オッペンハイマー “涙流し謝った” 通訳証言の映像見つかる

原爆の開発を指揮した理論物理学者、ロバート・オッペンハイマーが、終戦の19年後に被爆者とアメリカで面会し、この際、「涙を流して謝った」と、立ち会った通訳が証言している映像が広島市で見つかりました。専門家は「実際に会って謝ったことは驚きで、被爆者がじかに聞いたというのは大きな意味がある」としています。

ロバート・オッペンハイマーは、第2次世界大戦中のアメリカで原爆の開発を指揮した理論物理学者で、原爆投下による惨状を知って苦悩を深めたと言われていますが、1960年に来日した際は、被爆地を訪れることはなかったとされています。

今回見つかった映像資料は、1964年に被爆者などが証言を行うためにアメリカを訪問した際、通訳として同行したタイヒラー曜子さんが2015年に語った内容を記録したもので、広島市のNPOに残されていました。

この中でタイヒラーさんは、訪問団の1人で、広島の被爆者で理論物理学者の庄野直美さんなどが非公表でオッペンハイマーと面会した際の様子について「研究所の部屋に入った段階で、オッペンハイマーは涙、ぼうだたる状態になって、『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい』と本当に謝るばかりだった」と述べています。

面会については、被爆者の庄野さんも後に旧制高校の同窓会誌などで明らかにしたうえで「博士は私に『広島・長崎のことは話したくないのでかんべんしてほしい』と語りかけた。背負っている重荷をひしひしと感じた」などとつづっています。

核兵器をめぐる議論の歴史などを研究しているアメリカのデュポール大学の宮本ゆき教授は「実際に被爆者に会って謝ったことは驚きで、被爆者がじかに聞いたというのは大きな意味があると評価したい」としたうえで「被爆者の願いはオッペンハイマーがことばに責任を持って核兵器廃絶に向かっていくことだったと思うが、面会後もそうした動きはなく、私たちに残された課題だと理解すべきだ」と指摘しています。

ロバート・オッペンハイマーとは

ロバート・オッペンハイマーは、第2次世界大戦中のアメリカで、原爆の開発計画=「マンハッタン計画」の科学部門を指揮した理論物理学者です。

1945年7月に行われた人類初の核実験「トリニティ実験」を経て広島と長崎に原爆が投下され、アメリカでは戦争の終結を早めたとして脚光を浴びましたが、その後、被爆地の惨状を知り苦悩を深めていったと言われています。

1960年に来日しましたが、被爆地を訪れることはなかったとされていて、1967年に62歳で亡くなりました。

オッペンハイマーをめぐっては、原爆開発の過程などを描いた映画がアカデミー賞で7部門を受賞し、日本でもことし3月に公開されました。

タイヒラー曜子さんと庄野直美さん

今回の映像資料に証言を残していたタイヒラー曜子さん、旧姓・浦田曜子さんは通訳として被爆者の証言活動に同行しました。

ドイツに住む夫のウルリッヒ・タイヒラーさんによりますと、タイヒラー曜子さんは1964年の東京オリンピックで通訳を務めたほか、ドイツに移り住んだあともG7サミットといった要人が集まる国際会議などで通訳を担当したということです。

