“人類の底力”の象徴たれ 東京五輪 日系アメリカ人のエール

新型コロナウイルスの影響で、1年延期された東京オリンピック。

現在、東京に駐在する日系アメリカ人3世、ロイ・トミザワさんはことし5月、1964年の東京オリンピックに関する著書を出版した。当時、亡き父親がアメリカのテレビクルーとして関わったことから、深い縁を感じるという。

コロナ禍だからこそ、東京が五輪を開催する意義は「さらに大きくなった」というロイさんの思いを聞いた。
(国際放送局ワールドニュース部 榎原美樹)

目次

    東京オリンピックを取材した父を持つ日系3世

    ロイさんにとって、<1964年10月10日>は特別な日だ。

    生まれ故郷のニューヨークの自宅で、満1歳の誕生日を迎えた日。海の向こうでは、東京オリンピックが開会した日でもある。

    東京オリンピックの開会式

    父親のトーマスさんは、東京に長期出張中。アメリカNBCテレビのプロデューサーとして、東京オリンピックの開会式を全米に中継する使命を負っていた。

    NBCテレビの中継チーム 左端がトーマスさん(1964年10月・東京)

    アメリカに届けられた中継映像には、その19年前までアメリカの敵国として戦った日本の首都が焼け野原からよみがえり、華やかなファンファーレが鳴り響き、平和の象徴である鳩が舞う中、オリンピックの開会が高らかに宣言される様子が映っていた。

    トーマスさんはその後、ベトナム戦争などアメリカ現代史に残るさまざまな出来事を取材し、数多くのドキュメンタリーを制作して、プロデューサーとしての名をはせたが、1998年、69歳で亡くなった。

    遺品からは、生涯大切にしていた東京オリンピックのプレスパスやバッジが見つかり、ロイさんが受け継いだ。

    「私は父の影響を強く受けて育ちました。大学卒業後、新聞記者になったのも、父のようになりたいと思ったからです」

    その後、ビジネスへ転向したロイさんが、大手外資系生命保険会社の幹部として東京に赴任したのは6年前。すでに東京が2020年に再びオリンピックの開催地になることが決まっていた。

    ロイさんはまず、父親が見た前回の五輪がどんなものだったのか知りたいと、英語で書かれた本を探して回ったが、満足できるものが見つからない。

    それなら、自分で調べよう。

    かつての記者魂が、むくむくとよみがえってきた。

    1964年のオリンピアンたち

    東京五輪レスリング金メダリストの小幡(旧姓・上武)洋次郎さんを取材

    以来、ロイさんは会社から帰宅後の時間や、休日をフルに活用し、1964年に出場した日本と世界の元選手に次々と連絡を取り始め、70人以上のオリンピアンを取材していった。

    どのアスリートの人生にも、想像をはるかに超える、知られざるドラマがあった。

    セオドア・ミッテットさん(左端)

    例えば、ボート競技のアメリカ代表選手、セオドア・ミッテットさん。高度経済成長まっただ中の日本を初めて訪れた。アメリカの両親に手紙で様子を知らせた。

    「日本は何もかもが期待以上だ。それに、日本人はとても親切だ」

    彼は、“舵なしフォア”と呼ばれる種目で、銅メダルを獲得。五輪閉幕後、もっと日本を見てみたいと、帰国予定を変更して旅に出た。東京から、横浜、京都、広島、松山、別府、長崎、新居浜。どんどん足を伸ばし、旅は3か月にも及んだ。

    当時はまだ、日本人にとって、海外旅行が自由化されたばかり。外国人も非常に珍しかった時代だ。行く先々で多くの日本人が英語で話しかけてきてくれた、住所を交換し、アメリカに帰国後、手紙のやり取りをした。

    ミッテットさんの自宅には、今も手紙の束を大切に保管していると、ロイさんに見せてくれた。

    その文面には、オリンピックをきっかけに、世界への憧れを抱くようになった日本の若者たちの、夢やエネルギーがきらきらと輝いていた。

    アンドラーシュ・トロさん

    東西陣営が真っ向から対立していた冷戦時代。当時ソ連の勢力下にあったハンガリーからは、カヌーの代表選手、アンドラーシュ・トロさんが来日していた。

    カヤックとカヌーの会場は、神奈川県の相模湖だった。

    「相模湖の湖畔には朝霧が立ちこめ、本当に美しい幻想的な風景でした」とトロさんは振り返る。

    実は、彼には、誰にも話せない秘密、人生最大の選択肢に直面していた。

    それは「メダルを取って、国の英雄としてハンガリーに帰るか。あるいはメダルを取らずに、そのままアメリカに亡命するか」、究極の二択だった。

    結局、トロさんは、全力で試合に臨んだものの、結果は4位だった。

    ロイさんの取材を受けたトロさん(右)

