4月の国際大会で復帰し2位には入ったものの、渇望した外国人選手との稽古の機会を設けることはできなかった。それでも、この状況を言い訳にすることはできなかった。
「感染が広まり、満足にできないのは世界も同じ。今できることを1日1日やっていくしかない」と原沢選手と井上監督は共に語った。
“今できること”
それは持ち味の瞬発力を生かした柔道を磨いていくことだった。内股や大外刈り、大内刈りといった得意の足技の技出しを早くするため、先に先に組み手を持って攻める意識を稽古で徹底した。
2回目のオリンピック またも世界の壁は高く
迎えた2回目のオリンピック。相手は簡単に両手で組み手を持たせてはくれなかった。
準々決勝、相手のウクライナのハンモ選手は、ことし1月に敗れている相手。明らかに原沢選手の体力は消耗していた。延長1分過ぎの時点で原沢選手はひざに手をつく。延長2分過ぎ、内股を決めて一本勝ちしたが、しばらく立ち上がれない。畳を降りたあとは、座り込み動けなかった。
続く準決勝。おととしの世界選手権の決勝で敗れたクルパレク選手と対戦。この試合も速攻勝負に持ちこむことはできず延長戦へ。延長およそ4分で力尽きた。
決勝での対戦を思い描いていたリネール選手との再戦は3位決定戦だった。圧倒的なパワーで圧力を受け続け、指導3つで反則負け。何もさせてもらえなかった。
原沢選手は力尽きた表情で、こう話すのがやっとだった。
「リオが終わったあと、たくさんの人に支えられて5年間やってきて幸せだった。結果で恩返しできず悔いが残る」
井上監督は指揮官として責任を背負った。
「力を出し切る形を作ってあげられなかったのは責任を感じているし、悔しい」
“世界一の柔道家”への挑戦は、今回も実らなかった。大会前から「東京オリンピックは柔道人生の集大成」と口にしてきた原沢選手。「世界一の柔道家」を命じた辞令どおりにはならなかった。
3年後のパリ大会を目指すという思いには、すぐにはなれないはずだ。ただ、この5年間、世界一の柔道家を目指して人生をかけて挑み続けた軌跡は、しっかりと残る。
今大会、男子では史上最多の5個の金メダル獲得に導いた井上監督も大会後の退任が決まっている。
日本柔道の悲願、重量級の復権は後進に託された。
(スポーツニュース部 記者 鎌田崇央)