熊本 記録的豪雨から4年 人吉市役所に犠牲者を追悼する献花台

熊本県内で災害関連死を含めて67人が犠牲となり、2人の行方がわからなくなっている令和2年7月の記録的な豪雨から7月4日で4年です。21人が亡くなった熊本県人吉市では市役所に犠牲者を追悼する献花台が設けられ、市民などが訪れています。

4年前の記録的な豪雨では熊本県の球磨川が氾濫するなどして県内では災害関連死を含めて67人が犠牲となり今も2人の行方がわかっていません。

市街地など広い範囲が浸水した人吉市では21人が亡くなりました。

市役所には7月1日から献花台が設けられていて、4日は午前中、市民などが訪れ手を合わせるなどして犠牲者を悼みました。

また、午前10時には市の職員がサイレンに合わせて黙とうをささげました。

市内に住む70代の女性は「知り合いの家が流されたり、同級生のお母さんが亡くなったりしました。こんなことが起きないよう祈りました」と話していました。

また、献花に訪れた熊本県の木村知事は「4年前の朝、ヘリから映された町の様子を思い出しました。亡くなられた方やご遺族の方に哀悼の意を表しました」と話していました。

3人が犠牲になった人吉市中心部の地区で黙とう

4年前の記録的な豪雨では球磨川が氾濫して川に近い熊本県人吉市中心部の下青井町は130軒を超える住宅などが被害を受け、60代から90代の男女3人が自宅から逃げ遅れるなどして犠牲になりました。

豪雨から4年となった4日、3人が暮らしていた地区の公民館に住民およそ20人が集まり、午前10時の追悼のサイレンにあわせて川の方向に向かって黙とうをささげました。

町内を代表して渕上憲男さん(84)が「日頃は穏やかで澄み切った球磨川が4年前、突如暴れ川となり、こよなく愛するふるさとを襲いました。この大水害を風化させず後世に伝えます」とあいさつしました。

そして、一人一人献花をして、静かに手を合わせていました。

この町内では区画整理事業が始まっていて令和10年度まで続くということです。

自宅が半壊する被害を受けた吉村政浩さん(79)は「区画整理が始まっていて、元どおりになるには相当な年数がかかると思うので将来どうなるのか不安があります」と話していました。

25人が亡くなった球磨村 追悼のサイレンにあわせて黙とう

4年前の記録的な豪雨で球磨川やその支流が氾濫した熊本県球磨村ではあわせて25人が亡くなりました。

渡地区にあった149年の歴史をもつ渡小学校は豪雨による球磨川の氾濫で校舎や体育館が大きな被害を受けことし3月末で閉校しました。

ことし4月には渡小学校と一勝地小学校、それに球磨中学校を統合した小中一貫9年制の「球磨清流学園」が開校し、渡小学校の児童たちは新たな環境で学校生活を始めています。

豪雨から4年となる4日、朝8時半に村の防災行政無線のサイレンがなると、子どもたちは球磨川のほうを向いて黙とうをささげていました。

当時、渡小学校の5年生だった水篠聖良さんは「犠牲になられた方々に『球磨村はこれだけ復興してきたよ』と伝える思いで黙とうしました」と話していました。

同じく当時、渡小学校の5年生で自宅が被災した長船拳志郎さんは「亡くなった方たちのことを思って黙とうしました。命の大切さを感じています。これからは近所の人たちとも関係を築き命を守れるように行動したいです」と話していました。

人吉市の発船場 球磨川に花を流し祈りささげる

豪雨で舟などが大きな被害を受けた熊本県の人吉球磨地方の「球磨川下り」の舟が出発する人吉市の発船場では、社員たちが川に花を流して祈りをささげました。

「球磨川下り」は手こぎの舟で下る人吉球磨地方の観光の呼び物ですが、4年前の豪雨で川下りに使う舟12隻が流されるなど大きな被害を受けました。

氾濫した球磨川の川岸にある舟が出発する発船場には、運営会社に出資している人吉市の松岡隼人市長や社員、およそ10人が訪れ、午前10時のサイレンにあわせ球磨川に向かって黙とうしました。

そして、菊の花を流して祈りをささげていました。

20代の女性社員は「人吉が何事もなく平和に暮らせるよう亡くなった人たちに安心して見守っていただけたらと思い献花しました」と話していました。

また、40代の船頭は「7月4日に花を流すたびに『立ち止まってはいられない』と思い返す1年に1回の節目の日になっています」と話していました。