作家の故 宗田理さん みずからの戦争体験伝える草稿発見

「ぼくらの七日間戦争」などの作品で知られ、4月、95歳で亡くなった作家の宗田理さんが、大学生時代、みずからの戦争体験をもとに学徒動員で戦争に翻弄される若者たちを描いた映画のシナリオの草稿が見つかりました。
表現にこだわり何度も手直しした跡が残されていて、遺族は「戦争で大人の言うことを聞いて自分の命を投げだそうとさせられた悔しさが作家活動の原点になっている」と話しています。

宗田理さんは、17歳の時に終戦を迎え、その後、編集者などを経て51歳で作家デビューしました。

1985年には子どもたちが力を合わせて大人たちと戦う「ぼくらの七日間戦争」がベストセラーとなり、その後もおよそ40年にわたって「ぼくら」シリーズとして50作以上を発表し、累計で2000万部をこえる人気作となっています。

その宗田さんが日本大学で映画を学んでいた大学3年生のときに執筆したシナリオの手書きの草稿が名古屋市の自宅で見つかりました。

「雲の涯」(くものはて)という作品は、学徒動員で戦争に翻弄される若者たちを描いたもので当時、大学内の文芸誌に掲載され、その後、空襲の経験者などへの聞き取りを重ねておよそ40年後に作品をもとにした小説も発表しました。

作品には
▽学徒動員で鉄工所での魚雷作りを命じられ
▽戦争末期には本土決戦に備えて爆弾を持って相手に飛び込む特攻訓練を指示された宗田さん自身の体験もエピソードとして盛り込まれています。

草稿の空襲の場面には加筆した跡が多くみられるほか、大人たちが命令する口調や学徒が発することばは何度も手直しされ生々しい表現にこだわって執筆していったことが見て取れます。

宗田さんの次男の律さんは「作品ではいろんなことを言う大人たちが生々しく描かれている一方、学徒たちはお国のためにという思いが強く『負けるわけない』と言いながら日々働いている。『お国のために死ね』と言っていた人たちが戦後『アメリカはすばらしい国だ』と言いだしたことに対して信用できないという思いが強かったのだと思う。大人の言うことを聞いて自分の命を投げだそうとさせられた悔しさが、作家活動の原点になっている」と話していました。

“子どもに寄り添った”宗田さんの作品

宗田さんの作品はおよそ40年にわたって子どもたちを魅了し、理不尽な大人たちに負けない作品のキャラクターの姿は読者を励まし続けてきました。

名古屋市の文化施設「文化のみち二葉館」はこれまで宗田さんの企画展を開催するなど交流があり、4月、宗田さんが亡くなったあと追悼展を開いています。

会場には「ぼくら」シリーズなどおよそ150点の作品やこれまでの経歴をまとめたパネルなどが展示され、小学生から70代まで幅広い世代のファンが訪れているということです。

館長の緒方綾子さんは「長く活動されていたのでファン層が広く、子どもたちからは『自分たちが思ってることを作品にしてもらえるのでスカッとする』というような感想が多いです」と話しました。

また生前、宗田さんと交わした会話を振り返り「『大人がすべて正しいわけではない』『悪い大人をやっつけろ』というのがすべてのシリーズのテーマだと思いますが、宗田さんは『子どもは子どもではないんだ。子どもは小さな大人でもある。だから作品を書く時も子どもだからこの程度でいいんだというふうに思ったことは一度もない。子どもに寄り添ってなかったら子どもからの共感を得られない』とおっしゃっていました」と話していました。

緒方さんは去年、宗田さんに会ったのが最後だったということで「『まだ頑張って書いてる。次の作品頑張ってる』『アイデアが途切れることはない』というようなことをおっしゃっていました。書きたいものはたくさんあったと思います」とその死を惜しんでいました。

出版社には宗田さんへ子どもたちからメッセージ

一方、「ぼくら」シリーズを刊行する出版社には亡くなった宗田さんへ子どもたちからメッセージが送られてきています。

「登場人物たちの行動に勇気をもらっていました」とか「宗田理先生の本に出会って、本の楽しさを知り、友情を知り、悪を知り、死について考える機会を持ちました」といった声が寄せられているということです。

宗田作品“背景にはみずからの戦争体験と大人への憤り”

「ぼくらの七日間戦争」など宗田理さんのシリーズの作品は自分の価値観を押しつけ間違いを認めない大人たちを子どもたちがいたずらをしかけてやっつけるという痛快さが人気ですが、その背景にはみずからの戦争体験と大人たちへの憤りがあります。

宗田さんは8歳の時に父親を亡くし、現在の愛知県西尾市に移り住みました。商業学校に進学後は太平洋戦争の開戦に伴い、学徒動員で鉄工所での魚雷作りを命じられ、戦争末期には本土決戦に備えて爆弾を持って敵のもとへ飛び込む特攻訓練を行うよう指示されたと言います。

戦争が終わると子どもたちを戦争に巻き込んだ大人たちが態度を一変させ、アメリカにすり寄るような行動を見せたことに強い憤りを感じ、それが理不尽な大人たちをいたずらで懲らしめるという「ぼくら」シリーズにつながっていったということです。

宗田さんの次男の律さんは「悪い大人たちを懲らしめるという、それは父なりのこだわりなんですけど、ただ暴力に訴えるのではなくて、いたずらでからかうみたいにやっつけるというのがすごくこだわっていたところでした。あまり殴ったりといったことはせずにですね」と話していました。

子どもたちを苦しめる戦争を二度と起こしてはならないと、宗田さんは「ぼくら」シリーズとは別に戦争をテーマにした作品も執筆してきました。

今回、草稿が見つかった学生時代の映画のシナリオ「雲の涯」はその後、愛知県豊川市の「豊川海軍工廠」で終戦直前の1945年8月7日に450人以上の学徒が犠牲となった空襲の経験者などから聞き取りを重ねた内容なども盛り込んで1991年に「雲の涯 中学生の太平洋戦争」というタイトルの小説として発表されています。

律さんによりますと、宗田さんはロシアによるウクライナへの軍事侵攻やイスラエル軍とイスラム組織ハマスの戦闘で子どもたちが犠牲となっていることに胸を痛めていたということで「もともと非常に前向きな性格ですが、ここ2、3年は『これからの将来が心配だ』とよく言っていました。子どもたちの未来が暗いものになってはいけないというすごく強い思いを持っていて、そのために戦争のむごさだとかつらさみたいなものは自身が経験しているだけに伝えられるものがあると話していました。大人の言うことが全部正しいわけではなく、自分たちの頭で考えて行動してほしいと伝えようとしていました」と話していました。