「レジリエンス」が教えてくれたこと
「レジリエンスの考えが私に教えてくれたことは、人生においては失敗や未知なるものをおそれていたら何もできないということです」
そう話すのは、リオデジャネイロ・パラリンピックの女子走り幅跳びで、6mを超える跳躍で世界記録を2回も更新し、金メダルを獲得したマリー アメリ・ル フュール選手、32歳。左足のひざから下が義足のパラアスリートです。
2008年の北京大会から3大会連続で出場し、走り幅跳び以外にも100m、200m、400mのすべてでメダルを獲得しています。
東京大会に向けて練習に打ち込む5月下旬、話を聞くことができました。
まず尋ねたのは、ル フュール選手が考える「レジリエンス」についてです。
金メダルを2つ手にするなどリオ大会で輝かしい成績を出しましたが、実はこの時、大会2か月前にけがをして、6週間の休養をせざるをえなくなっていました。
それでも力を発揮できたのは、レジリエンスという力が備わっていたからではないかと思ったのです。
ル フュール選手
「私の人生におけるレジリエンスとは、あらゆる試練や困難の裏には、必ず何かしらのポジティブなもの、自分を、人生を、考え方を変えるチャンスが隠れていることを理解する力です。苦難に遭うと、最初は打ち砕かれる。困難だけを見て、その先にあるものを見ることができないと、結局、よくて足踏み、悪ければ後戻りしてしまいます。レジリエンスとは、自分の人生に対する見方を変える方法なのです」
障害をきっかけに意識した“力”
小さな時から活発で、6歳の時に陸上を始めたル フュール選手。大人になったら人を助ける仕事がしたいと消防士になることが夢でした。
しかし、15歳の時にスクーターを運転中、対向車と正面衝突。10数メートル飛ばされ、左足を激しく損傷し切断。思い描いていた夢も諦めざるを得なくなりました。
折れかけたル フュール選手を支えたもの。
それは、障害をあわれまず、あらゆる可能性を否定しなかった家族の「揺るぎない姿勢」でした。
ル フュール選手
「若くして非常につらい経験をしたので、そこで闘わなければ、自分の人生も周りの人たちの人生もダメにしてしまう状況でした。足を失ったことを受け入れて、頑張って前に進むか、それに屈して、人生をむだにし、周りの人たちもネガティブな状況に巻き込むか、選択を迫られました。自分の人生をむだにするのは嫌だ、やるべきすばらしいことがたくさんあると思って、前に進もうと決めたのです」
そして、再び歩みだした中で「できない事を考える事はやめよう」、そう思うようになったといいます。
ル フュール選手
「消防士になることはできなくなりました。ただそれ以外の“不可能”については、周りに決めさせませんでした。“不可能”があるとするなら、それは自分自身で、自分の能力や限界を試したうえでなければ決められないと思ったのです。先入観で、生活の中のこういう動作や動きは無理だ、と決めつけたりはしませんでした」
ル フュール選手と通ずる経験
私自身にも同じような「経験」があります。
私は音を認識する「内耳」に障害がある「進行性の感音性難聴」です。
いまは人工内耳という補聴器具をつけていますが、外すと全く聞こえません。
小さい時はまだかすかに音が聞こえ、「聞き取り」と「発話」を訓練してきましたが、小学校に入る頃には自動車のクラクションの音も聞こえない最重度難聴になりました。
それでも両親は「障害があるからやめておきなさい」とは言わず、水泳やピアノなどやりたいことは何でも挑戦させてくれました。
聴覚障害者にとっては、いちばん敬遠しがちなものを小さい時に経験させてくれ、そのことが「私もできるんだ」という成功体験につながっています。
その体験がいまにつながる「前を向いて生きる力」になっていると感じます。
レジリエンス 誰もが問われる“力”
障害を負ったことをきっかけに「レジリエンス(=跳ね返す力)」を意識するようになったというル フュール選手。
その力は競技に限らず、困難に直面しながら生きる誰もが「問われる力」だと、いま、感じていると言います。
3年前、彼女は初めての子どもを妊娠8か月で死産するという悲劇に見舞われました。いまでも受け入れがたい現実。
それでも人生を前に進めようと思えたのは、自身の「レジリエンス」があったからでした。
ル フュール選手
「理想の世界に生きているわけではないので、当然落ち込むことはあります。でもネガティブなエネルギーに飲み込まれないことが大事です。人生に本当の失敗はなく、学びがあるだけです。制約や失敗、苦労から学ぶことができるのです。15歳で障害を負って、そこで身につけたレジリエンスがあるから、日常の中でも自然と適応できるのです」
“障害者の「立場」を変えたい”
その後、待望の子どもに恵まれ、子育てと競技生活を両立するル フュール選手。彼女には、もう1つの顔があります。
