パラリンピックを広めた日本人

2020年8月25日。本当なら東京パラリンピックが開幕する日でした。

今では誰もが知っている「パラリンピック」という名称。このことばが広く知られるようになったきっかけをご存じですか?

実はそれは1人の日本人がデザインしたポスターでした。
(ネットワーク報道部 記者 成田大輔)

目次

    “PARALYMPIC”を世界へ

    ポスターを制作したデザイナーの高橋春人さんです。

    パラリンピック実施本部での高橋春人さん 1964年

    高橋さんは戦後、公共広報デザインの第一人者として活躍、1964年の東京パラリンピックでは、公式ポスターをはじめ、大会マークやメダルのデザインなどを担当しました。

    海外向けの招致ポスター 1962年

    その2年前、海外向けに高橋さんが制作した大会の招致ポスターです。日本のサクラを思わせる鮮やかなピンクの背景に「PARALYMPIC」の文字がいちばん目立つようにデザインされています。

    パラリンピックは第二次世界大戦で脊髄を損傷した兵士たちのリハビリがその始まりとされています。当時は、発祥地のイギリスの病院の名前から「国際ストーク・マンデビル大会」と呼ばれていました。

    しかし、高橋さんは東京大会のポスターで下半身のまひを意味する英語の「パラプレジア」と「オリンピック」を組み合わせた「パラリンピック」という名称を前面に打ち出すことにしたのです。

    高橋さんの長男で、父と同じデザインの道に進んだ透さんです。生前、父からそのねらいを聞いたことはありませんでしたが、同じデザイナーとしてこう分析しています。

    高橋透さん
    「当時はメディアが限られていて、大会を広く知ってもらうのはポスターが主役でした。しかし、ポスターは目の前を通り過ぎる人に一瞬でメッセージを伝えて理解できるものでなければいけません。当時、ほとんど知られていなかった大会を広く伝えるため、オリンピックと似て語呂がよい「パラリンピック」ということばを使用したのではないかと思います」

    戦争とパラリンピック

    傷痍軍人の回復を目指し始まったとされるパラリンピック。実は、高橋さん自身も戦争と深い関わりがありました。

    「たのむぞ石炭」
    「貯蓄スルダケ強クナル オ国モ家モ」

    太平洋戦争中、国民に石炭の確保や貯蓄など戦争への協力、結束を呼びかけるポスターを数多く手がけていたのです。

    世の中が戦争一色となり国家総動員体制となるなか、画家やカメラマンとして活動していた高橋さんは、軍への協力を呼びかけるポスター制作などを命じられるようになっていきました。

    高橋春人さんと自作のポスター

    プロパガンダの一翼を担ったともいえる作品を手がけていた高橋さん。亡くなるまでみずからの戦争体験について多くを語らなかったといいます。

    高橋透さん
    「父は酒も飲まない人で、家族にもあまり自分のことを話すタイプではありませんでした。特に戦争体験についてはあまりにつらい体験だったので話したくなかったのかも知れません」

    見つかった“焼け跡のスケッチ”

    高橋さんは1998年に84歳で亡くなりました。死後、透さんが遺品を整理していたとき1冊のスケッチブックを見つけました。

    表紙には「ほろびの街」と書かれていました。

    空襲で焼け野原となった東京の街の様子。焼け出された人々や戦災孤児の姿など、戦中戦後の東京の姿が、107枚にわたって描かれていたのです。

    神田上空の敵機 1945年3月10日

    昭和20年3月10日未明の東京大空襲。B29による焼夷弾で高橋さんの自宅も焼けました。

    言問橋畔の戦災死者仮墓地 1946年3月10日

    空襲のちょうど1年後の隅田川です。川沿いに立つ墓標の多くには身元がわからないため「無名氏」と書かれています。

    スケッチはこの年の夏まで続けられていました。

    傷ついた人たちへのまなざし

    スケッチで目立つのが、焼け出された家族や復員してきた兵士、戦災孤児など戦争に巻き込まれて困窮する人たちの姿でした。

    駅頭に眠る 1945年

    生前この存在を家族にも明かしていなかった高橋さんですが、スケッチブックの中に当時の本人の文章が残されていました。

    「ほろびの街」より
    『焼野原でスケッチなどをしていることは、事情として許されるものではなかった。しかし私は、そうした住むに家なく、喰うに食なき不安の時代にあっても、なお、この惨憺たる敗都の風景を描かずにはいられなかった。それらは、すべてが、ほろびゆくものの異状な姿であったが、それらのほろびゆくものの姿こそ、私たちの過去の残骸であり、私たちの傷心を具象化するものにほかならなかったからである』

    焼け跡でスケッチする高橋春人さん

    スケッチを見つけたとき透さんは父の強い意志を感じたといいます。

    高橋透さん
    「父は空襲で家も失い、弟も戦死しています。戦争で何が起きたかを描き残し、後世に伝えなければいけないという強い使命感を感じていたように思います」

    平和な時代に

    戦後、デザインの世界で再び頭角を現し始めた高橋さん。1950年、高橋さんが制作した赤い羽根共同募金のポスターです。

    たちあがる力を!! 1950年

    高橋さんはおよそ1か月間、募金を受け取った施設を見学するなどして制作にあたったということです。

    ありがとう!!あかいはね! 1952年

    戦災孤児への募金を呼びかけるために描かれたこのポスター。古いげたから新しいズックに履き替え喜ぶ少年のモデルは透さんでした。

    ほかにも高橋さんは戦災孤児の引き取り手を捜すポスターや、東北地方の水害への義援金を募るポスターなど、社会福祉の公共広告を次々と手がけていきます。

    戦時中の勇ましいポスターと違い、戦後の作品には社会的立場が弱い人への優しい目線が常にありました。

    パラリンピックを広めるために

    東京大会の2年前、大会の広報への協力を求められた高橋さん。オリンピックと違い知名度が低かった身体障害者のスポーツ大会を広く知ってもらおうと力を尽くしました。

    公式ポスター 1964年

    東京パラリンピックを象徴するこの公式ポスター。実際のアーチェリーの選手と「PARALYMPIC」の文字。高橋さんがデザインしました。

    大会に出場した日本選手の多くは傷痍軍人のために作られた病院の患者たちだったということです。

    高橋さんは、大会後に発行された写真集の編集までおよそ4年にわたって東京パラリンピックに関わりました。

    当時の公式資料によると大会の参加者は、原則としてすべて「奉仕者」として働いたそうです。

    「伝え合い、知らせ合う」使命

    パラリンピックはギリシャ語の「パラ」と「オリンピック」を組み合わせた『もう1つのオリンピック』を意味することばとして定着し、オリンピックに並ぶ大規模な大会に発展しました。

    「広報活動とは『伝え合い、知らせ合う』ことで、人々を行動に結びつけるところまで、力を発揮しなくてはならない」

    高橋さんは東京パラリンピックの後も社会福祉の分野に力を尽くし続けました。

    高橋春人さん

    高橋透さん
    「戦前・戦中とプロパガンダに関わってきたデザイナー仲間の多くが、戦後は商業デザインの世界に進みましたが、父はずっと社会福祉関係の仕事を続けていました。その理由を直接は聞けませんでしたが、終戦直後の焼け跡の人々の姿を目の当たりにしながらスケッチを残し続けた体験が大きな影響を与えたのだと思います。社会的に弱い立場にある人のことを世の中に広く知らせることが伝えるプロとしての自分の使命だと思ったのではないでしょうか。」

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