ばあちゃんの花が咲いた 焼け跡で見つけた希望

ばあちゃんの花が咲いた 焼け跡で見つけた希望
「ばあちゃんが咲かせてくれたのかな。ちゃんと生きていれば、また花は咲くよって」

あの元日の大地震で、自宅が全焼した夫婦。その約2か月後、92歳の母親を看取りました。

希望を失った2人。その後、前を向くきっかけをくれたのは、自宅の焼け跡で見つかった母親自慢の花々でした。

(能登半島地震取材班 盛岡放送局記者 梅澤美紀)

あの日から止まったまま

「まだ先のところは見えない状態。これからどうしていいのか分からない」

そう語る、福島義浩さん(62)と妻の裕見子さん(55)です。
2人の自宅があったのは、石川県輪島市の「朝市通り」のすぐ近く。

通りに海産物などを扱う露店が立ち並ぶ歴史ある朝市の風景は、輪島で生まれ育った2人にとって、生活の一部であり、ふるさとの自慢でした。
裕見子さん
「朝市は私たちにとって台所のような場所でした。野菜や魚を買ったり、そこで会った人と話したり。『きょうはいくらまけてもらった』みたいな話をして。それがいつもの生活でした」
しかし、そんな穏やかな日常は一瞬にして変わりました。

2024年1月1日午後4時10分。輪島を襲った大地震、そして大火災。
3日後、別々の避難先から自宅に戻って再会した義浩さんと裕見子さん。目にしたのは、見慣れた通りの一変した光景でした。

黒く焼け焦げた一帯、切れて垂れ下がった電線、つぶれた家々。住み慣れた自宅は、柱の1本も残らず焼き尽くされていました。
近所では亡くなった人もいました。
義浩さん
「少しでも前を向いて進んでいきたいけれど、先が全く見えない…」
裕見子さん
「現実なのか何なのか、みんなで泣きました。泣くしかなくて。1月1日から自分の気持ちは止まっているなって。きっと徐々に復旧に向けて進んでいるんでしょうけど、自分が変われていないのかな」

家に帰りたかった母

そんな2人に追い打ちをかけたのが、義浩さんの母・清美さん(92)の死でした。
地震が起きる1年前から、輪島市内の介護施設に入所していた清美さん。去年の年末からは体調を崩し、食事もとれない状態でした。

親族とも相談し、最期は清美さんを自宅で看取ろうと決めていた2人。年が明けたら、自宅に連れて帰ることにしていました。

しかし、地震によってその自宅は全焼。2人の願いは叶いませんでした。

そして、地震から2か月余りたった3月10日、清美さんは施設で最期を迎えました。2人が2次避難先から輪島市の仮設住宅に入居した矢先のことでした。

清美さんは施設に駆けつけた2人から「ありがとう」と声をかけられ、息を引き取ったといいます。

まだまだ多くの人が2次避難をしている状況。葬儀は親族だけが参加する家族葬にしました。葬儀を行った寺は倒壊の危険があるため、式も短時間で終えました。

地震さえ起きなければ、ばあちゃんは自宅に戻れたのに……。2人の無念な思いは募るばかりです。

「早く体調が良くなって、家に帰りたい」

清美さんが書き残した日記には、こうつづられていたといいます。
裕見子さん
「大好きな家に帰らせてあげることもできない。92年、頑張って生きて、本当はみんなに見送られたかっただろうに。それもできなくて、悪かったなって」

ばあちゃん自慢の庭

清美さんにとって、輪島の自宅は特別なものでした。

働き盛りの夫を早くに亡くした清美さん。夫と営んでいた輪島塗の箸に模様をつける「まき絵」の仕事に加えて、食品会社での仕事もかけもちして、女手一つで長女と義浩さんを育て上げました。
そんな清美さんの何よりの楽しみは、自宅の庭いじりでした。

