今だから明かす TPP交渉の舞台裏(2)

新井俊毅記者,伊賀亮人記者,中野陽介記者
5年にわたる交渉の末、10月に大筋合意したTPP=環太平洋パートナーシップ協定。秘密交渉の水面下で何が起きていたのか。TPP交渉の取材に当たってきた経済部の新井俊毅、伊賀亮人、中野陽介、3人の記者が切り取る交渉の舞台裏。第2回目は水面下で繰り広げられた自動車協議に関する日米の攻防やコメの輸入を受け入れた秘策についてです。

自動車を巡り再び危機に

2014年春の日米首脳会談の裏で大きく進展した豚肉など農産物を巡る日米の交渉。
直後5月にシンガポールで開催されたTPPの閣僚会合での記者会見で、甘利経済再生担当大臣は「霧が晴れてきた」と述べ、フロマン通商代表も「圧倒的に前向きな協議ができた」と胸を張るなど、東京での交渉の進捗(しんちょく)を反映したものでした。

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しかし、2014年秋にアメリカ議会の中間選挙をひかえ、交渉は次第に推進力を失っていきました。決定的だったのは9月、フロマン通商代表からの再三の要請を受けて甘利大臣がワシントンを訪れて行われた閣僚級協議でした。

甘利大臣は「最後の閣僚級協議にしたい」と述べ、相当な意気込みを示していました。
ところが・・・・。協議初日こそ4時間にも及ぶ交渉が行われたものの、いよいよヤマ場を迎えるとされた2日目。交渉会場に入った甘利大臣は僅か1時間ほどで出てきました。
会場の外で取材をしていた記者団は甘利大臣に状況を確認しようと質問を投げかけましたが返答はありませんでした。これまでどんな時でも二言、三言は取材陣の問いかけに応じてきた甘利大臣にしては珍しいことで、その顔には怒りの表情が浮かんでいました。

実はこのときの交渉ではフロマン通商代表が自動車部品の多くの品目について、即時撤廃ではなく、10年や20年といった長期間をかけて撤廃する方針を崩さず、話にならないと反発した甘利大臣が交渉を打ち切って席を立ったのです。甘利大臣はこのとき、テーブルを叩いて激怒したとも言われています。

日本は交渉に入る前に「高い入場料」として、日本から輸出されるクルマ本体への関税撤廃を最も長い期間かけることに同意させられていたので、できるだけ多くの自動車部品で関税の即時撤廃を勝ち取らなければならなかったのです。
2014年中の年内合意はあっさりと見送られました。

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秘策の備蓄スキームでコメ受け入れへ

日米の農産物5項目を巡る交渉のうち、コメだけはなぜか目立った動きがないまま2015年の新年を迎えました。「アメリカはそれほどコメの輸出余力がない。コメに関心はないのではないか」とさえ、まことしやかにささやかれていました。

一方である政府関係者は「アメリカはコメを早い段階で争点に持ち出したら日本がアレルギー反応を起こして交渉が頓挫することを熟知している。逆にいうと最終盤になれば確実にコメの輸入拡大を求めてくるはずだ」と話していました。

この政府関係者の見立ては的中しました。アメリカは主食用だけで17万5000トン、加工用も含めると21万5000トンの輸入拡大を強硬に求めてきたのです。あまりに膨大な量の要求にコメを所管する農林水産省は怒りを隠せずにいましたが、官邸サイドからは「もはやゼロ回答は無理だ。どれだけコメの輸入を受け入れることができるものなのか検討せよ」との指示がおりていました。

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ただでさえコメ余り傾向が続き、価格下落の不安にさらされるなか、どうやってアメリカから追加でコメを輸入できるというのか。価格下落を引き起こさない仕組みは考えられるのか。秘策として練り上げられたのが「コメの備蓄制度を活用した価格対策」です。

政府はコメ不足に備えて100万トンのコメを備蓄しています。
この備蓄のために毎年、国産のコメを20万トン買い入れて、5年たったコメは飼料用などとして出荷する仕組みになっています。
この備蓄サイクルを4年に短縮すれば、備蓄を100万トンにするために年間25万トンのコメを買い入れることになります。5万トン分のコメを市場から余計に買い入れるため、逆に市場では5万トン分の余裕が生まれることになります。
ここにアメリカ産のコメをはめ込めば、理論的にコメの需給は均衡がとれ、価格下落は起きないことになります。ただ、コメを多く買い入れるため、追加の国費負担が発生することになります。

政府はこうした極秘の方法を懐に忍ばせ、アメリカ側と交渉に臨んでいました。当時、政府はこの方法をひた隠しにしていたので、NHKがニュースで詳しく伝えると、激しい反応が起きました。

交渉の過程で、農林水産省は財務省と協議し、備蓄サイクルを3年にして年間33万トンを買い入れることで最近の買い入れ実績25万トンとの差、8万トンの輸入受け入れが可能という結論に達しました。財務省と予算上出せるギリギリのラインをつめておいたのです。

こうした調整に基づき、コメを巡る交渉は結局、アメリカ向けに7万トン、オーストラリア向けに8400トン合わせて7万8400トンの輸入枠を設けることで決着しました。

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アメリカ、まさかの調整ミス!?

