映画を作っただけなのに 快挙続くマレーシア映画界で何が?

映画を作っただけなのに 快挙続くマレーシア映画界で何が?
アカデミー賞やカンヌ国際映画祭など、国際的な舞台で快挙が続いているマレーシアの映画界。

しかし、国内ではいま、ある作品をめぐって波紋が広がっています。

1本の映画を作った監督とプロデューサーが検察に起訴されたのです。いったい何が起きているのか。現地を取材しました。

(アジア総局ディレクター 白水康大)

問題になった映画とは?

タイトルは「メンテガ・テルバン」。マレー語で「蝶」を意味します。
末期がんの母親と暮らす15歳のイスラム教徒の少女が、母親と別れる悲しみに向き合おうと、キリスト教や仏教など、さまざまな宗教の“死後の世界”について学びながら、みずからのアイデンティティーを探し求める姿を描いています。

2021年に作られた1時間10分ほどの自主製作映画で、海外の映画祭などで高く評価されました。

何が問題になった?

問題視されたのは、主人公が豚肉が入った肉まんはどんな味がするのか興味を持ち、食べたようにも見えるシーン。
それに、父親が「ほかの宗教を信じてもよい」と発言し、改宗を容認するかのようにも受け取れるシーンです。

映画の完成後、各地で上映会などは行われていましたが、2023年1月に有料の動画配信サイトで公開されると、映画の中のこうしたシーンが物議をかもしたのです。

なぜ問題になった?

マレー半島南部とボルネオ島北部からなるマレーシアは、人口3300万あまりの多民族国家です。

その6割を占めるマレー系の人たちを中心にイスラム教が信仰され、国の宗教に定められています。
イスラム教で不浄な動物とされる豚の肉が入った食べ物を食べたようにも見えることなどが、イスラム教の教えに反するものだとしてネットを中心に批判が相次いだのです。

監督は何者かに車にペンキをかけられる嫌がらせを受け、自宅には「お前と家族は死ね」などと書かれた殺害予告まで届きました。
そうした中、2023年9月、マレーシア政府は「公共の利益に反する」として、「メンテガ・テルバン」の国内での将来的な一般公開や、宣伝などを禁止しました。

さらに2024年1月。検察当局が「他者の宗教的感情を意図的に傷つけた」として、監督とプロデューサーを起訴する事態にまでいたったのです。

監督の真意はどこに?

この映画を監督したカイリ・アンワルさん(31)。今回が初監督の作品でした。
一家全員がイスラム教徒の家庭で育ったカイリさんですが、母親は政治ジャーナリストで、カイリさんがイギリスに留学し政治の道を目指すことをのぞんでいました。

母親とは宗教に関する疑問も含め、比較的、オープンに話すことができた一方で、それ以外の家族は敬虔なイスラム教徒。

中でも保守的だった祖母は、カイリさんにイスラム教の教えを学び、宗教指導者になってほしいと願っていたと言います。
幼いころからイスラムの教えを厳格に守ることが当然とされ、母親と2人きりのとき以外は素朴な疑問も口にすることができませんでした。

大きくなってからも、友人などと宗教について議論できる機会はほとんどなく、カイリさんはマレーシア社会で宗教がタブーな話題として扱われることに違和感を抱き続けてきました。

このため、映画を通じて、宗教についてもっと率直に語り合うきっかけを作れないかと、初監督する映画の題材に宗教を選んだのだと言います。
カイリ・アンワルさん
「この映画のテーマは、私の人生の根本にある“信仰についての問い”です。
私はイスラム教徒として、イスラム教が唯一の真の宗教だと信じています。
もし自分たちの宗教が神聖であると信じているのであれば、恐れず議論できるはずだと思うのです。映画監督として純粋な“問い”を描いただけなのに、このような事態になったことは悲しく思っています」

国際的な“快挙”の一方で…

実はいま、マレーシアの映画界では国際的な快挙が相次いでいます。

2023年、アメリカ映画界、最高の栄誉とされるアカデミー賞で主演女優賞を受賞したミシェル・ヨーさんは、実はマレーシア出身です。
さらに同じ年のカンヌ国際映画祭でも、マレーシア人のアマンダ・ネル・ユー監督による映画「タイガー・ストライプス」が、権威の高い批評家週間グランプリを受賞しました。

