17年越しのリング

17年越しのリング
40歳を過ぎて期せずしてプロへの道がひらけた格闘家の男性が沖縄にいます。

家族や仲間に支えられ、一度はあきらめた夢の舞台への挑戦にカメラを向けました。

(沖縄放送局カメラマン 木村祥太)
動画はこちらから↓↓↓

41歳の格闘家

取材したのは格闘家の小生(おの)隆弘さん(41)。
沖縄県名護市でジムを経営し、同じく格闘家の妻、由紀さんと二人で幅広い世代の人たちを指導しています。

「おいしい食べ物を食べている時のように」格闘技が好きだという小生さん。

きっかけは生まれ育った福島県で中学生時代にテレビで見た華やかで迫力のある試合でした。

格闘技の魅力にとりつかれレスリング部に入部。高校では国体にも出場しました。
卒業後は、レスリングで培った組技の技術を生かせると考え、キックやパンチでの打撃、関節技など、さまざまな要素を持つ総合格闘技「修斗」への転向を決意した小生さん。

上京し、「プロシューター」としてリングに立つことを目指しました。
(※シューター=修斗の選手の呼び方)
当初は寮完備のふぐ料理店で働きましたが、店長も任されるなど仕事面がどんどん充実していく一方で、思うように練習時間がとれない日々が続きました。

「このままでは東京に来た意味がない」

23歳の時に退職を決断します。

夜にも練習時間を確保できる仕事に変え競技に没頭。

必ずプロになると覚悟を固めました。
小生隆弘さん
「その当時に買ったグローブですね。お金がなかったですけど、これだけは買いたいと思って。プロになって世界チャンピオンになるというのが生きる目標でした」

デビューは目の前、しかし…

職場も変え、格闘技中心の生活が実り、24歳でアマチュアデビューが決まりました。しかし、そのデビュー戦に向けた検査で人生が一変しました。

脳の検査で異常が見つかったのです。
受けた診断は「くも膜のう胞」。

脳を包んでいるくも膜の一部が袋状になり、中に脳脊髄液がたまってしまう病気で、生まれたときからあったことがわかりました。

くも膜のう胞は痛みなどの症状がない場合が多く、小生さんもまったく気がついていませんでした。

一般的に、症状がない場合、日常生活に支障はなく、学校の体育の授業やスポーツの制限などもない病気ですが、頭を強く打つことが多い競技は避けるべきだとされています。小生さんも医師から、頭への打撃を伴う総合格闘技を続けるのは危険だと告げられました。

アマチュアデビュー戦の直前、突然、選手生命を絶たれることになってしまったのです。
小生さん
「(医師の宣告に)え?何を言っているのかな?と。自分はプロになりたくてやっているんです。最初の仕事も辞めて臨んでいるんですと泣きながら医者に言いました。目の前が真っ暗でした」
格闘技ができない、もどかしさとむなしさ。ジムに行っても仲間の顔に浮かぶのは同情するような表情でした。逃げ出すように兄が農業を営む沖縄に移り住みました。

格闘技と距離を置く生活を送りますが、あのグローブは捨てられずにいました。
小生さん
「未練かもしれないですね。未練があって捨てるに捨てられず」

それでも、つながり続けた

そんな沖縄での暮らしが変わるきっかけとなったのが、かつての恩師との再会でした。移り住んで半年ほどたったころでした。

プロを目指してトレーニングに励んでいた時代に東京で指導してくれた松根良太さん(42)。
世界王者まで上り詰めた実力者で、レスリングから総合格闘技に転向したばかりの小生さんに一から技をたたき込んでくれた人でした。

沖縄県出身の松根さんが地元で格闘技の大会を開いたことをきっかけに再会した2人。松根さんは小生さんにこんなアドバイスを送りました。

「選手以外にも格闘技に関わる道はあるんじゃないか?」
松根良太さん
「彼はチャレンジすることすらできなかった。その部分ではすごくつらい思いをしたと思います。おそらく心のどこかに穴があいたまま人生を続けていたと思うんです。ならば新たな道としてレフェリーや裏方でもいいんじゃないかと提案しました」
背中を押され、再び格闘技に向き合う気持ちを取り戻した小生さんはレフェリーとしてリングに立つことにしました。
アマチュアからプロまで100試合以上で実績を積み、選手たちから信頼されるレフェリーに成長しました。

さらに、格闘技の社会人サークルにも参加し、初心者への指導も行うようになりました。

このときに出会ったのが、同じサークルにいた妻の由紀さんでした。
28歳で一念発起し、憧れていた格闘技の世界に挑戦した由紀さん。めきめき上達し、寝技を主体とする競技で好成績を収め、5年前の2019年には総合格闘技のプロ選手になりました。

