侵攻続くウクライナで広がる精子凍結 子ども産まれるケースも

侵攻続くウクライナで広がる精子凍結 子ども産まれるケースも
ロシアによる軍事侵攻で多くの犠牲者が出ているウクライナで、命をめぐってある動きが少しずつ広がっています。

兵士の間で精子を凍結し、保存する人が増えているのです。中には、これらの精子を使って、妻が妊娠するケースも出始めています。

なぜ、体外受精による出産に踏み切るのか。

そこにあったのは、戦時下での切実な願いでした。

「生きたい、家族を持ちたい、何かを残したい」

(World News部記者 古山彰子)

精子の凍結保存が増えている

ウクライナの首都キーウにある不妊治療を専門とするクリニック。2022年2月のロシアによる軍事侵攻が始まって以降、治療ではない形で、精子を凍結保存する希望が相次いでいます。

夫が兵士として戦地へ赴くカップルが、精子の凍結という手段を選んでいるのです。

クリニックではこうした精子や受精卵をマイナス200度近くで保管。ミサイルなどの攻撃に備えて、クリニックの中でも特に建物の奥深く、最も安全だと考えられる部屋で管理しています。
侵攻開始の3か月後からは、希望する兵士には、凍結保存するための費用を無料にする対応をとっています。

現地メディアによりますと、ロシアによる軍事侵攻後、こうしたクリニックが増えたということです。

子どもを残したい… その一念で

ウクライナ兵の夫婦は、どのような思いで精子凍結に踏み切っているのでしょうか。
ウクライナ中部の町に住む兵士のオレクシーさんと妻のオレーナさん。

オレクシーさんは軍事侵攻が始まった時、自宅を離れて任務地のキーウに派遣されていました。2人が再会できたのは、侵攻開始からおよそ3週間後だったといいます。
夫・オレクシーさん
「非常に激しい戦闘で最初の1週間のことはほとんど覚えていません。睡眠も休みもなかったからだと思います。自分がどこにいるのか、自分が何者なのか、何が起きているのかさえ理解できませんでした。それに、明日生きているかどうか、5分後に生きているのかどうか、先が見えない不安は大きなストレスでした」
妻・オレーナさん
「何が起こるかも分からず、怖かったです。夫もおらず、身近に誰もいない町に私ひとり取り残されたんです。戦争をきっかけに、これまでとはまったく違う生き方をしたいと思うようになりました。生きたい、家族を持ちたい、何かを残したいと考えるようになったんです」

そばにいる間に 体外受精を決断

2人は、キーウにあるクリニックが、自分たちのようなカップルに精子凍結の経済的な支援をしていることを知り、すぐに申し込みました。
このクリニックによると、こうした人たちの多くは、前線に派遣されている間、精子を凍結保存したままにしているといいます。

いつ、再び離ればなれになるかわからないなか、2人は決断しました。

「一刻も早くわが子を授かりたい」

凍結した精子を使ってすぐに体外受精に踏み切ることにしたのです。

2人が暮らす町からキーウのクリニックまでは車で片道数時間かかりますが、何度も往復して、精子凍結、採卵、体外受精を行いました。

「ここで生きる」覚悟… 授かった2つの命

戦時下のウクライナでは、多くの人たちが国内外で避難生活を送っています。その多くは女性や子どもです。おととしの軍事侵攻直後、オレーナさん自身も、親戚や友人たちから「一緒に避難しよう」と何度も声をかけられたといいます。

「安全な場所に避難したほうがいいのか」。初めの頃は心が揺れたこともありましたが、オレーナさんは覚悟を決めたといいます。

「ここにとどまり、夫との間に子どもを授かって、育てる」

その後、妊娠したオレーナさん。軍事侵攻開始から1年半が過ぎた2023年9月、帝王切開で、双子の男の子を出産しました。
オレーナさん
「クリニックの支援は信じられないくらい素晴らしかったです。医師の皆さんには本当に感謝しています」
オレクシーさん
「今、私たちは家の中で子どもたちの笑い声や泣き声、叫び声を聞くことができます。
私たちが望んでいたのはそれだけなので、前向きで温かい気持ちしかありません」