これまでもめにもめて交渉が進まなかった日米の自動車協議は2015年に入ると、ようやく歩み寄り始めました。ある政府関係者は、懸案だった自動車部品の撤廃期間も含め、5月ごろには極秘裏に両国が「握る」段階になっていたと明かします。

日米で握ったなかで重要だったのは「原産地規則」という関税をゼロにする際のルールについてです。原産地規則とは自動車を生産する際にTPPに参加する国で生産された部品をどれぐらいの割合使えば、メイド・イン・TPPと認めて、関税をゼロにするか、その基準のことです。

日本の自動車メーカーはTPPに参加していないタイや中国などでも部品の調達を行っており、この基準を厳しくされると、関税撤廃のメリットが受けられないリスクがあったのです。一方、メキシコとカナダは、アメリカとむすぶNAFTA=北米自由貿易協定ですでに厳しい原産地規則のルールを実現しており、安易にこの割合を引き下げると他国からの部品の流入を招くことになりかねず、日本とは利害が対立する関係でした。

アメリカは日本の立場に理解を示して「握った」わけで、その内容を同じNAFTAのメンバーであるメキシコとカナダに説明し、説得する責任がありました。日本政府も当然のようにアメリカが2国を説得してくれるだろうと信じ切っていました。

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しかし、7月にハワイで開かれた閣僚会合で日本の交渉団はとんでもない事実に直面します。アメリカが日米で握った内容をメキシコ、カナダに伝えたのは、ハワイの閣僚会合の僅か1週間前で、両国とも猛反発してきたのです。
5月ごろから2か月も時間があったにもかかわらず、アメリカが何の調整もしていなかったことに日本側はショックを隠しきれませんでした。自動車協議に携わったある政府関係者は「話が違う!アメリカの調整ベタのせいで時計の針を戻してたまるか」と怒りに肩を震わせていました。

何事につけ、「根回し」と「事前調整」を好む日本流と、「正面からの議論」と「その場での決断」を重視するアメリカ流の違いといえばそれまでですが、重要な局面でのまさかのアメリカの調整ミス。ハワイの閣僚会合が大筋合意できなった理由のひとつは原産地規則を巡る調整にあったのです。

だからこそアトランタでの閣僚会合の前に日米はメキシコ、カナダを交えて2回にわたって事前協議を集中的に行いました。
結局、日本側も原産地規則の割合について妥協のカードを切りつつ、例外を認めさせることで日本メーカーへの影響をギリギリの線で抑え込み、長く続いた自動車交渉に終止符を打ちました。

ニュージーランドに対するあめとむち作戦?

「大筋合意を発表する準備が整ってきている」-。アトランタでの閣僚会合のさなか、甘利大臣が大筋合意がもはや時間の問題だと宣言したのは、現地時間の10月4日正午(日本時間5日午前1時)。各新聞は「大筋合意へ」と一面トップで伝えました。

しかし、このとき日本は最後に残ったニュージーランドとの乳製品の詰めの交渉を実は始めていませんでした。一向に大筋合意が発表されないことに現地のメディアも、そして交渉官たち自身ですら混乱を隠せませんでした。にもかかわらず甘利大臣が踏み込んだ発言した背景には、政治家ならではの計算があったようです。

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話は7月にハワイで開かれた閣僚会合の前にさかのぼります。ニュージーランドはこのころから、乳製品の市場開放について、高い要求を突きつけていました。しかし、日本の交渉関係者は「ニュージーランドは交渉がまとまるとわかれば必ず要求を下げる」と分析。過度な要求は相手にしないという戦略をとり、ハワイ会合前にニュージーランド側が申し込んできたキー首相と安倍総理大臣との電話会談を受けませんでした。

ニュージーランドは「オバマ大統領とは電話会談ができたのに、なぜ日本はトップどうしの電話会談を受けないのだ?」と日本側の対応に怒りをあらわにしたといいます。

日本政府はアトランタでの閣僚会合前、逆の方策に出ます。ニューヨークで開かれていた国連総会で、安倍総理大臣がキー首相と立ち話をしたのです。TPPについて込み入った話をしたわけではないとされるものの、首脳間で話したことでニュージーランド側の顔は立ちました。

ニュージーランドとしては、最後まで粘るほど利益を得られる可能性が高まるものの、決裂させてしまっては取れるものも取れません。現地時間の午前5時まで交渉して、最後は妥協しました。決着はギリギリまでかかりましたが、日本側の戦略は功を奏したようです。

日本は何を勝ち得たのか

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「守るべきは守り、攻めるべきは攻める」。
政府が繰り返してきたTPP交渉のスローガンです。交渉の結果、農業で守ることができた部分があり、工業製品の輸出でメリットがあることは事実です。

一方で、関税を撤廃する割合はこれまでの最高を大幅に上回る95%。農産物ではこれまで高い関税をかけて保護をはかってきた鶏肉やオレンジなど多くの品目で関税が撤廃されます。自動車分野もメリットがあるとはいえ、最大の市場アメリカで乗用車の関税が撤廃されるのは協定発効後25年目以降と気の遠くなるほど先のことです。
12か国が参加する枠組みで、どこかの国が1人勝ちすることはありません。それは交渉参加当初から日本自身が言い続けてきたことでもあります。

では日本は何を勝ちとったのか。ひとつ言えるとすると、これから世界の貿易の標準となりうるルール設計に関わり、それを主導できたということではないでしょうか。今後も世界経済は好むと好まざるとにかかわらず、グローバル化が一段と進展していくでしょう。
各国が豊かさを追い求めて市場を獲得しようという競争の時代。誰がそれを支配するのか。TPPは今の時代に適合した最新の仕組みです。

ただ、TPPだけが唯一の仕組みではありません。中国はAIIB=アジアインフラ投資銀行を年内にも設立し、新しい価値基準を構築しようとするでしょう。アジア太平洋の経済の主導権争いは、始まったばかり。TPPを日本にとって価値ある枠組みにできるかどうかは、まさにこれから。新たな舞台の幕はもう開いています。