100年前に第九を日本語で熱演 “歓喜の歌”が愛される理由

100年前に第九を日本語で熱演 “歓喜の歌”が愛される理由
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年末に聞こえてくる「第九」。

ドイツの作曲家、ベートーベンが作曲した交響曲第9番の第4楽章にあるドイツ語の合唱部分は、おそらく誰もが一度は耳にしたことがあるだろう。

ことしは第九のウィーンでの初演から200年の世界的なメモリアルイヤーとなっている。

では、あのなじみの深い旋律に次のような歌詞がつけられていたことはご存じだろうか。

「今日しも擧(あ)げます かしこき御典(みのり) 祝へ祝へ今日のよき日…」

実はこの歌詞は、今から100年前に福岡県で日本人が初めて第九の一部を演奏したときのものだ。

100年、200年と時を越えて歌い継がれる第九。日本ではどのように演奏され、伝えられてきたのか。その歴史をひもといていく。

(科学文化部 堀川雄太郎)

日本と第九の始まりを求め徳島・鳴門へ

ベートーベンの第九と日本の最初の出会い。

その舞台は徳島県鳴門市にある。

ことし5月、市内で演奏会が開かれた日にあわせて現地を訪れた。

第九を歌うために開かれるこの催しは、ことしで40回目を迎える。

約850人の観客が見守る中、オーケストラとともに舞台に立ったのは、250人近くの大合唱団だ。

地元に限らず、北海道や沖縄、それにアメリカや中国から、日ごろ第九を歌っている有志が駆けつけた。

オーケストラの演奏、そして4人のソリストとともに、合唱団が迫力ある「歓喜の歌」を披露すると、客席からは立ち上がって拍手をする人の姿も多く見られた。
訪れた人
「すごく壮大で、オーケストラは初めて聴いたので、とてもかっこいいなと思いました。」
訪れた人
「すばらしかったです。夫も出ているので娘と応援に来ました。将来、子どもたちにも歌ってもらいたいですし、地元で継続的に残してほしい。」
演奏会後、合唱の参加者も充実した表情を浮かべていた。
合唱に参加した中学生
「第九はテレビでしか聴いたことがなくて、実際に歌ってみるとドイツ語の発音も難しかったです。たくさんの人と一緒に歌えて楽しかったですし、いい経験になりました。」
合唱に参加した男性
「第1回に参加したときに、合唱の出来に感激して参加を続けています。難しくて、なかなか歌いこなせないからやりがいがあるというか、続ける意味があると思います。目標は50回出場なので、まだ道の途中です。」

収容所から始まった“第九”の歴史

鳴門市民に愛される第九だが、なぜこの地で歌い継がれているのか。

そしてなぜ、年末ではなく、この時期なのか。

その歴史に詳しい、鳴門市ドイツ館の森清治館長に案内されたのは市内の公園だ。
門には「板東俘虜収容所跡」、そして「ベートーヴェン『第九』日本初演の地」と書かれている。

第1次世界大戦中の1917年から約3年間、この場所にあった収容所には、およそ1000人のドイツ兵の捕虜が収容されていた。

それが、板東俘虜収容所だ。
ドイツ館には収容所を復元した模型がある。

当時、収容所内では文化活動や娯楽活動がゆるされ、敷地内には商店街やボウリング場も並んでいたという。

ドイツ兵の中には楽器を演奏できる人たちもいたことから、オーケストラが結成され、演奏会も行われていた。
そして敷地内にある講堂で、1918年の6月1日、ドイツ兵たちが第九の全楽章を披露。

これが国内で初めて第九が演奏された瞬間だったという。

年末ではなかった。
館内には当時のプログラムも残されていた。

合唱には約80人、楽団には45人ほどが参加し、ドイツ兵のみで「歓喜の歌」を歌うため、女声パートを男声パートにアレンジして歌われたそうだ。

当時、収容所内で演奏が行われたため、その様子を見た日本人はいなかった。

しかし、演奏を聴いた捕虜が祖国の家族に感想を書いた手紙を送っていて、そこには「演奏は非常にほれぼれした」という記述もあった。

お遍路の地で歌い継がれる第九

国内初演の地として知られるようになった鳴門市。

市内では午後6時に防災行政無線から第九のメロディーが流れるほか、市役所の電話の保留音にも第九が採用されている。
さらに地元の道の駅では、ドイツの国旗を表現した「第九ホットドッグ」やバウムクーヘンならぬ「第九クーヘン」まで販売されている。
もともと人道的な対応から、国内の収容所では娯楽活動が認められていたが、板東俘虜収容所では、ほかの収容所よりも頻繁に演奏会が行われるなど、より自由な活動が認められていたという。
その大きな支えとなったのが、当時の収容所長、松江豊壽だ。

