前を見るしかない
2020年3月17日。それは池江さんにとって、実に406日ぶりのプールでした。
「やばい。すごく気持ちいい」
退院しておよそ3か月。免疫力などに一定の回復が見られるという医師の判断のもと、顔を水につけないという条件で、ようやく泳ぐことが許可されたのです。
泳いでいる間、池江さんの笑顔が消えることはありませんでした。
池江璃花子さん
「今は、本当にこれからできていく自分の成長が楽しみ。それがとにかく一番なので、別に過去のこと振り返る必要もないと思うし。たまには、こういう時もあったなって思うときもあるけど、でも今はとにかく、目標があるから。そこに向かってとにかく頑張るだけっていう、前を見るしかない」
“白血病って何?”
池江さんが「白血病」と診断されたのは去年2月でした。オーストラリアで合宿中に体調不良を訴えて急きょ帰国し、すぐさま都内の病院へ入院することになったのです。入院生活は、およそ10か月に及び、退院は去年12月。
私たちは、退院して間もないことし1月から、池江さんを取材しました。そこでは闘病生活で感じたこと、考えたことなどを率直に話してくれました。
池江さんが体調がおかしいと感じたのは、2018年12月。アメリカでの高地合宿中でした。倦怠感があり、練習を休んだといいます。帰国後、年末年始を挟んでも調子は戻りませんでした。「おかしい」と思いながらも1月、オーストラリアに合宿へ。そこでも倦怠感はおさまらず、ひどい頭痛が続きました。2月になって現地の病院で診察を受けたところ「すぐに日本に帰って精密検査を受けた方がいい」と言われ、帰国。白血病と診断されました。
池江璃花子さん
「白血病って何?って感じで。小さい部屋に入って、マネージャーさんと母と、あと先生2人とか、何人かで話を聞いていて、白血病ということに関してはよく分からなかったですけど、そのあと先生に治療として抗がん剤をやりますという話になって、それも、ああそうなんだって感じだったですけど、そのあとに髪の毛が抜けますっていうことを言われたときに、それが一番ショックで、初めて泣きましたね」
「まさか病気だとは思っていなかったし、シンプルに自分の調子が悪いとしか思っていなかったので、病気が発覚してほっとしたというか、自分の不調の原因が病気だったと分かって、なんか自分が調子悪いまま、このまま行っていたら日本選手権も世界選手権もどうなっていたか分からないし、この時点で病気って分かったことによって、なんだろ、良かったって思った自分もいました。病気で良かったって、本当は良くないですけどね」
支えてもらったから…
診断名は「急性リンパ性白血病」でした。入院後、まもなく始まった抗がん剤治療。副作用で髪の毛が抜けだしました。高校の卒業式には出席できず、病室でひとり写真を撮ってもらいました。7月4日の19歳の誕生日。具合が悪く、起き上がることができませんでした。
8月に一時退院できましたが、9月には血液の元となる細胞の移植を受けました。その後は40度を超える発熱と激しい頭痛に悩まされました。
池江璃花子さん
「もうとにかくずっと気持ち悪い、多い時には5回以上もどしたりしたし、1日で。朝から晩までずっと気持ち悪くて、薬もらってもその場しのぎっていう感じでした。頭痛は思い出そうとしても思い出せないレベルで痛かったから、もうマックス10だとしたら15くらい痛かった。起きていることがしんどいっていうか、もはや生きていることもしんどいレベルで、体調は悪かったです。ひどいときは。本当にこんなに苦しいんだったら死んだ方がいいんじゃないかって思っちゃったときもありました。でもそれは違うんだって思ったし、逆にそれを思っちゃった自分にめっちゃ反省しているっていうか、なんでそんなこと思っちゃったんだろ、今こんなに楽しいことが待っていて、こんなにいい経験をたくさんできているのに、なんであのときあんなことを思ったんだろうってすごく反省しますね」
「死んだほうがいい」と考えるほど追い込まれた闘病生活。病院で同じように病気と闘う患者仲間の存在は、苦しい治療に向き合ううえで、池江さんの大きな支えになりました。
池江璃花子さん
「移植をしたあとに、初めて友達ができて、年齢が近い子だったり、年が離れている方だったり、結構な年齢層の友達と出会って、そこで初めて家族だったり周りの人とは共有できない自分のつらさっていうのを共有できて、すごく心が楽になったというか、なんか、自分一人じゃなかったっていう気持ちになって、そういう人たちにすごく支えられました。そういう人たちにしか分からない苦しみっていうのがあると思うし、逆にそうなっていない人たちから支えられることの方がもちろん多いですけど、そういう人と出会うことによって、自分がまたちょっと変われたっていうか、良い方に、プラスに考えられるようになったって感じです」
夢を絶たれても