法整備で「精子凍結」を後押し

父親となり、わが子を無事に抱くことができたオレクシーさん。しかし、ウクライナ兵の死者数が3万人を超えるともされるなか、凍結した精子を残し、戦闘で亡くなる兵士もいるのが現実です。

国も動き始めています。ウクライナ議会は2023年秋、兵士たちの精子の凍結保存を補助する法案を可決しました。

さらに、2024年2月には、兵士が死亡した後、クリニックが凍結された精子を処分せざるを得なかった法律を改正。死後3年まで、国の負担で保管できるようにしました。

これによって、死亡した兵士が生前凍結した精子を使った体外受精の実現に門戸が開かれたのです。

さらに亡くなった兵士のパートナーが望めば、自費でさらに長い期間、精子を保管することも可能だといいます。

なぜ法整備を?ウクライナ与党議員に聞いた

こうした法整備の背景には何があるのでしょうか。

ウクライナの与党議員で、公衆衛生の委員会の副委員長を務めるオクサナ・ドミトリエワ議員に話を聞きました。
ドミトリエワ議員によると、戦争で夫を亡くしたウクライナの女性300人を対象にした最近の調査で80%近くが、もしも生前に凍結した夫の精子があれば、子どもを作りたかったと答えたといいます。

ドミトリエワ議員は、法改正によって、夫を失った女性たちに考える猶予が与えられると指摘します。
オクサナ・ドミトリエワ議員
「私たちは、女性たちが兵士の夫の死後すぐに、生前凍結した精子を使いたいという気持ちになれないかもしれないということを理解しなければなりません。
夫が亡くなった後、女性たちは大きなストレスを感じているのです。でも今後は、望めば、1年後、あるいは2年後に、凍結した精子を使うことができます。
そのころには、彼女たちはもっと良い精神状態になっているかもしれません。子どもがほしいと思うかもしれませんし、1人で育てなければならないことも理解するでしょう」

軍事侵攻の暗い影

ウクライナではロシアによる軍事侵攻以前から人口減少が続いていました。

2021年の合計特殊出生率は1.2。さらに軍事侵攻によって、多くの男性が兵士として戦地に赴き、犠牲者が増え続けるなか、人口減少の懸念が深まっています。

ウクライナ科学アカデミー人口・社会学研究所は、軍事侵攻が続けば、現在4000万人余りの人口が2030年には10%以上減り、3500万人にまで減少すると推計しています。

医療の力で兵士の支援を

双子の男の子を授かったオレクシーさんとオレーナさんが体外受精を行ったクリニックでは、これまでに100人以上の兵士が凍結した精子を保管しています。

みずからの意思でクリニックに足を運んだ兵士もいれば、家族に勧められて来た若い兵士もいたといいます。

オレクシーさんたちの担当医のオレクサンドル・ダリー医師は、これも国を守る兵士を支援する1つの形だと話します。
オレクサンドル・ダリ―医師
「兵士の支援は、さまざまな形でできます。軍服や装備品を提供するという支援もあれば、医療を提供するという手段もあります。私たち医師ができることは、ウクライナ人の遺伝子を守ることであり、私たちの助けが必要なのです」

取材後記

ウクライナの兵士の間で広がる精子凍結の動きについて、私は2023年2月にキーウで初めて取材しました。
今回、およそ10か月ぶりにキーウを訪れて取材を進めると、世論の高まりを受けて短期間で新たな法律が整備され、実際に子どもが産まれるケースも確認でき、そのニーズの高まりを強く実感しました。

戦地に赴く前に精子凍結を行う兵士たちは、自らの未来をどう描いているのか。実際に戦地でパートナーを失った人たちは、どのような決断を下すのか。戦時下に生きるウクライナの人たちが直面するこれらの問題を、これからも取材し、伝えていきます。
(2024年2月21日 NHK WORLD NEWSLINEで放送)
World News部 記者
古山 彰子
2011年入局 広島局 国際部 ヨーロッパ総局(パリ)を経て現職
現在は英語・フランス語放送のニュース制作・取材を担当