共に格闘技に真剣に取り組む中で惹かれ合った2人は2015年に結婚。地方でも格闘技に挑戦し、魅力を感じてもらいたいとジムを設立しました。
「親子柔術」や女性限定のクラスも開くなど、いまでは4歳から60歳の幅広い年代の人が集う場所となっています。

運命を変えた 驚きの事実

格闘技と向き合ってきた2人。このまま二人三脚でジムを発展させていく人生だと思っていた去年、小生さんに再び大きな転機が訪れます。

あるとき知り合いから、同じ病気の格闘家が医師の助言を受けながら競技を続けているという話を聞き、改めて検査を受けてみることにしたのです。選手としての道は諦めていたため、それまで定期的な検査は受けてきませんでした。

検査結果は衝撃的でした。

「くも膜のう胞」による異常がきれいになくなっていたのです。
医師からは打撃を伴う格闘技の実戦に復帰しても問題はないと診断されました。
由紀さん
「電話で話ながら“えっ”となって、涙が止まらなくなっちゃって。今までずっと我慢していたものだったから」
総合格闘家としてのリング上の真剣勝負をあきらめてから17年。

年齢は41歳に達していた小生さんですが、不思議と復帰に迷いはありませんでした。
小生さん
「医師からは止める理由はないよと言われて、本当にスッと自分の中で“やるんだな俺、総合格闘技まだやるんだな”というのが1番最初に浮かびました」
指導者として鍛錬は怠らなかった小生さん。年齢による衰えは否めませんでしたが、それでも失われた時間を取り戻すように、実戦の場で快進撃を見せます。

去年8月のアマチュア関東選手権で準優勝し、その後の全日本選手権でも好成績を挙げ、ついにプロ選手としての資格を獲得しました。

デビュー戦はことし4月14日。

試合が決まり、乗り越えなければならないのが減量でした。
フライ級の制限体重は56.7キロ以下。6キロ以上減らす必要がありました。

体重を減らすには大量の汗をかくことが必要ですが、小生さんは汗をかきにくい体質です。

さらに発汗に効果があるおかゆが大の苦手。

過酷な減量を妻の由紀さんが支えます。

少しでもおかゆが食べられるよう、牛肉やトマトなどを入れるなど、好きな味付けで出し続けました。
プロの夢を思わぬ形で断たれながらも、格闘技に関わり続けてきた小生さんの挑戦を一番近くで見守ってきたのは由紀さんでした。
由紀さん
「彼はずっと後ろからいろんな人を支えてきていたので。今度は自分が1番前に立つ時なので、そこは本当に全力で楽しんでほしい」
小生さん
「本当に周りに恵まれているなという感じですね。自分はもう大丈夫だから、もうこうやってやれるようになったよというのは見せたいなと思いますね。絶対に勝つつもりでやります」

夢の舞台で

そして迎えた試合当日。

会場にはジムに通う子どもたちが。

控え室でテーピングを巻くのは、由紀さんです。
由紀さん
「練習しました。いつも巻いてもらう方だったので」
41歳でたどりついたプロのリング。

相手は22歳年下の19歳。彼にとってもデビュー戦です。
小生さんは、直前の練習でろっ骨を痛めたため、得意の寝技は封じ、打撃中心で攻めます。

声援と、鍛え上げた肉体がぶつかり合う音が会場に響きます。
そして、1ラウンド終了間際。

小生さんが膝蹴りでダウンを奪うと、一気にパウンド(寝技で抑え込んだ上で行うパンチ攻撃)。
「いけ!」「止めないで打て!」セコンドの松根さんと由紀さんが声を張り上げた直後、試合終了のゴングが鳴りました。

1ラウンド4分51秒、TKO(テクニカルノックアウト)の完勝でした。
小生さん
「本当にやめないで良かったなと。辛かったことばかりだったので、正直。プロの舞台に立ってやれるなんて思ってもみなかったので。周りの人に伝え切れないですけど、ありきたりですけど、ありがとうしか言えない。声を大にしてありがとうございます、ですね」
試合の後、41歳の新人は、観衆に向かい、少し声を震わせながら、こう自己紹介しました。
「プロシューターの小生隆弘です」

取材を終えて

ジムでカメラを向けた小生さんは、いつも指導者として優しい笑顔で子どもたちに寄り添っていました。

それがリング上では一変し、格闘家としての厳しい表情になっているのがレンズ越しに強く印象に残りました。

格闘技への熱い思いや、夫婦のこれまでの道のりを見てきただけに、試合終了のゴングが鳴り、由紀さんが小生さんに抱きついた瞬間は撮影しながら涙が止まりませんでした。

挑戦することの大切さを改めて感じる取材でした。

(4月19日「おきなわHOTeye」で放送)
沖縄放送局コンテンツセンターカメラマン
木村祥太
2020年入局
広島局を経て2023年から沖縄局。スポーツや沖縄ならではの離島の話題などを取材。今年からは潜水取材にも挑戦している。