「二・二六事件」から89年 遺族ら追悼 事件の詳細を【Q&A】で

戦前、陸軍の青年将校らがクーデターを企てて政府要人らを殺害した「二・二六事件」から26日で89年です。
都内では、将校の遺族らが事件で亡くなった人を追悼する慰霊像を訪れて祈りをささげました。

陸軍の青年将校らがクーデター企てた「二・二六事件」

「二・二六事件」は89年前の1936年、昭和11年2月26日に陸軍の青年将校らが天皇中心の軍事政権を確立するとしてクーデターを企てた事件で、4日間にわたって東京の中枢を武装占拠し、政府要人ら9人を殺害しました。

26日は、事件で禁錮刑となった今泉義道少尉の次男、章利さん(75)らが東京・渋谷区にある慰霊像を訪れ、花を手向けたり、手を合わせたりして事件で亡くなった人たちに祈りをささげました。

慰霊像は、殺害された人や青年将校を追悼する目的で、将校らが処刑された陸軍の施設の跡地に昭和40年(1965年)に建てられました。

事件は近代日本最大の軍事クーデターと言われ、事件後、軍部の力が拡大し、戦争へと突き進む大きな転換点になったとされています。

慰霊に訪れた今泉さんは「天皇の側近を殺害すれば苦しんでいる人たちの声が届くのだと考えたことは残念です。亡くなった人には申し訳ないと思います。将校は私心なく、悪い人は倒されるべきだと考えて行動に移してしまった、不幸な事件だと思います」と話しました。

そのうえで「事件が起きてしまった不幸を私も考えていきたいと思いますが、遺族は少なくなってきているので、うまくバトンタッチをしてこのような事件が起きないようにしてほしいです」と話しました。

【Q&A】“近代日本最大の軍事クーデター”を振り返る

1936年、昭和11年に起きた「二・二六事件」。

陸軍の青年将校らによる近代日本最大の軍事クーデターで、戦争へと突き進む大きな転換点になったとされています。

首都・東京の中枢で起きたこの事件、現場の跡地を訪ねながら振り返ります。

Q. そもそも、どうして「二・二六事件」というのか?

A. 事件が起きたのが2月26日であることから「二・二六事件」と呼ばれます。

同じように日付が由来となっている「五・一五事件」は、1932年、昭和7年5月15日に海軍の青年将校らが総理大臣の犬養毅を殺害した事件です。

Q. 二・二六事件では何が起きたのか?

A. 陸軍の青年将校らがおよそ1500人の部隊を動かして総理大臣官邸などを襲撃し、政府要人ら9人を殺害しました。

そして、霞が関や永田町の総理大臣官邸や国会議事堂、警視庁など日本の中枢を4日間にわたって武装占拠しました。

高橋是清翁記念公園

Q. 誰が殺害されたのか?

A. いずれも元総理大臣で、大蔵大臣の高橋是清や内大臣の齋藤實など9人が亡くなりました。

高橋是清は、現在の青山一丁目駅と赤坂見附駅の間の青山通り沿いにあった私邸で銃と刀で殺害されました。

跡地は「高橋是清翁記念公園」となり、公園内には本人の像が建てられています。

私邸の建物は、東京・小金井市にある都立小金井公園内の「江戸東京たてもの園」に移築され、現在も公開されています。

齋藤實は現在の四ツ谷駅の近くにあった私邸で多数の銃弾を撃ち込まれて殺害されました。

陸軍の教育総監だった渡辺錠太郎は、現在の荻窪駅近くの私邸で銃や刀で殺害されました。

次女は岡山市の学校法人ノートルダム清心学園の元理事長で、ベストセラー「置かれた場所で咲きなさい」の著者として知られる渡辺和子さんです。

和子さんは当時小学生で現場に居合わせましたが、寝室の応接台の陰に隠れて助かりました。

総理大臣公邸:当時の総理大臣官邸

Q. ほかに襲撃されたのは?

A. 総理大臣の岡田啓介も狙われましたが、官邸内に身を潜めて難を逃れました。

総理大臣官邸では、間違えられて義理の弟で秘書官だった松尾伝蔵が殺害されました。

当時の総理大臣官邸は、現在は改修されて総理大臣公邸になっています。

国会で「幽霊が出るのか」といった質問が出るなど、事件にまつわるうわさが今も残っています。

さらに、総理大臣などの警護にあたっていた警視庁の警察官5人も犠牲になりました。

また、のちに総理大臣となる侍従長だった鈴木貫太郎も重傷を負ったほか、伯爵で前の内大臣だった牧野伸顕も襲撃されました。

九段会館テラス:鎮圧側の戒厳司令部

Q. 事件現場、ほかにはどのような場所があるのか?

A. 完成間近だった現在の国会議事堂。

現在は経済産業省の庁舎が建つ旧国会議事堂。

現在と同じ場所で、桜田門駅近くの警視庁などです。

現在の赤坂見附駅近くにあった料亭「幸楽」は、青年将校らの拠点となりました。

跡地には「ホテルニュージャパン」が建てられましたが、1982年に33人が死亡する火災が起き、いまは高層ビルが建っています。

一方の鎮圧側の戒厳司令部が置かれたのは、現在の九段下駅近くにあった「軍人会館」です。

「軍人会館」は戦後、「九段会館」と名前を変え、2022年には特徴的な外観や内装を一部残した「九段会館テラス」に建て変わりました。

国立新美術館別館:第三連隊の兵舎の一部を保存

Q. 青年将校らは何を訴えて事件を起こしたのか?

A. 当時の日本は昭和恐慌と呼ばれた不況から抜け出せず、農村では貧困が深刻化していました。

青年将校らは、政治家や天皇の側近などが国民を犠牲にして私利私欲に走る「国体破壊の元凶」だとし、天皇中心の軍事政権を確立するとしてクーデターを企てました。

率いられた部隊の大半は陸軍第一師団に所属していました。

第一師団の歩兵第一連隊と第三連隊の兵舎は、現在の六本木駅の近くにありました。

第一連隊の兵舎の跡地は「東京ミッドタウン」になり、第三連隊の兵舎は一部を保存して改修されて現在、「国立新美術館別館」になっています。

山王ホテル跡地

Q. 事件はどのようにして終結したのか?

A. 戒厳令が出され、4日目の29日に鎮圧されました。

昭和天皇は鎮圧に向けて強い意志を示したとされています。

青年将校らの部隊が占拠していたのが、現在の溜池山王駅の近くにあった「山王ホテル」です。

跡地にはいま、高層ビルが建っています。

事件が終結した29日、青年将校のひとりはここで拳銃自殺を図りました。

事件後、青年将校やつながりがあった思想家らは非公開で弁護人なし、1審のみの「暗黒裁判」とも呼ばれた軍法会議にかけられました。

そして、首謀者とされた19人が処刑となりました。

Q. 事件が与えた影響は?

A. 事件をきっかけに軍部の政治への関与が一層強まりました。

その後、日本は太平洋戦争に突入します。

いまから80年前の壊滅的な敗戦は、事件からわずか9年後のことでした。