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特集
昭和歌謡がつなぐ日韓 “文化交流”新時代へ

「いつか日本の歌を歌える日が来るんじゃないかって、いつも思っていました」

今、韓国で日本の歌謡曲が注目を集めています。人気K-POPグループ・NewJeansのハニさんが、松田聖子さんの『青い珊瑚礁』を歌い若者の間に支持が広がったことに加え、大きな原動力になっているのが中高年世代です。

去年、自主規制を長年続けてきたテレビが日本語の歌の放送を開始。日本歌謡をひそかに愛聴していた若いころのノスタルジーが解放されているのです。

たかが歌、されど歌。日本語の歌を待ちわびた人たちの思いを聞きました。

非常戒厳の翌日に響いた 昭和歌謡

「ギンギラギンにさりげなく~」

12月3日に韓国で突如宣言された「非常戒厳」。

その「非常戒厳」が解除された翌4日の夜、ソウル市内のバーで聞こえてきたのは日本語の歌です。緊張の一日を終えた疲れを癒やそうと、長年、日本の歌をひそかに愛してきた50代の客たちがテレビから流れる昭和歌謡を一緒に口ずさんでいました。

ソウル市内のバーで昭和歌謡を聴く人々

50代男性 A
「非常戒厳は本当にびっくりしました。今日皆さんに会えないかと思いました」

50代男性 B
「僕らも音楽の話を通じて仲良くなったわけですから、そういう文化の役割がとても大事だと思います」

50代男性 C
「若い世代は本当に運のいい幸せな世代だと思います。好きな歌手を今は直接見ることができる。私たちにとって、それは夢のまた夢の話でしたから」

「エッチな雑誌を見るくらい特別だった」

実は日本の歌は、韓国では長く規制や批判の対象になってきました。

背景にあるのは、日本による植民地支配(1910年-1945年)の歴史です。当時、学校では日本語による授業が行われ、子どもたちに教えられたのが「日本語の歌」でした。

植民地時代を経験した90代男性

90代男性
「幼かったから具体的には覚えてないけれど、韓国人を植民地の民族として扱って、アイデンティティーをなくさせられたんだ。日本の歌を聴くと、今もそういうことを思い出す」

1965年の「日韓国交正常化」以降も、国民の対日感情を理由に日本の大衆文化の流入は規制されてきました。一方、80年代に入ると、市民の間ではひそかに日本の歌謡曲が出回るようになります。

ソウル市内で売られていた海賊版カセットテープ

規制のため、手に入らない正規版。人々が買い求めたのは海賊版のレコードやカセットテープでした。

「非常戒厳」の翌日、バーで日本語の歌を楽しんでいた50代のイム・ホンビンさんです。

中学生のころ、日本向けのビジネスをしていた父親が取引先からもらってきたのは、いしだあゆみさんの「ブルーライトヨコハマ」のレコード。それをきっかけに日本の歌謡曲に夢中になり、海賊版を売っていたリヤカーの露店をたびたび訪れたといいます。

中学生のころから日本歌謡を聴いていたイム・ホンビンさん

イム・ホンビンさん
「当時買っていたのは工藤静香さんとWinkですね。お小遣いを必死にかき集めて買っていました」

日本の歌謡曲が収録されたレコードやカセットテープは、同じ海賊版でも、韓国の曲の10倍の値段がつくほど需要が高かったといいます。

しかし、親世代の前では口ずさむことすらできなかったといいます。

イム・ホンビンさん
「周りの大人たちから『お前はなぜ日本の歌を歌っているんだ』と怒られたことがありますが、その理由について大人たちは説明してくれませんでした。だんだんと韓日の歴史を学んでいってからは、申し訳なさを感じたりもしましたね。なので、当時の自分にとって日本の歌はエッチな雑誌をみるくらい特別なことでした」

その後、1998年の「日韓共同宣言」以降、日本の映画やマンガの流入が段階的に解禁されました。2004年には日本の音楽CDの販売も解禁されたものの、韓国のテレビ局は放送の自主規制を続け、おおやけに「日本の歌が好き」と言いにくい空気は残り続けました。

