“国宝級” の絵が79年ぶりに日本に戻ってきた。その謎に迫る

“国宝級” の絵が79年ぶりに日本に戻ってきた。その謎に迫る
沖縄戦で失われ、79年ぶりに戻ってきた琉球王国の王の肖像画。

この「国宝級」の文化財が見つかったのは、アメリカ・ボストン近郊の住宅。

その屋根裏でした。

いつ、誰が、どうやって沖縄から持ち出したのか?

返還はなぜ実現したのか?

その謎に迫りました。

(沖縄放送局記者 高田和加子)

琉球国王の遺影“御後絵”

今回、見つかった「御後絵(おごえ)」は琉球王国時代に描かれた歴代の国王の肖像画です。
王を偲ぶ遺影として、琉球王府の絵師が当時の最高の技法を駆使して描いたと伝えられます。
絵の中心には儀式で使う豪奢な服を身にまとった王がひときわ大きく描かれ、その周囲を家臣が取り囲み、龍があしらわれた構図。

王の威光が強調されています。
およそ20点あったとされますが、沖縄戦ですべて失われ、戦前に撮影された一部の御後絵の白黒写真が残るのみでした。

今回、沖縄県に返還されたのは、1枚が3分割されているものも含め4点。
このうちの3枚は4代尚清王、13代尚敬王、18代尚育王とみられます。

戦後初めて現存が確認され、その鮮やかな色彩が明らかになりました。

沖縄戦で行方不明に

御後絵は戦前、首里城の近くにある旧王家・尚家の邸宅「中城御殿(なかぐすくうどぅん)」に安置されていました。

邸宅には代々受け継がれてきた宝物が数多く保管されていました。
1945年4月、アメリカ軍が沖縄本島に上陸。旧日本軍司令部壕がある首里に迫る中、アメリカ軍による猛攻撃で邸宅は全焼しました。

その翌日、旧日本軍から、機関銃陣地にするため屋敷を明け渡すよう命じられた使用人たちは、やむなく宝物(ほうもつ)を敷地内に分けて隠すことになりました。
この時、宝物を隠した1人が、手伝いのため邸宅に出入りしていた元教員の真栄平房敬さん(2015年死去)でした。

一緒に作業にあたった人全員が、その後、戦火で命を落としましたが、真栄平さんは唯一、生き残りました。

生前の2007年、NHKの取材に応じ、排水路や高台の岩陰など7か所に宝物を避難させたときのことを詳細に証言していました。
真栄平房敬さん
「ちょうど、ここ、これですね。1メートル四方くらい、深さは、私の胸くらいのところに王冠とか“おもろさうし”(琉球最古の歌謡集)を隠したんですよ」
終戦直後の8月、隠した宝物が無事か、気がかりだった真栄平さんは、捕虜収容所で親しくなったアメリカ兵に頼み込み、アメリカ軍しか立ち入れなかった首里に連れて行ってもらいます。

首里城を含む建物は破壊し尽くされ、焼け野原となっていました。

このとき邸宅の焼け跡を車上からしか見ることができませんでしたが、王冠などを隠した排水路が空っぽになっているのが見え、衝撃を受けました。

そして、収容所から解放された2か月後に再び訪れると、御後絵などを隠していた高台の岩陰には何も残されていませんでした。
真栄平さん
「ここに見に来たら何もない、空っぽで大変がっかりした。ここは艦砲(射撃)も直撃を受けていない。人が盗まなければ宝物も残っている場所なんですよ」

琉球王国時代の文化財を取り戻したい

「焼失したのではない。持ち去られ、どこかにあるはずだ」

そう信じていた真栄平さんに、戦後8年がたった1953年、吉報がもたらされます。

屋敷の排水路に隠した「おもろさうし」など宝物の一部がアメリカで見つかり、沖縄に返還されたのです。
「すぐ近くに隠した他の宝物もアメリカに渡っているのではないか」

真栄平さんは、宝物の種類や形、隠し場所などを詳細に記した「捜索願」の書面を、アメリカ側に送って協力を依頼しました。
しかし、情報は得られませんでした。

それでも真栄平さんは、諦めませんでした。

80歳近くなった2000年には、アメリカを訪問して、FBIやインターポールなどに捜索への協力を要請します。

「九州沖縄サミット」が開かれ、日米両国で失われた文化財発見に向けた協力の気運が高まっていたことが、訪米の後押しになりました。

このとき、真栄平さんと共にアメリカに渡ったのが、県の元学芸員、萩尾俊章さんです。
何とかして琉球の宝を取り戻したいという、真栄平さんの強い熱意と迫力に心を打たれたと振り返ります。
萩尾俊章さん
「真栄平さんはご高齢なので、2週間の長旅で心配でしたが、シャキッとされていて、20歳ごろに見たものを本当に今あるかのように話されていました。すごい衝撃でした」
この訪米で発見に繋がるかもしれない、足がかりを得ます。