入院生活により池江さんの体重はかつての57キロから10キロ以上落ちました。トップアスリートとして積み上げてきた体力や筋力はすっかり失われてしまいました。
「東京オリンピック」という夢を絶たれてしまったことをどう受け止めたのか。尋ねると意外な答えが返ってきました。
池江璃花子さん
「夢は絶たれたってわかった瞬間に、もう頑張る必要ないんだって思っちゃったというか、それはちょっとありました。言い方を悪くすれば、オリンピックに出られなくてよかったっていう、自分が。メダルを取るっていうプレッシャーがのしかかった状況の中で、逆に自分自身にプレッシャーをかけていたんですよ。そのプレッシャーから解放されたっていうか。背負っていたんでしょうね、こんな風に思うってことは。だって、絶対、アスリートとしてよくないことを言っていますもん、今。オリンピックに出なくてよかったなんて、普通、誰も言えないじゃないですか」
「(病気になったことは)もうどうしようもない事実だから、変えられない事実だから、別にネガティブに考える必要も無いと思うし、自分の年齢的にもまだチャンスがあるのだったら、そこをねらえばいいと考えていました」
3歳の時に水泳を始め、毎日のようにプールに通い続けてきた池江さんにとって、「泳ぐ」という行為は、まさに「日常」そのものでした。オリンピックという夢が絶たれたことよりも、むしろ「泳ぐ」という日常を奪われたことは、とてもつらいことでした。 退院後、池江さんはプールで泳ぐことを最初の目標としました。そのためには、運動などを通して体の免疫力などを高めなければなりません。2週間に1度、医師の診察を受けて回復状況を確認しました。
池江璃花子さん
「もう、何でもいいから泳がせてくださいって感じです。練習も大好きだし、試合も大好きだし、見るのも好きだけど、やっぱり自分で泳いで、その感覚がまた楽しいので、できれば早く泳ぎたいです。これは先生に伝わらないので仕方ないんですけど、もう自分の中のことなんで、私はどうしようもできないけど、早く治す。早くプールに入れるっていうイメージを持って、行動できればなと思います」
医師の許可が出なかった、ある日の診察のあと、池江さんがふともらしたことばがありました。
池江璃花子さん
「人間って当たり前のことを当たり前にやるけど、それが当たり前じゃなくなった時に、(再び)それができるようになった時にすごく幸せを感じるんだなって思って。普通に生活しているけど、もしかしたら自分も治療がうまく行かなくて、まだ入院しているかもしれないし、ひとりで歩けなかったかもしれないし、走れなかったかもしれない。奇跡でもあるんじゃないかなと思います。でも(普段は)絶対そんなこと考えないじゃないですか。そもそも普通に生活していたら、これが当たり前とも思わないじゃないですか…」
“泳ぐ”ということ
3月、池江さんは、再びプールに戻ることができました。
自分は、これから何のために泳ぐのか。自分が「泳ぐこと」の意味は、トップアスリートとして活躍していた1年前とは大きく変わっていました。
池江璃花子さん
「プールに入れるようになって、泳ぎ始めて、またテレビで自分が試合とかで泳いで、活躍をするような姿を見せられたら、今度は普通に見ていた人たちだけじゃなくて、自分と同じような経験をしている病気になった人たちに勇気を与えたい。確実に。堅苦しい意味ではないけど、使命感。自分は、これを人に伝えていくべきじゃないか」
「泳げなかった時期のことは絶対に忘れないと思う。泳げることって幸せなんだなっていうこと。今、泳ぎたくても泳げない子、また同じ病気だったり水泳ができない子もいるって絶対思うと思うから」
3月下旬、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、東京オリンピック・パラリンピックは1年の延期に。さらには政府の緊急事態宣言による外出の自粛。池江さんも再びプールから離れざるをえませんでした。それでも、彼女はこうした状況を悲観してはいませんでした。
一歩ずつ、少しずつ前に進んでいこうと考えています。
池江璃花子さん
「病気の人たち、普通に生活する人たち、スポーツをやっている人たち、全員の気持ちが分かるようになったから、今、自分が置かれている立場をどう理解して、それをどうポジティブに捉えて生きていくか。今だったら、泳いでいないけどトレーニングは少ししているから、何のためにトレーニングをしているのかとか、普通にこうやって生活して、例えばたまにご飯をつくってみるとか、なんかそういうちょっとしたことをやっていくことが自分の人生で大事っていうか、当たり前のことを当たり前にやっていくっていうのが一番。結果うんぬんよりも、どん底まで行った人間がここまで上がってきたんだっていう成長を、ちょっとずつでもいいから見せていければ、それはそれでいいんじゃないかなって思います」