「東京パラリンピック」と「命」。そのはざまで…

「出場のために命がけの行動を強いるパラリンピックが、選手ファーストと言えるのか。開催がうやむやのまま、選手が危険にさらされるのは、ばかげている」
東京パラリンピックの日本代表に内定しているある選手のことばです。
それは「パラリンピック」と「命」のはざまで苦悩した末の、心の叫びでした。

目次

    内定しても出場できない?

    声をあげたのは、パラ陸上の伊藤智也選手、57歳です。伊藤選手は会社経営者だった34歳のとき、病に倒れ、車いす生活に。45歳で出場した北京パラリンピックの陸上400mと800mで2つの金メダルを獲得し、“車いすの鉄人”の異名をとります。

    一度は引退しましたが、東京パラリンピックに向けて現役に復帰し、2019年の世界選手権で代表内定を勝ち取りました。その伊藤選手が切実な声をあげたのには、理由があります。内定していてもパラリンピックに出場できないおそれが出てきたのです。

    パラ独自の「クラス分け」

    その理由は、オリンピックにはないパラリンピック独自のルール、障害の「クラス分け」にあります。パラリンピックでは、さまざまな障害がある選手が公平に競い合うために、障害の程度に応じて細かくクラスが分かれています。例えば、東京パラリンピックの陸上は、44のクラスに分かれ、100mも走り幅跳びも、クラスごとに金メダルを争います。

    このため大会の前には、運動機能がどのくらい残されているか、専門の資格を持つ医師などの判定を受けなければならないのです。
    そして、障害の種類によっては進行したり回復したりする可能性があるため、クラス分けの判定には有効期限があります。伊藤選手の場合、このクラス分けの期限は2020年12月31日でした。東京パラリンピックが1年延期されたことで、期限が切れてしまったのです。

    伊藤智也選手

    「応援してくれる人に『すみません、パラリンピックに出られなくなりました』と伝えるのは、想像すらできないが、つらいとか悲しいとかいう次元ではない」

    では、クラス分けを受け直したらいいじゃないか。と思いますが、そこに新型コロナウイルスという大きな壁が立ちふさがりました。伊藤選手の病気は、免疫に異常が生じる「多発性硬化症」という難病です。もし、新型コロナウイルスに感染すれば病気の再発や投薬などで、免疫が低下して重症化するおそれがあり、命に危険が及びます。

    しかし現状では、クラス分けが受けられるのは海外のみ。各国の選手が公平に機会を得られるよう、国際大会でしか受けられないルールなのです。
    新型コロナウイルスの世界的な流行が続く中、感染の危険を犯して、海外遠征をしなければならない。そんな中で、発せられたのが冒頭のことばでした。

    伊藤智也選手

    「コロナ禍という非常事態にルールを押し通し、出場のために命がけの行動を強いるパラリンピックが選手ファーストの大会と言えるのか。あまりに無責任ではないか」

    あってはならない“選択”

    東京パラリンピック出場か、みずからの命を守るのか。
    アスリートにとって、究極とも言えるこの選択の答えは、伊藤選手にとって一つしかありません。
    2月に中東のドバイで開かれる国際大会への遠征を断念せざるを得ませんでした。
    伊藤選手のようにクラス分けの期限が切れたり、クラス分けが受けられなかったりしてパラリンピックと命とのはざまで苦悩する選手は世界中にいるとみられます。
    日本パラ陸上競技連盟理事で国際クラス分け委員を務める指宿立さんは、IPC=国際パラリンピック委員会がクラス分けの有効期限の延長など救済措置をとる必要があると指摘しています。

    指宿立さん

    「クラス分けはパラリンピックの根幹をなすものだが、選手の健康あってこそのパラリンピックだ。パラリンピック出場と命のどちらを優先するか、選手に選択を強いることがあってはならない」

    NHKはIPCに救済措置をとる考えがないのか問いました。すると次のような答えが返ってきました。

    IPCの回答

    「クラス分けはパラリンピックの要であり、競技の健全性を守るためには、大会前に行う必要がある。その機会を提供するために、各競技の国際団体とともにあらゆるシナリオを検討している」

    アスリートは特別なのか?

    命あってこその東京オリンピック・パラリンピック。その信念は、どのアスリートも同じです。だからこそ、伊藤選手は感染のリスクを避けるため、去年1年間、ほとんど自宅にこもりきりの生活をおくってきました。
    ではなぜ、みんながステイホームを求められている世の中で、いま、アスリートだけが、オリンピックやパラリンピックのために活動を許されるのか。伊藤選手は言います。

    伊藤智也選手

    「アスリートはそんなに特別なのか。今、この瞬間にも、何十年と続けてきた店をたたむ決断をする人がいる。会社を解散せざるをえないと悩んでいる経営者がいる。何より、コロナに犯されていくばくの命もという人がいる。そんな時に、『パラリンピック頑張ります』と言うのが正しいのか。アスリートである前に社会人だ」

    伊藤選手はいま、ことしの夏、東京オリンピック・パラリンピックを行うことが本当に正しいのか、疑問を感じています。

    伊藤智也選手

    「大会は2024年まで、一気に4年ずらすべきだと思う。年齢を考えれば、私はもうきっと出られない。 それでも、平時に開催してこそ、オリンピックやパラリンピックを見て、一緒に頑張ろうという気持ちになれる。選手が正当に評価されるその時が、僕らが待ち望んでいる戦うステージのタイミングだと思う。コロナが落ち着くまではウイルスとの闘いに力を注ぐ時間があってもいいのではないか」

    そして、ひときわ強く、こう訴えました。

    伊藤智也選手

    「大会開催の可否を早く決めてほしい。やるのか、やらないのか。そこがうやむやのまま、選手が危険にさらされているのは、こんな言い方をしたら乱暴すぎるかもしれないが、私はばかげていると思う」

    “声”は届いているのか

    コロナ禍を生き抜いて東京パラリンピックに出場し、今こそ求められている「生き抜く力」を世界中の人たちに向けて表現する。去年から私たちの取材にずっとそう答えてきた伊藤選手は、パラリンピックが世界に及ぼす力を誰よりも信じている選手のひとりであることは間違いありません。

    そして、大会が予定されている限り全力を尽くすのがアスリートの務めと、今も自宅にこもってトレーニングを続けています。
    そんな中であえてなぜ、厳しい声をあげるのか。伊藤選手に問うとこう答えてくれました。

    伊藤智也選手

    「自分のことばで自分の現状、自分の覚悟をお伝えするのは、日本代表という看板を背負っている以上大事な仕事ではないかと考えています」

    大会開催をめぐって、世論が二分する中でアスリートは開催を願うとも、開催が難しいとも、声をあげづらい状況にあります。しかし、大会の価値も、同時に目を背けてはならない課題も、最も切実に感じているのがアスリート自身です。
    その声に耳を傾け、アスリートが声をあげやすくすること。そして、その声に真摯(しんし)に応えていくこと。それが今、必要だと感じます。

    (スポーツニュース部 記者 中野陽介)

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