FBIの担当者から「盗難美術品リスト」への登録を勧められたのです。

担当者から「これからはインターネットの時代になる。リストに登録されれば、FBIのサイトでも広く呼びかけることができる」と説明を受けました。

萩尾さんは帰国後、さっそくリストへの登録に向けて動き始めます。
唯一の生き証人である真栄平さんの言葉を細部にわたって記録。
御後絵を含む13点の写真などもFBIに提出してリストへの登録にこぎ着けました。

ただ、手は尽くしたものの、それが実際に返還につながるのか、雲をつかむような話でした。
萩尾さん
「御後絵とか王冠は分かりやすいので、そのあたりを先に登録しました。ただ、個人などが所有している場合は、なかなか難しい。見つけるのは厳しいだろうなと思いながら、ずっと過ごしていました」

御後絵は屋根裏に 退役軍人の遺品整理で ただ…

事態が急展開したのは、リスト登録から実に20年あまりが経った2023年のことでした。

FBIに「盗難品リストに載っているものかも知れない」と連絡が入ったのです。

遺品整理をしていたアメリカの退役軍人の家族からでした。

ジェフリー・ケリー特別捜査官が駆けつけたのは、ボストン近郊にある住宅。

居間のテーブルに広げられた絵画の巻物を最初に見たときの興奮を、こう振り返ります。
FBIジェフリー・ケリー特別捜査官
「経年で損傷していたが、ひと目見て、とても価値のある特別なものだと分かった」
段ボールに入ったものも含めて20の品々。

これらは果たして本当にリストにある沖縄の文化財なのか。

捜査の手がかりになったのは、遺品とともに見つかった手紙です。

タイプライターで打たれた色あせた手紙に、名前はないものの、こんなことが書かれていました。
手紙の抜粋
「土産物を探す者たちが、廃墟を荒らし尽くした後だったが、がれきの下には、興味深い美術品がたくさん残っていた」

「沖縄から持ち帰った」
「沖縄最後の王の息子である尚男爵邸の廃墟で拾った」
遺品を残した退役軍人は、第2次世界大戦に従軍してはいましたが、沖縄には派兵されておらず、手紙の主でないことが分かりました。

手紙に記されていた数々の手がかりに手応えを得たFBIは、スミソニアン協会国立アジア美術館に鑑定を依頼します。

その結果、沖縄から持ち去られたものだと断定されました。

ただ、これらがどういう変遷を経てこの家にたどり着いたのかは、今も謎のままです。
FBI ケリー特別捜査官
「こういう何十年もたった“コールドケース”(未解決事件)は、盗難がいつ発生したのか、被害者さえ、わからないことはよくあるし、捜査をしても最後まで由来がわからないことも多く、謎は謎のまま残る。しかし、今回は手紙があったことが驚くべき点だった。親から子へ引き継がれるタイミングは、こうした盗難文化財の発見のチャンスになる。連絡をくれた家族には感謝しかない。沖縄県が今回の絵の返還を喜んでくれていることをうれしく思うし、返還を実現できたことを誇らしく思う」
太平洋戦争末期の地上戦で、歴史的な資料の多くが焼失した沖縄にとって、今回の返還は、たどれなかった歴史をたどる大きな手がかりになる可能性があります。

失われた「琉球の宝」を長年探し求めてきた萩尾さんは、今回の返還がさらなる返還につながることに期待を寄せています。
萩尾さん
「真栄平さんには“返ってきました”と伝えたい。喜んでいると思う。大きな宝が帰ってきたので、戦前の沖縄の工芸や絵画史も含めて研究がさらに進むと思う。沖縄戦では、貴重な文章や資料がほとんど焼けて、本来残っていたら、もっと知りうるものがたくさんあったはずだ。今後、復元や探究を進める上で、現物があるのとないのとでは雲泥の差なので、今回をきっかけに返還の動きが広がって原資料が戻ってきてほしい」
今回返還された御後絵などの文化財は、一部を除いて4月30日に報道関係者に公開されました。

沖縄県は、5月に専門家会議を設置して顔料などを詳しく分析し、修復方法の検討を進めることにしています。

※4月30日の沖縄県の報道公開に合わせ、一部を加筆しました。
(4月14日「ニュース7」で放送)
沖縄放送局記者
高田 和加子
2008年入局
2020年秋まで3年余、台湾で中台関係や日米台関係を取材