リニアめぐり急展開 国 JR 静岡県 3者の思惑が交錯した舞台裏

リニアめぐり急展開 国 JR 静岡県 3者の思惑が交錯した舞台裏
「ことし6月議会をもって職を辞そうと思う」

唐突な辞意表明に記者団は一瞬、静まり返った。静岡県の川勝知事は「質問はないのか」というように何度かうなずくと、詳しい説明を求めて騒然とする記者たちを振り切って知事室に戻り、いつも開放されている扉は閉められた。

この日、川勝知事は待ち構える報道陣を避けるように、裏階段を使って県庁をあとにした。翌日の会見で川勝氏が辞職を決断した理由の1つに挙げたのは「リニアの開業延期」。

この5日前、JR東海が目指してきた2027年開業の断念を表明したばかりだった。リニアの開業時期が絡む形での急展開はなぜ起きたのか。ビッグプロジェクトをとりまく国土交通省、JR東海、静岡県。3者の思惑が交錯した舞台裏に迫った。
(経済部記者 米田亘/名古屋局記者 玉田佳/静岡局記者 仲田萌重子)

「2027年」をめぐる攻防

東京・品川から名古屋に至るリニアのルートは、険しい南アルプスの山々を貫くトンネルが静岡県の北端を通る。

全体から見ればごく一部の区間だが、たとえ一部でも工事ができなければ開通は不可能だ。
静岡県での工事契約締結から6年余り。川勝知事が着工を認めず、静岡では工事に着手できない状態が続いている。

しかし、JR東海は目標としてきた2027年開業が困難になったことを認めつつも、かたくなに「2027年開業」の旗を掲げ続けてきた。それはなぜか。

関係者によると、国土交通省がJR東海に繰り返し“待った”をかけてきたからだという。その理由の1つは「沿線自治体への配慮だった」と打ち明けた。
政府関係者
「2027年まで時間がある中で、早々と白旗を揚げるべきではない。沿線自治体は2027年開業を前提にまちづくりを計画している。地元の首長が市民や事業者などから『いったいどうなるんだ』とプレッシャーを受けかねない」
リニアはJR東海が自己資金で建設を進める「民間事業」だが、国土交通大臣が工事計画を認可し、財政投融資も活用する「国家的プロジェクト」でもある。
川勝知事が異を唱え、工事が遅れているとしても、そう簡単に延期を表明させるわけにはいかなかった。だが、JR側はそれとは別の事情を抱えていた。工事契約の問題だ。

この春、新たな駅や高架橋などの工事契約の締結に向け準備を始めるタイミングを迎えていた。

2027年の旗を掲げ続ける以上、当然、工事は2027年までに完了させねばならない。だが、2027年がすでに現実的でないことは周知の事実だった。

「建設費が高騰する中、2027年開業を前提に工事を急げばよけいな経費がかかる」「ゆとりある工期で契約を結ぶための説明が必要だ」

私たちはJR東海の社内でそんな声が上がっていることをつかんでいた。

新たな工事契約に定められた工期が2027年を突き抜ければ、それは「2027年開業を諦めたこと」を意味する。開業目標の断念は大きなニュースになるだろうと踏んでいた。

だが、本当に知りたいのは新たな開業時期の見通しだった。JR東海関係者の取材を重ねたが「それを打ち出せるのは静岡の問題が解決した時」と、公式見解が聞こえてくるばかりだった。

カギを握っていた川勝知事

納得感はあった。静岡が着工を認めた時から工事を開始するため、新たな開業時期は静岡県の態度次第だからだ。

カギを握るのはリニアに異を唱えてきた静岡県の川勝知事。

早稲田大学政治経済学部の教授や、浜松市にある静岡文化芸術大学の学長などを務めたあと、2009年の静岡県知事選挙で初当選。現在4期目。国や大企業に対しても歯に衣着せぬ発言で“戦う知事”として県民から圧倒的な支持を得た。
リニアに対しては、南アルプスのトンネル工事によって、静岡県内を流れる大井川の水量の減少や、生態系への影響などが懸念されるとして、3期目から反対の姿勢を示し始め、リニアは一気に政治的イシューに浮上した。

2020年、JR東海の金子慎社長(当時)は川勝知事と初めて会談。

本格的な工事に向けて準備作業を開始したいと理解を求めたが、川勝知事は応じなかった。
国は両者の仲裁に入る形で有識者会議を設置。JR東海は静岡県外に流れ出る大井川の水をすべて戻す「全量戻し」を実現するため、上流部の田代ダムの取水量を抑える案を提示し、流域自治体で作る協議会もこの案を了承した。

外堀は埋まりつつあったが、川勝知事は生物多様性や工事の際の発生土置き場など30項目について「今後も議論する必要がある」と粘った。終わりの見えないやりとりが続く中、ある関係者は「何年開業かは川勝さんのみぞ知る世界だ」と語った。