ドイツ館の前には銅像も設置されている。

松江は捕虜となったドイツ兵の権利を尊重し、誇りを持って生活できるよう配慮した。

「捕虜に甘い」という警告や非難も陸軍から受けていたというが、収容所職員の協力もあって信念を貫き、板東俘虜収容所の管理運営は模範収容所として評価された。
鳴門市ドイツ館 森清治館長
「会津出身の松江の父親は戊辰戦争で敗北して流されてしまい、非常につらく苦しい生活をした人物だったと言われています。国のため、地域のために戦ったのだから、そういう人たちをむげに扱ってはいけないという気持ちを父親から受け継いでいました。松江の敵を敬う気持ちや施策が、第九の演奏会が開かれたきっかけになったと思います。」
収容所の閉鎖後も、鳴門の人たちと故郷に帰ったドイツの人たちの交流、そして地元で第九の演奏会が続けられ、市民の心に根づいている。

森さんは、近くに四国霊場の札所があり、長くお遍路さんに接待の心で接してきたこの土地だからこそ、大事に受け継がれてきたのではないかと話す。
鳴門市ドイツ館 森清治館長
「この地域はお遍路さんに対して接待の施しをする習慣があります。困っている人を見ると、助けてあげたいという気持ちが芽生えるのです。つらい思いをしながら生活していたドイツ兵が第九を演奏したという功績を、自分たちの手で残していきたいという気持ちになって、それが続いてきた。地域の歴史の中でも今後ずっと引き継がれていくべきものだと思います。」

では、日本人の初演は?

日本で初めて第九を演奏したのはドイツ兵だった。

では、日本人として初めて演奏したのは誰だったのか、手がかりを求めて向かったのは福岡市だ。
地元の九州大学には、日本でも歴史ある大学オーケストラがあり、前顧問の松村晶名誉教授に大学文書館を案内してもらった。

実は約5年前、施設内の保管庫で、ある楽譜が見つかったという。

それは第九のオーケストラで使われたもの。

当時の記録などを検証すると、今から100年前の1924年1月、全楽章ではなく一部ではあるが、それこそが日本人としての最初の第九の演奏だったことがわかった。
バイオリンやホルンなど9つのパートに分かれている、いずれも手書きの楽譜。

第4楽章のうちの約10分間の演奏部分が抜き出されていた。

一部のピアニッシモがフォルテッシモに変更されるなどのアレンジも見られる。
100年前に福岡市で行われた第九の演奏の舞台。

それは、昭和天皇のご成婚を祝う演奏会だった。

松村名誉教授は、別の場所で見つかった合唱譜を見てさらに驚いたと振り返る。

そこにはドイツ語の歌詞とともに、カタカナで日本語の歌詞が書き添えられていたのだ。

今日しも擧げますかしこき御典
喜びことほぐ我等の聲は
野山を動かしみそらに滿ちて
世界の果てまで響ぞわたる
祝へ祝へ今日のよき日

調べてみると、これは当時の文部省が作成した「皇太子殿下御成婚奉祝歌」で、第九の歌詞として採用されていたのだった。
九州大学 松村晶 名誉教授
「大正時代の西洋音楽をいろんな替え歌で日本語に変えて歌うということはよく行われていました。分かりやすい内容の歌詞にした方が一般市民により受け入れやすいということは十分あったと思います。」
学内には当時使われたと伝わるオーボエも残されていた。

現役のオーケストラの学生に演奏してもらうと、何とも味わい深い音が聞こえた。
九大フィルハーモニー・オーケストラ 齋藤かなさん
「音を出すために穴をふさいだりするキーの数も違いますし、古い楽器なので音も鳴らしづらい部分はありますが、想像以上に音が出たのでびっくりしました。」
当時、演奏会を企画したのは、第九の演奏で指揮者を務めた榊保三郎教授だ。

ドイツ留学を経て今の九州大学医学部に赴任し、1909年に大学にオーケストラを設置した本人でもある。

みずからバイオリンを弾いていて、音楽活動に熱心だった榊教授は、留学中に第九の存在を知ったのではないかと見られている。

“歓喜の歌”なので、ヨーロッパでは第九を祝いの場で演奏されていたかもしれないが、日本はまだそのような時代ではなかった。

その中で、ご成婚のお祝いとして第九を演奏したということは、今の日本の第九の位置づけを先取りしたとも言える。

そして演奏会では男女混声の約180人の合唱団が集められたが、今ほどベートーベンや第九が浸透していたわけはなく、当時の時代背景を踏まえると、松村名誉教授は、演奏会の開催には、相当な苦労があったのではないかと思いをはせる。
九州大学 松村晶 名誉教授
「中学生以上の男女が同じ場所にいることは許されない時代だったので、当時の女学校の校長に反対されたものの、口説きに行って、どうにか混声合唱を結成することができたという記録も残っています。榊教授はもともと派手なことが好きな人だったみたいで、大規模な第九の演奏に魅力を感じたのだと思います。日本でみずから、自分で先駆けてやってやろうという気持ちがあったのではないでしょうか。」