歌手の近藤真彦さんも、以前、韓国を訪れた際に、日本の歌がタブー視される空気を感じたといいます。それは、現地のタクシー運転手と交わしたやりとりでのことでした。

近藤真彦さん
「運転手さんに『あなた日本人?』と聞かれて『ちょっと窓閉めろ』って言われて、運転手さんがカセットテープで日本の曲をかけて、3曲目くらいに「ギンギラギン」がかかったの。
あ、窓閉めるんだと思って。信号で止まったときに、日本の歌が横断歩道で立っている人に聞かれてはいけないっていうのがあったんじゃないかな。だから、窓閉めてと言われたときはちょっと心が痛んだ。聞こえちゃいけないんだって」

こうした社会状況を経て、2024年、韓国のテレビ局は日本語の歌の放送に乗り出します。

韓国と日本の歌手がそれぞれの国の歌を競い合う、「韓日歌王戦」は通常の歌番組の倍以上の視聴率を記録。番組で歌われた近藤さんの代表曲『ギンギラギンにさりげなく』がネット上でも大きな話題となり、近藤さんは韓国に招待されて歌番組に出演することになりました。

韓国の歌番組に出演した近藤真彦さん

近藤真彦さん
「歌いながら、60のジジイが言うことじゃないけど、もっと仲良くなればいいのになって。本当にそんな気持ちだった。でもなりますね、これから」

なぜ今、テレビ放送されたのか?

日韓の音楽史に詳しい北海道大学大学院のキム・ソンミン(金成ミン、ミン=王へんに文)教授は、韓国のテレビで日本語の歌の放送が可能になったのには大きく2つの要因があったのではないかと話します。

キム・ソンミン教授

キム・ソンミン教授
1:日本のコンテンツがデジタル化によって身近に
「日本のコンテンツは、多様なジャンルとともに築いてきた音楽的・産業的魅力があるにも関わらず、これまでデジタル化が遅れていました。しかしコロナ禍で日本の歌のデジタル化が加速し、韓国でも新たに発見されるようになりました。そうした中でシティ・ポップのブームが起きたり、韓国の若手の有名歌手が日本の歌謡曲をカバーしたり、SNSで昭和歌謡に触れる機会が増えたことで日本の音楽の積極的な需要が韓国で起きています。つまり、日本の音楽が韓国の音楽やファンと親密な関係を持つことにより、従来強かった社会的な抑圧も薄れてきているのだと考えられます」
2:K-POPの世界進出
「もう1つ、K-POPのグローバル化とともに韓国の音楽産業が成熟した影響も大きいと思います。これまで韓国は自国の文化や産業を守ることに重きをおいてきました。音楽産業規模に差があり、日本の音楽に対してコンプレックスがあった時代は、『CDを売ったりテレビで日本語の歌を流したりするだけで国内の産業に影響があるのではないか』という警戒心と危機感があったと思います。しかし、2020年にはBTSが韓国のアーティストとして初めて全米チャート1位を獲得するなど、世界でK-POPが人気を博しています。自国の音楽に自信とプライドを持つことにより、日本の音楽だけを排除する理由も薄くなり、今や日本の歌にも心を開くようになったのだと思います」

さらに、現在韓国で日本歌謡が広く受け入れられるようになったのには、長く「日本の歌を好き」とおおやけに言えなかった中年世代の存在も大きく寄与していると話します。

キム・ソンミン教授
「今の50代以上の世代は、若い頃から日本歌謡が好きでも人前で日本の音楽を聴くことができませんでした。禁止されていた時代はもちろん、制度として開放されても周囲の空気感までは変わらなかった。それがテレビで放送され、おおやけに認められたことになり、世間の空気までも変わって『良いものは良い』『好きなものは好き』と口に出せるようになりました。ルートや形は違うものの、こうして若い世代と中年世代が同時に、自由に日本の歌を楽しむようになったのは、戦後初めてのことではないでしょうか。こうした変化は、日韓のポピュラー音楽においても大きな意味を持つと思います。単に韓国が日本の音楽を輸入するのではなく、韓国のメディアや音楽業界が日本の歌を積極的に商品化することによって、日韓の音楽の融合と相互作用をさらに加速させています」

