会場を驚かせた廣田選手の姿
夢にまで見た東京オリンピックの舞台で、ふたりが最初に語ったことばは意外なものだった。
「オリンピックのコートに立つことは、もうできないと一度は思った」
およそ1時間前。コートに現れた廣田選手の姿に会場はことばを失っていた。右ひざには、これまで見たことがないような黒い装具をつけていた。

ダブルスでは縦およそ13メートル、幅およそ6メートルのコート内を選手たちが縦横無尽に動き回る。こんな器具をつけたバドミントン選手の姿を私はこれまで見たことがなかった。
そんな思いは周りの人たちも一緒で、取材する記者だけでなく、ほかのチームの関係者らも驚きの表情を浮かべていた。
強くなって迎えるはずだった東京五輪
私たちはこのふたりを3年余りにわたって取材してきた。
1学年上の福島選手が、マイペースな廣田選手を引っ張りながら、ふたりは黄金期の日本女子ダブルスで2017年以降、先頭を走り続けてきた。

本来だったらオリンピックイヤーになるはずだった、2020年3月のイギリス。
「この大会を制する者がその年のオリンピックも制する」と関係者の間で言われる全英オープンでふたりは初優勝した。並みいるトップレベルのライバルたちを次々と破っての堂々の優勝だった。

試合中のふたりの表情とプレーからは、研ぎ澄まされた精神と磨き上げられた技術が見て取れた。世界ランキング1位でありながら、世界選手権は3年連続銀メダル。ここぞという大きな大会の優勝に縁がなかったふたりが、ようやく「シルバーコレクター」を返上した瞬間だった。

この優勝で、東京オリンピックの金メダルがぐっと近づいたやさき、大会は1年延期された。心と体のコンディションを1年間かけて押し上げてきたふたりに突きつけられた厳しい決定。この延期にペアを引っ張ってきた福島選手がとりわけ大きくモチベーションを落とした。

そのスランプを支えたのが、相方の廣田選手だった。「先輩に代わり今度は自分がペアを引っ張る」と、所属チームが拠点を置く岐阜県で毎日の練習に一生懸命取り組んだ。
目指していたのは、前でも後ろでも積極的にゲームを引っ張ることができる攻撃的なラリー。試合に出られない長い期間をひたむきにパワーアップのために費やしてきた。

その成果が現れたのが、去年の末の全日本総合選手権だった。強さに磨きをかけた廣田選手が活躍しふたりは日本一の称号を2年ぶりに奪い返した。強くなったふたりの連携プレーがそこにはあった。
そして、東京大会はふたりでもう一度、さらに強くなって迎えるはずだった。それが6月18日。
この日、彼女たちの運命が暗転した。
じん帯断裂と『ふたりで』の約束
けがが起きたのは、東京 北区にあるナショナルトレーニングセンターで行われた日本代表の強化合宿だった。この日は、合宿終盤で午前中から実戦形式で練習試合を行っていた。
激しいプレーがあったわけではなかった。ただ、続けざまの合宿や迫る大会への追い込み練習で、廣田選手は体の疲労が極限近くにまで達していた。手を抜けない真面目な性格があだとなった。
廣田選手がバックハンドでシャトルを打ち返した瞬間、ひざに突然痛みが走った。ラリーを2回ほど続けると、突然その場にしゃがみ込み、もう立ち上がることができないほどの痛みになっていた。
右ひざの前十字じん帯の断裂だった。

バドミントンは踏み込んでシャトルを打つため、ひざのけがは致命傷になりかねない。けがの診断は全治6か月。オリンピック出場はもう無理だと誰もが思った。しかし、彼女だけは決して諦めなかった。
廣田選手
「オリンピックはふたりが長年目指してきた夢の舞台、どんなことがあっても『ふたりで』立ちたい」
ふたりは前回のリオデジャネイロ大会で出場権を逃している。現地の競技会場を訪れた際に、観客席から声援を送った日本代表の仲間が表彰台に立つ姿はひときわ輝いて見えた。
「次は自分たちも金メダルを取ろう」
あの時、ふたりで誓った約束だ。けががあってもオリンピックに出たいと語る廣田選手と福島選手も思いは同じだった。
福島選手
「廣田が『立ちたい』と言った。自分も同じ気持ちだった。できることを精いっぱいやって、ふたりらしく一緒にプレーしたかった。あとは私がカバーするだけと思った」
ふたりの気持ちはぶれなかった。
いちるの希望 チーム一丸で

