オリンピック柔道 大野将平“伝統と重圧”背負い達成した連覇

エースの大野将平選手が男子73キロ級でオリンピック2連覇を果たした。お家芸の柔道で日本男子の連覇は、長い歴史の中でもわずかに4人目。
脈々と受け継がれる伝統を背負い、のしかかる重圧をはねのけて、柔道発祥の地・日本、さらに武道の聖地・日本武道館でめぐってきた大舞台で成し遂げた。
そこに至るまでの道のりには、大野選手が歩んできた柔道人生と前回の東京オリンピックをめぐるつながりがあったことはあまり知られていない。
(スポーツニュース部 記者 鎌田崇央)

目次

    柔道家として“何のために戦うのか”

    どの大会でも強さを発揮する大野将平選手。連覇を目指す中で、その姿からは全く感じられない葛藤や重圧と向き合い続けてきた。

    リオデジャネイロオリンピック(2016)

    前回、2016年のリオデジャネイロオリンピック。圧倒的な強さを見せて金メダルを獲得した大野選手。世界中に見せつけたのは、しっかり両手で組んでから投げる100年以上にわたって受け継がれる日本柔道の伝統の技術だった。さらに優勝してもすぐに笑顔を見せず、畳の上で深々と礼をして相手を敬う。こうした礼儀作法が世界から称賛を受け、道徳の教科書でも紹介された。

    このリオデジャネイロ大会のあと、大野選手はおよ1年間休養し大学院での研究を優先した。自分の大外刈りを分析した論文も書いた。
    この先、柔道家としてどう戦っていくか。東京オリンピックは何のために戦うのか、答えを探す時間でもあったのだ。

    この頃、大野選手は日本の男子代表の井上康生監督からアドバイスをもらっていた。

    井上康生監督

    「お前はもう金メダルを1つ持っている。次も挑戦するのであれば、正々堂々と戦えばいい」

    井上監督は言わずと知れた柔道界の顔。現役時代はシドニー大会で金メダルを獲得し、次のアテネ大会で連覇をねらったが、まさかのメダルなしに終わった。

    自分が超えられなかった連覇の壁や柔道界を背負う重圧。

    指導者となった井上監督が現役時代の経験をもとに、少しでも重圧を軽くしようと話してくれたと大野選手は理解した。

    “敵は自分自身” 自分との戦い続く

    東京大会に向けて、本格的に競技に復帰したのは3年前。この頃、私は初めて大野選手を取材。その年の夏に行われるアジア大会の直前だった。

    「今後、何を求めて戦っていくのか?」と率直に質問をぶつけた。

    大野選手

    「もちろん強い選手たちはたくさんいるが、リオの時の1つ完成した大野将平というのがいちばん最大、最強の大きな敵なので。そこにいかに並び、上回って行くか、勝っていくか。柔道人生で最強の大野将平を求めている。人が行けない、見られない境地に行く」

    この頃、倒さなければいけない大きなライバルがいるわけでもなく、いかにして最強だった自分自身を超えていくのか。これがテーマとなっていた。

    “最強だった自分を超える戦い”は、日々の稽古からもひしひしと伝わってきた。
    多くの選手は通常、いかに自分が相手を倒すかを考えて稽古をする。だが大野選手は、全く逆の発想をしていた。あえて先に相手に襟や袖を持たせる時や、ふだんの自分の組み手とは反対の左組みで、1日中、稽古を続けることもあった。

    こうした姿を見て、今度は、稽古中は何を考えているのかを尋ねた。

    大野選手

    「自分で自分を倒そうとしている感覚ですかね。日々、自分の中のいわゆる弱点、自分が嫌がるようなことを自分自身で探しているというような状態。相手がどれだけ自分を殺してくるか、嫌なことをしてくるかに対して、我慢し続けて勝っていく。これがいちばん重要だと思っている」

    みずからをふかんして見て客観的に評価する。まさに自分自身と、我慢強く戦い続けていたのだ。

    勝って当たり前…王者ゆえの重圧

    己が敵の大野選手は、2014年から外国人選手との対戦では不戦敗を除いて負けたことが無い。2019年の世界選手権では6試合すべてを一本勝ち、内容もともなった圧倒的な柔道で世界王者となった。

    世界選手権(2019年)

    もはやライバルはおらず、東京大会での2連覇は間違いないと感じさせた。それでも大野選手は、王者として勝ち続けることにプレッシャーを感じている胸の内を少しだけ見せた。