    アメリカ大使館などの助けを得て、日本から直接、アメリカへ亡命する道を選ぶことになる。

    東京が、20代の若者の、人生の岐路の大舞台となったのだ。

    「東洋の魔女」と呼ばれた日本女子バレーボールチームのめざましい活躍が、「もはや戦後ではない」日本の姿を、世界に強く印象づけるなど、日本人の元選手たちのエピソードも多く盛り込まれたロイさんの著書は、去年夏、まず英語版がアメリカで出版された。

    その後、日本語にも翻訳され、「1964ー日本が最高に輝いた年」というタイトルで、日本でも出版された。

    東日本大震災の被災地との縁

    キヨシ・トミザワ(富沢清)さん、妻や娘とともに

    しかし、この本には詳しく書かれていないが、ロイさんと日本にはさらに深い縁がある。ロイさんの祖父、キヨシ・トミザワ(富沢清)は、1879年、現在の福島県南相馬市で生まれた。

    キヨシは高校生の時に、YMCAの指導者の1人として、のちにノーベル平和賞を受賞するアメリカの宣教師、ジョン・モットと日本で運命的な出会いをする。

    ジョン・モットは宗教家としての世界的活動で、1946年ノーベル平和賞を受賞

    モットは、聡明だったキヨシに「渡米して勉強しなさい」と勧め、キヨシは新天地アメリカへ移住を決断する。第2次世界大戦が起きたこともあり、アメリカに移民として根を下ろしたトミザワ家は、日本の親戚と次第に疎遠になってゆく。

    しかし1989年、26歳だったロイさんは、自分のルーツを知りたいと日本を旅行し、南相馬の親戚を捜し当てる。

    日本語もろくに話せないロイさんを、親戚の人々は温かく迎え入れ、祖父が生まれ育った海岸沿いの集落にも連れて行ってくれた。

    南相馬市の一族の墓を訪問。一緒に写っているのは親戚の子ども

    そこにあった一族の墓参りもして、ロイさんは太平洋の大海原を越えていった祖父の、若い時代に思いをはせたという。

    ところが、2011年の東日本大震災で、その集落は、ほぼすべての家屋が津波に押し流されてしまった。

    ロイさんは震災後の集落跡地を訪れた(2019年7月)

    さらに、福島第一原子力発電所の事故のために、もう少し内陸に住んでいた親戚一家も、長い年月避難生活を強いられ、ようやく南相馬に戻ってこられたのは、去年の春だったという。

    今年3月、ギリシャから日本に運ばれてきたオリンピックの聖火は、南相馬にも来るはずだった。

    ロイさんはその聖火の到着を、親戚の人々と共に迎え、祝いたいと願っていたが、新型コロナウイルスの影響で、それも中止になってしまった。

    「人類の底力」の象徴となれ

    ロイさんは言う。

    「1964年の東京オリンピックは、すべての日本の国民が誇りを感じることのできるすばらしいイベントでした。当時は冷戦の最中で、世界的に緊張が高まっていました。しかし、その中で、日本は世界中の人々に“安全と安心”を感じてもらえる場所でした。日本は、どんな宗教や信条、人種や民族も超えて、健全で平和なスポーツイベントを開催できる国だったのです。コロナ禍が過ぎれば、2021年、日本は世界の人々が再びそう感じる場所になると思います。東京オリンピックは、“人類の底力”の象徴になると、信じています」

    ロイさんは、父トーマスさんが何度も話していたエピソードを覚えている。

    それは1964年の東京で、大切な取材用のカメラを、電車の網棚にうっかり置き忘れたというものだ。しかしカメラは翌日、無事にもどってきた。父は言っていた。

    「ニューヨークじゃありえないよ。日本だから、戻ってきたんだ」と。

    その東京で、再び開催されるオリンピックを、ロイさんは心待ちにしている。

    顔写真:榎原 美樹

    国際放送局ワールドニュース部

    榎原 美樹

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