周囲の制止を振り切るほどに出場へ強い執念を見せたふたり。
支えになったのは、所属チームとつきあいのあるリハビリの専門家だった。
通常、ひざの前十字じん帯を断裂した際には、周囲にある半月板や内側側副じん帯、外側側副じん帯、そして骨、この4つの部位が複雑にからみあって損傷する。ところが、廣田選手が痛めたのは前十字じん帯だけだった。ほかはほとんど無傷だったのだ。右ひざには力を込めることはできないが、痛みはそれほどではなかった。装具でひざを固定すればコートに立つことは不可能ではない。そうわかった。
「まだ出場はできるはず」と信じて、手術はオリンピックが終わったあとに延期した。
「いまは夢の舞台に立つことだけを目指したい」
難しい判断だったが、ふたりの気持ちも、チームの仲間の気持ちも。みんなの心が一つになった。残された時間の中で廣田選手は懸命にリハビリに取り組んだ。
2週間の安静期間を経た7月初旬。チームが拠点を置く岐阜県内の体育館で廣田選手は早くも練習を再開した。体育館にいすを置き、座った状態でシャトルを打つところからはじめたのだ。
やがて立ってプレーができるようにはなったが、当然かつてのように動き回ることはできない。それでも、しっかりと足を動かして廣田選手はシャトルを追っていた。

チームの今井彰宏監督は、当時の様子について「コートに立つだけでも本当に奇跡だ。ケガから大会までひと月以上あったことで、なんとか間に合ったようなもの。これが残り2週間だったらだめだっただろう。あとは一回一回を悔いなくやってほしい」と話していた。
東京五輪で見せた フクヒロペアの神髄

そして今月24日、ふたりはついにオリンピックのコートに立った。
「覚悟を決めてここに来た」と語った廣田選手は、じん帯の切れたひざで動き回り得点さえも奪ってみせた。
いつも一緒にいる福島選手は、2人分のプレーをするぞといわんばかりにコートを動き回り、廣田選手を徹底的にカバーした。
チャンスの場面では一気に攻めてポイントを重ねた。コート上で、ふたりはずっと声をかけあった。そして、ふたりは笑顔だった。
廣田選手がけがをしていることを一瞬忘れさせるような、ふたりの息の合ったプレーの連続。オリンピックの舞台に立てたことを感謝し純粋にバドミントンを楽しんでいるようだった。そして、オリンピックの初戦を勝って見せた。

直後のインタビューでふたりはこう語った。
福島選手
「ふたりでしっかり力を合わせれば全然問題ないと思う。このあとも、1戦1戦をふたりで楽しんでやれたらいいなと思います」
廣田選手
「痛みは少しありますが、全然大丈夫です。オリンピック初出場なので、思い切って楽しんで試合をしたくてここに来たので、あしたもそれをふたりでやれればいいなと思います」
キーワードは“ふたり”。苦しいときも、楽しいときも、好調なときも、不調なときも、いつも一緒に受け止め、一緒に喜び、一緒に解決してきたふたり。
そのフクヒロペアの神髄を見たような初めてのオリンピックの戦いだった。
敗退後に語ったことばは“絆”と“幸せ”

予選リーグを2勝1敗で終え、決勝トーナメントに進んだフクヒロペア。試合を重ねるごとに廣田選手の動きはより速くより広がっていったが、やはり本調子にはほど遠かった。
準々決勝の相手は世界3位の中国ペア。第1ゲームはふたりの連携プレーで奪ったが、試合にはゲームカウント1対2で負けた。ふたりの東京オリンピックが終わった。
試合を終えたふたりは、コートの上で互いの肩を抱き合い「ありがとう」と声をかけた。
観客のいない会場で、関係者による長い拍手が惜しみなく2人に送られていた。試合を戦った中国ペアもふたりと抱き合い、健闘をたたえ合った。

ハンデとリスクを負って臨んだ東京オリンピックで何を見つけたのか、ふたりに聞いた。
福島由紀選手
「オリンピックではすごく廣田との絆を感じた。準備してきたことは間違いなかった」
廣田彩花選手
「福島先輩とじゃなければ乗り越えられなかった。本当に幸せな時間でしたし、ここに立てて本当によかったと思う」
目に涙をためてインタビュースペースに来たふたりだったが、その表情は次第に笑顔に変わっていった。不思議と後悔や悔しさのようなものは感じられなかった。伝わってきたのは、ふたりの絆の深さとこの時間を共有できて幸せというあふれる思いだった。

金メダルを首にかけたふたりの姿を思い描いていた東京オリンピック。そこに至る最後の36日間でふたりは最大の試練と闘った。
結果はベスト8。でも、ふたりがつかんだものは何事にも代えがたいものだったに違いない。
どん底を知った人間は強いと言われる。そう信じて3年後のオリンピックに向かう2人の姿を見てみたいと思うのは私だけではないはずだ。
(スポーツニュース部 記者 酒井紀之)