    大野選手

    「連覇の厳しさは自分がいちばんわかっている。自分は世界中から首をねらわれている」

    日本柔道の伝統を背負って戦う道

    大野選手は、みずからが歩んできた柔道人生と前回の東京オリンピックをめぐるつながり、さらに、エースとして日本柔道の伝統をすべて両肩に背負って戦う道を選んだ。

    アントン・ヘーシンクさん(1964年東京オリンピック)

    1964年、前回の東京オリンピック。この大会で初めて柔道が実施された。会場は日本武道館だ。最終日の無差別、日本の神永昭夫さんが決勝でオランダのアントン・ヘーシンクさんに敗れた試合は日本に衝撃を与えた。

    ヘーシンクさんは喜びのあまり下足で畳にあがろうとしたオランダの関係者をみずから手で制し、柔道の精神、礼節を重んじる外国人柔道家としてもたたえられた。

    ヘーシンクさんへの敗退をきっかけに日本柔道の再建を目指し、開設したとされているのが柔道の私塾「講道学舎」。今は閉塾されたが、古賀稔彦さんや吉田秀彦さんなど、数々のオリンピックメダリストを輩出した。大野選手も出身の山口県を離れ、中学からこの「講道学舎」で柔道を学んだ。

    その後、進学した天理大学もヘーシンクさんとのつながりがあった。へーシンクさんは当時、東京オリンピックの前に何度も合宿をして、天理大の初代師範・日本代表の監督でもあった松本安市さんに柔道を学んでいたのだ。ヘーシンクさんの勝利をきっかけに設立された「講道学舎」と、ヘーシンクさんを育てた天理大。大野選手は、偶然にもこの2つの出身だった。

    2019年冬。

    大野選手

    「私にとって本当に運命しか感じない。私が育ったのは天理・講道学舎。そして2回目の東京オリンピックで戦う。これは何か感じるものしかない。育ってきた環境に感謝し、誇りを持って戦いたい。日本武道館で大野将平という柔道家が柔道をすることに意味がある、そして勝つことに意味がある」

    こう語りながら気持ちが高ぶり涙を流していた。

    王者としてのプレッシャー、柔道家としてさらに多くのものを背負おうとする大野選手に“なぜそこまで自分を追い込むのか”、三たび率直に聞いた。

    大野選手

    「僕だって人間ですから負けることはあります、稽古場ではいつも自分に負けている。でも、周りにはそれはわかってもらわなくていい」

    連覇目指す舞台 感じた“恐怖”

    新型コロナの感染拡大で1年延期された東京オリンピック。大野選手は多くのものを背負って日本武道館の畳に立った。

    準々決勝までは圧勝。顔色一つ変えず、1つの隙もない戦いだった。

    しかし、準決勝と決勝では重い試合展開となる。特にジョージアの選手と対戦した決勝。組み手争いに手を焼いた。相手は大野選手に両手で持たす時間を徹底して作らせない。

    「自分で自分を倒す」ために、自分が嫌な組み手を徹底して稽古してきた大野選手であっても、この日は慎重になった。

    大野選手

    「準決勝と決勝は自分の中でも今まで感じたことない、恐怖の中で戦っていた」

    延長にもつれた決勝。先に指導2つを受けて追い込まれたが、それでも最後は技ありを奪って勝ちきった。

    ついに成し遂げた2連覇。今回もリオデジャネイロ大会と同じように、勝ち名乗りを受けたあと深々と頭を下げた。

    冷静沈着な大野選手が、テレビ中継のインタビューを終えた時だけ、感情を隠すことができなかった。

    バックヤードに井上康生監督の姿を見つけたのだ。

    すぐに、ともに目に涙を浮かべ固く抱き合った。柔道の伝統を背負う“覚悟とプレッシャー”。経験した2人にしかわからない境地があった。

    井上監督は最大級の賛辞を送った。

    井上監督

    「リオ以降はつらい日々の連続だったと思う。世界最強の選手であることを証明してくれた。監督としての立場を超えて感動した」

    大野選手

    「連覇は柔道人生で初めての試みだったし、大野将平は連覇できないんじゃないかと自分自身を疑い続ける日々だった。理想とは、ほど遠い柔道内容だったが、最終的には心・技・体の『心』の部分、我慢のところだなと改めて気付かされた」

    目標にしてきた“圧倒的な差をつけて勝つ”。大野選手が追い求める柔道ではなかったかもしれない。しかし、伝統の重みや自身の運命、そしてプレッシャー、あるゆるものを背負って2連覇を成し遂げた姿は、最強の柔道家としてのきょうじを確かに示したと言えるはずだ。

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