フランス・パラリンピック委員会の会長です。
働く環境が整っていない、スポーツをする環境がないなど、フランスでもいまだに多くの場面で、差別的な扱いを受けるという障害者。その立場を「変える」という夢を実現するために、会長という重責を引き受けました。
そんな彼女は、パラリンピックが、パラスポーツが持つ力について信じていました。
ル フュール選手
「障害があること、障害者として生きていくことはどういうことなのか、人々に理解されていませんし、障害をめぐっては、いまだに多くのタブーが存在します。パラスポーツがもっとずっと身近なものになり、障害のある人の間で、もっとスポーツができるのだという意識が高まるようにしたいと思っています。スポーツを通して障害のある人が自分の能力に自信を持ち、障害は必ずしもマイナスではない、人生の在り方の1つなのだと示せるようになります。スポーツを通じて、障害者の誰もが能力を持っていることを社会に示すことで、障害に対する社会の目を変えることができるのです」
“私の声”で伝えたい 多様な社会のために
私にもリポーターとしての夢があります。
私は、健常者と障害がある人との間に「境界線」があると、いまだに多くの場面で感じています。
聴覚障害があることから発音がどうしても明瞭ではなく、時には「聞き取りにくい」「障害者には無理だ」などつらい声が寄せられることもあります。
しかし、「ナレーションは、健聴者のようにきれいに読めないといけないのだろうか」、「幼い頃から努力してきた私、そして“私の声”だからこそ伝えられるものがあるんじゃないか」、そう信じて、この声が多様な社会へのきっかけになればと夢見ています。
パラリンピックの意義とは
持てる力の限界に挑戦するパラアスリートが世界中から集まるパラリンピック。4年に一度、障害のある人にスポットライトがあたる、この大会の意義について、ル フュール選手はどう考えているのか、聞いてみました。
ル フュール選手
「パラリンピックは単にハイレベルなパフォーマンスが繰り広げられる競技大会ということを超え、“障害”について、これまでとは異なるメッセージを伝えることができる場なのです。『不可能はない、ただ同じことを違うやり方でやるだけ』というメッセージです。世界における、障害の捉え方を進化させていく場でもあります。障害のある人が持つ高い才能や能力に対する、新しい見方が生まれることになり、結果的に社会によりよい変化を促し続けることになるのです」
“失敗や未知なるものをおそれない”
新型コロナウイルスの影響で、その開催を危ぶむ声もあがる東京パラリンピック。ル フュール選手は、2020年の東京大会で現役を退くことを決めていましたが、大会に合わせて引退も延期しました。
その後、フランスでは厳しいロックダウンが長期にわたり、アスリートとしても、ひとりの母親としても、ル フュール選手はいま、逆境の中にあるといいます。
先の見えない時代にどう立ち向かっていけばいいのか。返ってきたのは彼女らしい前向きなことばでした。
ル フュール選手
「過去に生きようとはしないことです。なぜなら過去は変えようがないからです。未来こそが、人が作り上げていけるものです。今ある困難は、これまで自分たちが送ってきた生活スタイルや生き方を考え直させるものと捉えるのです。レジリエンスの考えが私に教えてくれたことは、人生においては失敗や未知なるものをおそれていたら何もできないということです。未知なるものこそが、私たちに進歩をもたらしてくれます。人生最悪の試練の中でも、人はポジティブなものを見つけられるのだから」
“境界線”のない未来にへ
常に前を向く彼女ですが、最後にいちばん大切なものを伺うと、迷いなく、こう答えました。
ル フュール選手
「日々私のそばにいる、夫、娘、両親、姉などです。なぜなら、ひとりぼっちでは人生何ひとつできないからです。もし1人だったら、私は再び立ち上がることも、自分を立て直すことも、そして現在の私という女性にはなれなかったはずです。ですから、私の周囲の人たちは私の土台であり、私の日々のエネルギーなのです」
このことばに、ル フュール選手がこれまで体験してきたことのつらさや苦しさが、にじんでいるように思えました。
だからこそ、次を担う人たちにはそんな思いをしてほしくない、という彼女の強い決意にも感じました。
フランスは、東京大会に向けて五輪・パラリンピックの選手団を合同にし、また2024年のパリ大会では大会のエンブレムを統一させるなど、国をあげて障害者と健常者の垣根をなくす努力をしています。
翻って日本では、どちらも合同ではありません。果たして私たちはどんなレガシーを残せるのか…。
障害のある人と健常者との境界線が少しでもなくなってほしい、そう感じました。