タイヒラーさんは、広島市で証言した4年後の2019年に亡くなりました。

オッペンハイマーと面会した庄野直美さんは、原爆投下のあと家族の安否を確認するため、広島市内に入り被爆しました。

理論物理学が専門で広島女学院大学の教授などを務めながら、長年にわたって原爆被害の研究や核兵器廃絶を目指す活動に取り組み、2012年に86歳で亡くなりました。

タイヒラー通訳が語ったオッペンハイマー

今回見つかった映像資料で、タイヒラーさんは面会に同行した際の自身の受け止めや面会の様子、それにオッペンハイマーの印象などについて次のように話していました。

「私自身がすごくまだ未熟だったので、重要性を個人としては当時認識していなかったと思う。オッペンハイマーというのは、マンハッタン計画の学者の中でも特に核の開発で重要な役割を果たした人で、核開発をしたこと自体、ものすごく後悔していた。被爆者に会った時に私は『同行してください』と言われて行ったわけだが、研究所の部屋に入ったその段階で、オッペンハイマーは涙、ぼうだたる状態になって、そして『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい』と本当に謝るばかりだった。会合の記録はたぶんないんだと思うし、重要性というのは私自身も分かっていなかった。その前に、トルーマン大統領のライブラリーに行った時に、トルーマンは被害者の人たちを前にして『これはアメリカが取った正当な行為だ』とあくまでも原爆を投下したことを正当化した。それはそれなりの論理があるんだろうと思うが、トルーマン大統領のことばとオッペンハイマーのことばの、この対比。これは私にとって重要な経験だった」

庄野さんとオッペンハイマー 面会予定記した資料も

今回の映像資料が残っていた広島市のNPOを創立したアメリカ人女性が、帰国後に設立したウィルミントン大学の平和資料センターには、1964年に被爆者たちが被爆証言を行うためにアメリカなどを訪問した、「世界平和巡礼」に関連する複数の資料が残されていました。

このうち、訪問団のアメリカでのスケジュールを記した資料には「1964年6月に庄野博士がオッペンハイマーとの非公表でのアポイントのためプリンストンを訪れる」などと記されています。

また、訪問団のコーディネーターが面会の約束の2か月前にオッペンハイマーに宛てて書いた手紙も残されていて「庄野博士のアメリカ滞在中の1番の望みは、あなたと会って話すことだ」と記されています。

また、手紙には「面会は公式でもそうでなくてもあなたの裁量次第だ」という記述があるほか「公式な議論の場が設定されようとされなかろうと、庄野博士は個人的にでもあなたと専門分野の仕事について話し合いたいはずだ」とも書かれていて、庄野さんがオッペンハイマーとの面会を強く望んでいた様子がうかがえます。

広島市のNPO理事長 “被爆者が事実を知ることに価値がある”

映像資料が残されていた広島市のNPO「ワールド・フレンドシップ・センター」の立花志瑞雄理事長は「原爆の開発に関わったオッペンハイマーが、国家のレベルを越えた一人の人間として、被害者への感情を表現したのではないか。広島・長崎の被爆者がその事実を知ることは価値があると思う」と指摘しました。

また、立花理事長は、アメリカを訪れた被爆者の希望で面会が実現したとみられることについて「今も多くの被爆者がさまざまな場に出かけて証言などの活動をしているが、その一つ一つが大切なんだと改めて感じさせられる。今回見つかった証言だけでなく、60年前に被爆者がアメリカなどを訪問して核兵器の廃絶を訴えたという事実も少しでも多くの人に知ってもらいたい」と話しています。

専門家 “核兵器廃絶が私たちに残された課題”

倫理学が専門で、核兵器をめぐる議論の歴史などを研究しているアメリカのデュポール大学の宮本ゆき教授は「オッペンハイマーが実際に被爆者に会って謝ったことは驚きで、被爆者がじかに『ごめんなさい』ということばを聞いたというのは大きな意味があると評価したい」と述べました。

一方で「多くの被爆者の願いは、オッペンハイマーがそのことばに責任を持って核兵器廃絶に向かっていくことだったと思うが、残念ながらオッペンハイマーの1964年以降の取り組みを見ても、そうした動きはなかった」と指摘しました。

ただ、宮本教授はアメリカの状況について「アメリカには『核を持って武装しなければならない。核が私たちを守ってくれる』という核抑止論が根強くあるほか、当時は核の危機も高まっていたので、核兵器を開発した人が核兵器を否定することは難しかったと思う」と述べました。

そのうえで宮本教授は「オッペンハイマーが核兵器廃絶に向けて動かなかったのであれば、それは私たちに残された課題だと理解するべきだ。私たちが行動することで、オッペンハイマーの『ごめんなさい』ということばとの間を埋めていかなければいけないと思う」と指摘していました。