100年前の第九をもう一度

榊教授が企画した日本人として最初の第九の演奏から100年。

九州大学ではあるプロジェクトが始動した。

ことし9月16日に当時の演奏を再現する特別演奏会を開こうというのだ。

5月に始まった練習では、大学のOBや市民などの有志、約200人が集まって合唱団を結成。

これまで何度も第九を歌ったという人もいれば、初めて歌うという人もいる中、100年前と同じ奉祝歌の練習に取り組んでいる。
もともと難しいとされる第九だが、何度も歌った人たちでも日本語の歌詞に慣れるのに一苦労。

それでも100年前の演奏に思いをはせながら、徐々にハーモニーができあがっていく。
合唱に参加した大学生
「初めてだったのでとっても難しかったです。替え歌で歌われたということも知らなかったので、今回この歌詞で歌えることがとてもうれしいというか、新鮮な気持ちです。」
合唱に参加した男性
「10回以上は第九を歌っていますが、奉祝歌の歌詞は初めて見ました。ステージに立つ以上はお客様にいい歌を届けたいですし、自分も楽しんで歌いたいと思います。」
合唱指揮 横田諭さん
「当時の楽譜を見ると、この曲を大事にして、そしてようやく演奏できたというような、熱意というか思いがすごくこもっている気がします。オーケストラや合唱団をそろえるということ自体がとても大変なことだったと思いますし、練習もどうやったのだろうと思います。100年たってこうして指揮をできる偶然に感謝したいですし、うれしいです。」
プロジェクトの実行委員長を務めるのは大学院生の十島慎太朗さん。

自身はオーケストラのチェロを担当し、この日の練習では合唱団のメンバーに次のように呼びかけた。
九大フィルハーモニー・オーケストラ 十島慎太朗さん
「すごく難しい曲ということもあって、僕たちもすごく苦戦していますが、本番まで一緒に頑張っていい演奏ができたらすごくうれしく思います。」
十島さんの祖父、そして父親はどちらも九州大学のオーケストラのOB。

さらに2人とも第九の演奏に参加したと言う。
今回初めて第九を演奏する十島さんにとって、9月の本番は特別な舞台。

感慨にふけるとともに、榊教授をきっかけに母校が日本人として初めて第九を演奏したことを誇りに思い、今後も演奏が受け継がれてほしいと望んでいる。
九大フィルハーモニー・オーケストラ 十島慎太朗さん
「いろいろな交響曲を演奏しますが、その中でもベートーベンの交響曲第9番は特別な曲です。僕らは100年で受け継がれていますが、これからこの九大フィルが10年、20年、そして100年と続いていけるようなオーケストラであってほしいと思いますし、プロの演奏会には劣ってしまうかもしれませんが、第九にかける思いや情熱は負けないというくらい、熱い演奏を届けられたらと思います。」

第九がいまも日本で広く愛される理由は

ウィーンでの初演から200年。

そして、日本人の初演から100年。

日本では年末の風物詩として親しまれる第九は、徳島県鳴門市での歴史も含め、さまざまな人たちによって受け継がれていることを強く感じた。

100年前に九州大学で第4楽章の一部が演奏された年の11月には、東京音楽学校(現在の東京藝術大学)が日本で初めて全楽章演奏していて、第九が徐々に広まっていったことがうかがえる。

私(記者)は、恥ずかしながら今回の取材を通して初めて、交響曲第9番全楽章を聴いたが、合唱だけでなく、オーケストラの情熱的で重厚な響きにも圧倒された。

ちなみになぜ日本では年末に第九が演奏されるのか。

西洋音楽史が専門の東京経済大学の久保田慶一客員教授に話を聞いた。

久保田客員教授によると、欧米などでは、例えばドイツで冷戦が終わって統一されたときに第九が演奏されるように非常にイベント性が高いという。

毎年恒例で演奏される曲という印象ではないそうだ。

ところが日本では早くて11月ごろから第九が演奏される。

終戦後、12月にNHK交響楽団が演奏するようになったことが1つのきっかけだとされ、さらに大人数の合唱団がいることから、その家族などがチケットを購入し、オーケストラにとっては“餅代稼ぎ”となるということが通説とされている。

久保田客員教授は、さらにそれだけが理由ではないと語る。

年末を迎えることで1年の厄よけ、新年に向けてリセットしようという、日本人が持っているある種の“年末意識”に第九がマッチしたのではないかと指摘する。

第九を聞くことで1年の区切りを迎える、ある意味で社会の歯車として機能しているのではないかと言うのだ。

そこには、第九の最後の“歓喜の歌”での盛り上がり、壮大な規模の演奏が、聴く人、そして演奏する人にも満足感を与えていると分析する。

日本と第九の歴史は100年余りだが、特別な存在となっていることを改めて感じた。

多くの人たちが歴史の中で大切にしてきたからこそ、これからも歌い継がれる第九とのつながりを今後も取材していきたい。

(2024年6月9日 おはよう日本「サイカル研究室」で放送)
科学文化部 記者
堀川 雄太郎
2014年入局。山形局、鹿児島局を経て2022年から科学文化部で出版や将棋などの文化取材を担当。