JR東海を「2027年開業断念」に追い込んだ形となれば、それは川勝知事の政治的成果になるのだろうか。

「2034年以降」で駆け引きが

「静岡工区が開業の遅れに直結している。残念ながら、2027年の開業は実現できる状況にはない」

3月29日、JR東海の丹羽俊介社長は、国の有識者会議でこのように明言。2027年の開業を断念したことを明らかにした。

会議の座長で、中日本高速道路の会長などを務め、川勝知事とも旧知の仲である矢野弘典氏が、JR東海に対し、開業に向けた事業計画を時系列で示すよう求めたことへの「回答」だった。
ここまでは想定内だったが、WEBで会議を傍聴していた私たちが驚いたのは、会社側(澤田尚夫常務)が「静岡工区では着手から開業まで10年を要すると考えていた。より短い工期を見通せる材料は見つからないのが実情」と踏み込んだ時だった。

仮に今すぐに工事に着手できたとしても、開業が2034年以降になることを示唆する発言だったからだ。

会議終了後の会見では、この点に記者の質問が集中した。
JR東海は「報道機関が数字を足し上げて見通しを計算することは否定はしない」と微妙な表現で「2034年以降」を容認。一方の国土交通省は「静岡工区の着手の見込みが立たず、現時点で新たな開業時期を見通すことはできない」と完全否定した。

この時のことを、政府関係者は「次なる開業の見通しを数字で示すことは、大幅な遅れを分かりやすく国民に知らせる形になり、落胆が大きいと考えた」と振り返った。

一方、国からストップをかけられ、表向きは「2034年以降」を口にしなかったJR東海だが、関係者によると「2027年を超える、ゆとりある工事契約」を結ぶためにも、開業時期が大幅に遅れることをアナウンスしたいというのが本音だったという。

この時のことを、JR東海幹部は「2027年完了予定という工事契約を結び続けるかぎり、間に合わせるための人材投入にばく大なお金がかかる。今は建設業界の働き方改革もあって、工事を急ぐのは本当にコストがかかって大変だ。一刻も早く開業が遅れることを表に出したかった」と解説した。

この日を境に「リニア開業は2034年以降」との相場観が作られることになる。

川勝知事 またも失言

リニア開業が延期され、成果を得たかに思われた川勝知事。しかし4月1日に驚きの発言が飛び込んできた。
川勝知事が新人職員への訓示の中で「県庁というのは別の言葉で言うとシンクタンクです。毎日野菜を売ったり、牛の世話をしたり物を作ったりとかと違って、基本的に皆さんは頭脳・知性の高い方たちです」と語ったのだ。

2021年の選挙の応援演説で、御殿場市の特産について「コシヒカリしかない」と述べた「コシヒカリ発言」など失言が多かった川勝知事。職業差別と捉えられかねない今回の発言が伝わると、県庁には「許せない」「農業をばかにしている」といった批判や苦情が殺到。川勝知事は「職業差別はない。職業に、こちらは尊い、こちらは卑しいとか全くない。職員への励ましの言葉がこんなことになった」と釈明。発言を撤回したが、あとの祭りだった。

辞職の意向を表明した翌日、改めて会見を開いた川勝知事は、辞職を決断した理由について「みずからの失言」に加え、やはり「リニアの開業延期」を挙げた。

川勝知事は「JR東海は事業計画にずっと固執されてきたが、事業計画を根本的に書き直したものが出た。これで私の手をもう離れた。リニアの問題が一区切りというか、立ち止まって考えざるをえない状況に立ち至り、従来と全く違う次元に来た」と成果を強調した。

川勝知事は静岡特産の茶の生産者などが流域に多く暮らす大井川の水を「命の水」と称し、1滴の水も譲らない強気の姿勢でJR東海と対じしてきた。

いわば農業の生命線とも言える「水」を守ったと胸を張ったわけだが、JA静岡中央会の鈴木政成会長は「農業者の心を踏みにじる発言をしたのに、辞職の理由がリニア問題で区切りを迎えたというのは、さらに侮辱された気がする」と突き放した。

リニア開業 知事交代でどうなる?

川勝知事は4月10日に退職届を提出した。

ある静岡県の幹部は「川勝知事から本気でリニアを着工させたいという思いを感じたことは、これまで一度もない。結局は失言が理由で辞めるが、それをリニア問題にすり替え、静岡工区の着工を延期させ続けることを矢野座長に託そうとしたのではないか」との見方を示した。

リニア推進の関係者の間でも「次の知事が川勝氏と同じ路線をとる可能性もある。これで急に進展するなんていう楽観的な見通しは持っていない」という冷静な声が聞かれる。
営業運転の最高速度は時速500キロ、品川ー名古屋間を最速40分で結ぶ「リニア中央新幹線」は、人やモノの流れ、暮らしを大きく変えることになる。沿線のまちづくりや地域経済にも大きなインパクトをもたらす。

次の静岡県知事がリニアにどのようなスタンスをとるのか。関係者の注目は5月9日告示、26日投開票の静岡県知事選挙に移っている。
(4月10日「ニュース7」などで放送)
経済部記者
米田 亘
2016年入局
札幌局、釧路局、新潟局を経て現所属
国土交通省を担当
名古屋放送局記者
玉田 佳
2017年入局
長崎局を経て現所属
経済取材を担当
静岡放送局記者
仲田 萌重子
2022年入局
静岡県政キャップとしてリニア問題などを担当