一方、マレーシア国内では、一般公開される映画はすべて「否定的な価値観の影響から国民を守る」ためとして、当局の検閲を受けることが法律で定められています。

映画検閲法に基づいて作られたガイドラインには「宗教」の項目が設けられ、社会に「論争や疑念」を起こさないかチェックされます。
さらにイスラム教について触れる作品では「イスラムの神聖さへの疑問、嘲笑、裏切りがないか」や「イスラムの信念、法、教えと矛盾していないか」が審査の対象になっています。

こうした検閲について、マレーシアの社会と映画の関係に詳しい専門家は次のように指摘します。
山本博之 准教授
「マレーシアはマレー系だけでなく、中華系、インド系の国民も多い『多民族・多宗教』の社会で、そこに踏み込んでしまうと容易に民族間あるいは宗教上の対立につながりかねない懸念があります。なので、宗教や民族に立ち入る表現は、国が管理するのが適切であるという考え方があります。
また、政治指導者に対する批判を封じ込めるために『民族や宗教に関する発言をすると、それが国民の間の対立につながりかねない』という理由で、検閲をしたり言論の自由を制限したりする側面もあると思います」

「“問い”に向き合ってほしい」

カイリさんはいま、知人のツテで採用してもらった映像制作会社で働いています。

テレビのバラエティー番組やコマーシャルなどを制作しながら次の映画の構想を練っていますが、スポンサーに断られ続け、まだメドは立っていません。
カイリさんは、マレーシア政府が映画の上映を禁止したことは、憲法で保障された「表現の自由」に反するとして、2023年12月、政府を相手取り民事訴訟を起こしました。

刑事と民事の2つの裁判が進行中で、1、2か月に1度は裁判所に出廷しています。

判決が出るまでに数年はかかると見られていますが、裁判を通して、当局の判断は妥当だったのか、社会に問いたいと考えています。
カイリさん
「私は裁判を通して、マレーシアの映画製作者がもう恐れることのない新たな状況をつくりたいと考えています。
私たちは映画やテレビ番組を作り、人々に見てもらう権利があります。マレーシア当局には、映画を否定するのではなく、私たちの“問い”に向き合ってほしいのです」

“検閲回避” 新たな映画公開の形も

当局の規制に対する警戒感が広がる中、マレーシアの映画界では新たな手法で映画を公開する動きも出てきています。

マレーシアを代表する映画プロデューサーのアミール・モハメドさんは1月、YouTubeで新作映画「ペンダタン」の公開に踏み切りました。
マレーシアに「人種差別法」が導入され、人種間の交流が禁じられた架空の世界を描いたSF映画で、検閲を受ければ一般上映が許可される可能性は低いと考えたのです。

映画製作にかかった約33万5000リンギット(約1150万円 ※2024年7月現在)は全額、クラウドファンディングで調達しました。
公開から6か月で240万回再生され、今も再生回数は伸び続けています。

公開はYouTubeのみで、当局の規制対象になる劇場などでの一般公開は行いません。
アミール・モハメドさん
「私たちはある種の恐怖と制約の中にいます。マレーシアの社会から急に規制がなくなることは想像しにくいですし、そのような社会にはならないでしょう。
映画公開の新たな手法を見つけていく必要があります」

ネット時代の“検閲”の意味は?

そして、皮肉な状況も生まれています。

カイリさんが監督した映画「メンテガ・テルバン」は一般公開や宣伝などは禁止されましたが、誰かがこの映画をYouTubeにアップロードし、現在も再生回数が伸び続けているのです。
もともと低予算で3週間ほどで作られ、映画館などでの大規模な上映は考えていなかった自主製作映画。

それが当局の“規制”によって、完成から3年たったいまも多くの人に観られ続ける作品となっているのです。
カイリさん
「今の若者たちはSNSやインターネットが身近にあります。社会が彼らの疑問を規制しようとすればするほど、興味を持った人はその疑問をそうしたツールを使って探求することになります。
マレーシアの映画製作者の声を制限することは、誰にとっても何の役にも立たないと思います」
人々の価値観が多様化する中、マレーシアの検閲は、誰のために、何を規制するのか、難しい問題に直面していると感じました。

1本の映画が広げた波紋はどこまで広がるのか。今後も裁判の行方に注目していきたいと思います。
アジア総局ディレクター
白水 康大
2002年入局 主に報道番組のディレクター プロデューサーとしてニュース番組
クローズアップ現代 NHKスペシャルなどを制作 2023年9月から現所属