2つのふるさとの間で歌い続ける歌手の思い

日本の歌が韓国でも“普通に”聞けるようになった。

こうした現状を誰よりも喜ぶ人がいます。1980年代から日本で活躍し、NHK紅白歌合戦にも3回出場したキム・ヨンジャさんです。

現在暮らしている韓国のご自宅で、お話を伺いました。

演歌の魅力に目覚めたきっかけは、10代のころ。日本の歌が規制される状況下で聴いた美空ひばりさんの曲だったといいます。

キム・ヨンジャさん
「当時、美空ひばりさんのこぶしがとても魅力的に聞こえました。だから私のベースには、いつも演歌があります」

1974年、15歳のときに韓国の演歌と呼ばれる「トロット」歌手としてデビューしたキム・ヨンジャさん。アルバムが韓国のレコード史上最大の売り上げを記録するなど、一躍人気歌手となりました。

しかし当時の韓国では、トロットは大衆から親しまれる一方、日本の色が濃いもの「倭色」として規制の対象にされていました。日本の曲調に似ている「倭色歌謡」として発売禁止になった韓国の歌は、1988年までの23年間でトロットを中心におよそ250曲にのぼります。

発売禁止になったレコード

キム・ヨンジャさん
「やっぱり日本と韓国は深い歴史があるので、その中で嫌だという人もいます。これはもう政治はそれで動くしかないんですけど、ただ歌には罪がないのでいつもそれはちょっと歯がゆかったです」

キム・ヨンジャさんは好きな演歌を極めたいという思いから、憧れの美空ひばりさんの国・日本に活動の場をうつします。

インターネットもない時代。「日韓の架け橋」となることを自らに課し、日本の歌番組に出演してきたといいます。

1989年にNHK紅白歌合戦に出場したときのキム・ヨンジャさん

キム・ヨンジャさん
「その時は1989年だったので、まだ日本は“近くて遠い国”でした。なので、私が韓国人としてチマチョゴリを皆さんの前で着て歌うのは使命だと思いました。実は韓国に帰りたいときはいっぱいあったんですよ。でも私がここで帰ったらダメだと思って。次の日の新聞の見出しが浮かぶんです。『韓国の歌手キム・ヨンジャが韓国に帰った』って。歌手キム・ヨンジャじゃないんです。やっぱり日本で活動している間は『韓国の歌手』が頭につくので、私一人の問題じゃないと思っていました」

日本での活動は20年におよび、100曲以上を発表。紅白歌合戦にも出場を果たし、演歌界の第一線で歌い続けました。

ただ、そうした活躍の中でも諦めきれずにいたのが、ふるさとで好きな歌を歌いたいという願いでした。50才を迎えた2009年、キム・ヨンジャさんは祖国・韓国に戻ることを決意します。

しかし、日本の歌が自主規制されていた韓国に成功は届いておらず、磨き上げてきた日本語の歌もテレビで歌うことはできませんでした。ゼロからの再スタートで挑んだのが、かつて日本的だと揶揄された「トロット」。

演歌調のトロットにダンスミュージックやロックを融合し新たなジャンルを開拓したところ、幅広い世代の支持を受け大ヒット。韓国でも歌手として不動の地位を築き上げました。

そして去年7月、キム・ヨンジャさんは歌手人生で初めて、韓国のテレビで日本語の歌を披露することができました。2つの国の間で翻弄された歌手人生が、今ようやく一つに成就したと感じています。

キム・ヨンジャさん
「こういう時がやっと来たと思いました。日本で始めるときも韓国で始めるときも、期待感もあるけれど不安もいっぱいありました。でもそれを乗り越えないと虹は見えない。自分は2つのふるさとを持っていると思うので、今の時代がとても好きです。日本の歌も歌えるし、韓国の歌を日本の方が受け入れたし、すごくそういう意味では今、最高にいいと感じています」

(1月6日 クローズアップ現代で放送)

第2制作センター ディレクター
三宅麻希
2019年入局
大阪局でバリバラ、東京であさイチを経て2024年9月から現所属
障害やLGBTや不妊、モラハラなどの問題を中心に取材