季節ごとに花が咲き誇る自慢の庭。手入れを欠かさず、つえをつくようになっても、毎朝の草むしりは日課でした。

そして、朝市通りに向かう人たちとの何気ない会話を楽しんでいたといいます。
義浩さん
「庭の前を朝市のおばちゃんたちが毎朝6時ごろから準備のために行ったり来たりしていたから、いつもにぎやかでした。ばあちゃんはここで草をむしったり、朝市のおばちゃんと話したりしていました。『お花ください』って言う人に、花をプレゼントすることもありましたね」

自宅の焼け跡に通う日々

輪島市に戻れたとはいえ、いまは仮設住宅で暮らす2人。裕見子さんは20年以上働いていた店が被災し、仕事を失いました。

仮設住宅では、隣にどんな人が住んでいるのか分からないといいます。
この先どうなるのか見通しが立たない中、2人は変わり果てた自宅の焼け跡に通い続けています。

突然、失われた日常と見えない希望。そんな日々をなんとか払拭しようと、居ても立っても居られないのだといいます。
裕見子さん
「何もないのに、何かないかなって、なんとなく行ってしまう。小さな破片1つでも私たちにとっては思い出だから」

見つけた “ばあちゃんの花”

清美さんが亡くなって約1週間後。自宅の跡地を訪れていた裕見子さんが、庭のあった場所であるものを見つけました。ヒヤシンスのつぼみです。
葉の一部は黒く焦げていました。

土を掘って球根を取り出し、仮設住宅に持ち帰ったあと、焼け跡で見つけた湯飲みに水をはり、つけてみました。

すると翌日、ヒヤシンスは青いかれんな花を咲かせ始めました。
義浩さん
「炎のなかでよく耐えたなと」
裕見子さん
「うれしかった。ばあちゃんが咲かせてくれたのかな。『ちゃんと生きていれば、また花は咲くよ』って、励まされているような気がします」
2人にとって小さいながらも“希望”の光をみせてくれた、ばあちゃんのヒヤシンス。清美さんの遺影の前に飾りました。

これからも “希望”を探して

さらに義浩さんと裕見子さんは、自宅の跡地でのある変化に気付きました。

黒く焼け焦げた土に、わずかながらの草木が芽生え始めていたのです。そして、スイセンが黄色い花を、隣にはチューリップが葉を広げていました。

ばあちゃんの花だからきっと咲く。そう信じていた2人のさらなる希望となっています。
住み慣れた家。朝から庭いじりにいそしむばあちゃん。朝市のおばちゃんたちとの楽しげな会話。そして、かれんな花々。

失われたかつての日常が、そこにあると2人は信じています。

だからこそ、きょうも、これからも、自宅の跡地に通い続けるつもりです。
義浩さん
「何かを探していつも来てしまいます。何もないけど、今も昔も大切な場所です。たくさんの思い出があるので」
裕見子さん
「増える緑や花をみると、頑張っているよ、頑張れよって言われているような感じがします。いまはない日常がそこだけに残っている気がして。やっぱり日常や普通が一番なんやなって。毎日、行って確かめないと。1日1回ずつ、希望をもらってきます」

取材後記

夫婦を取材したのは3月下旬。4月に入り、2人から写真が送られてきました。
写っていたのは、淡いピンク色の花をつけた1輪のチューリップ。清美さんの植えた花が、また咲いたのです。

「チューリップに励まされています。まだまだ不安しかないですが、時間と共にやっていくしかないです」というメッセージも添えられていました。

地震から3か月余りがたち、少しずつ復旧が進む被災地。しかし、朝市通りの周辺は、一見すると時が止まったような錯覚さえ覚えるほど、あの日のままです。

そんななかでも、芽生える草木や花々に希望を見いだし、前を向こうとする義浩さんと裕見子さん。いまはない「あの日常」を一日でも早く取り戻してほしい、そう強く思いました。

(3月26日「ニュース7」などで放送)
盛岡放送局 釜石支局記者
梅澤美紀
2020年入局
東日本大震災から13年を経た被災地を取材