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News Up 語られない惨禍 東京大空襲

3月10日 17時10分

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「あの夜、炎が燃え移った赤ちゃんを背負って、気が狂ったように走り回る母親や、火だるまになって転げ回る子どもの姿が今も目に焼き付いています」
“あの夜”とは72年前の3月10日、およそ10万人が犠牲になった東京大空襲の日です。しかし東京でおよそ100人の中学生に聞いたところ、「戦争の体験」を耳にしたことがあるのは数名だけでした。10万人を超える人が命を奪われたその惨禍に比べ、東京では語られることがあまりに少ない東京大空襲。その意味を考えようと取材を始めました。

焼夷弾32万発 10万人が犠牲に

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取材に訪れたのは民間団体が運営する東京江東区の「東京大空襲・戦災資料センター」です。
東京大空襲は、終戦が近づく昭和20年3月10日の未明。今は東京スカイツリーが立つ墨田区や江東区などの下町の空に、およそ300機の爆撃機が現れ、大量の焼夷弾が落とされたのです。その数32万発、およそ10万人の命が奪われました。アメリカ軍は、家屋を効率よく燃やすための実験を重ねてから空襲に向かっていました。人口が密集する市街地を狙った無差別爆撃でした。

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資料センターには大空襲の悲劇を伝えようと、焼夷弾や遺品などが展示されています。
色あせた小さな着物は、母親に背負われていた生後7か月の女の子が着ていたものです。突然の空襲を受けて逃げ惑う中、母親は足を滑らせ、冷たさが肌に突き刺さるような川に転落します。「子どもだけでも助けて!」と叫ぶと、しばらくして誰かに引き上げられました。しかし、眠っていると思っていた背中の女の子は、冷たい水で着物がぐっしょりとぬれて、すでに亡くなっていました。着物は、今104歳となる母親が長らく形見として手元に残していたものでした。

“悲劇” 伝えることの落差

戦時中、東京への空襲は100回を超え、この女の子のように空襲の犠牲者の40%近くが、20歳未満の子どもたちだったという調査結果もあります。生きていれば、今、隣にいたかもしれない多くの命が一夜で失われたのです。
それほどの悲劇ですが、一方で、厳しい現実があります。一概に比べられるものではありませんが、広島の原爆被害を伝える広島平和記念資料館を訪れた人は去年169万1467人に上りました。しかし、「東京大空襲・戦災資料センター」を訪れた人は去年1万4400人にとどまります。
原爆と焼夷弾、原爆ドームのようなシンボルの有る無しなど、いくつも違いはありますが、あまりにかけ離れた数字です。

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また戦災資料センターで空襲の実態を伝える語り部の一人、80歳の二瓶治代さんの体験談を聞く授業を取材した時にも厳しい数字にぶつかりました。
授業に参加したのは、同じく空襲の被害を受けた東京八王子市の中学生およそ100人。「戦争の体験を聞いたことがありますか?」という質問に手を挙げた生徒は3人か4人だったのです。すべての中学校に当てはまるケースではありませんが、終戦から時がたつなか、大空襲を受けた東京で、その恐ろしさ、受けた悲しさ、悔しさ、絶望感。そうした戦争から派生する思いを聞くことなく大人になる子どもが増えていると感じます。
先の戦争で多くの犠牲者が出た広島県や沖縄県出身のそれぞれ40代の人に話を聞いてみましたが、2人とも小学生のころから授業で、また親族や知り合いから原爆の悲惨さ、地上戦の悲劇を聞く機会があったそうです。東京では空襲が、そして戦争がもたらした惨禍があまり伝えられていない気がします。

イギリス人からの問いかけ

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戦災資料センターで取材をしていると、同じような指摘を意外な人から受けました。空襲後の被害の写真をじっと見つめていたイギリス人のフィリップ・ブラウンさんです。声をかけてみると、これまで広島や長崎、それに沖縄などにも足を運んだことがあるそうです。
戦災資料センターに来たのはこの日が初めて。広島などとの違いに驚いたといういうことです。
「街を歩いても私は東京大空襲についての案内板やモニュメントは見つけることができませんでした。広島や沖縄などには街の至るところに戦災を今に伝えるものがありました。ここはまるで違う国のようです。どうして日本は平和のために、この歴史的な出来事を広く伝えようとしないのですか?」と言うのです。答えることができませんでした。

今と過去

なぜこうした事態になっているのか。東京の空襲被害に詳しい青山学院女子短期大学の山本唯人助教に聞きました。
山本さんは「原爆の悲惨さを伝えることは、戦後の冷戦の影響もあり、国際社会で平和運動のシンボルのようになっている。また沖縄も米軍基地を抱えているため、沖縄戦は今に続く問題となっている。一方、東京大空襲は大きな被害を受けながらも、例えれば、数ある戦争被害の一つとしてしか扱われてこなかった。公的な資料館はなく社会的な認知が広がっていない」と話していました。
広島や沖縄の戦禍は今に続くものとして、東京大空襲の戦禍は過去のものとして扱われているという指摘でした。

悲劇の記憶をつないで

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果たして過去のものなのでしょうか。語り部の二瓶さんの経験を聞いてみました。
「当時、私は8歳で、両親と兄弟と暮らしていました。戦時中とはいえ、今の子どもたちと変わらない幸せな家族との日常でした。その日常が突然、空襲で断ち切られたのです。深夜、異変に気付いた父親に起こされて逃げ惑いました。住み慣れた街は辺り一面が火の海で、道路には炎がゴウゴウと渦を巻いて川のように流れていました。炎が燃え移った赤ちゃんを背中におぶったまま気が狂ったように走る母親の姿や、火だるまになって道路に転げ回る子どもたち。大勢の人たちが生きたまま焼き殺され、街は泣き叫ぶ人の悲鳴に包まれました」

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地獄絵図の中を二瓶さんは逃げ続けます。しかしまだ8歳、限界が来ました。
「私は恐怖と疲労で倒れてしまいました。すると父が私を炎から守ろうと抱きかかえるように道路に伏せたのです。父の上には逃げ惑う人たちが次から次に覆いかぶさり私たちは下敷きになりました。上にいた人たちは焼かれて亡くなり、私は多くの遺体の山の中から引きずり出されて奇跡的に一命を取りとめました。焼き尽くされた街を見渡すと墨のように真っ黒になった遺体が至るところに転がっていました。目に焼き付いているのは、小さな子どもを胸に抱いたままの姿で亡くなった数多くの親子です」。

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一歩違えば、自分も父親も墨のようになって焼け死んでいたかもしれない。運だけに左右されて命が守られた二瓶さんはさらに次のように語りました。
「あれから72年がたった”今”でも世界では戦争が続いています。多くの庶民が犠牲になっています。普通の暮らしを送っていた人たちが突然亡くなるのが戦争の本当の姿です。今後、日本が間違った道に進むことがないよう、若い人たちが真剣に考えてほしいんです」。
二瓶さんが語り続けているのは未来のためでした。去年、19人いた戦災資料センターの語り部は、今、二瓶さんも含めて13人に減りました。空襲を経験した人の記憶がどんどんと記録に変わりつつあります。私たちは、ただ記録を引き継ぐのではなく、記憶の中にある思いを胸に刻み込み、未来のためにそれを語り伝えなければならない、そう感じました。

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