東京 町田 米軍機墜落事故60年 市民有志が犠牲者を追悼

東京 町田市の中心部にアメリカ軍の戦闘機が墜落し、4人が死亡、32人がけがをした事故から5日で60年となり、市民の有志が犠牲者を追悼しました。

1964年4月5日、町田市中心部の原町田地区の商店街の一角にアメリカ軍の戦闘機が墜落し、付近にいた乳児を含む4人が死亡し32人が重軽傷を負いました。

事故から60年となる5日、現場から数百メートルの場所にある平和を祈る銅像の前に、当時を知る人など10人近くが集まり、黙とうをささげ犠牲者を追悼しました。

銅像は事故の風化を防ぎ、後世に伝えていこうと市民団体が制作し、事故で亡くなった母親と子どもがモチーフになっています。

市の管理する場所への設置が実現しないため、5年前に市民団体の代表が持つ土地に仮設置されました。

岩崎俊男代表は「ますます風化は進んでいると思いますが、像があれば思い出してもらえますし、より多くの人が目にする公園などに設置ができればと思います。悲劇を繰り返さないために若い人を含めて運動を続けていきたいです」と話していました。

市民団体は6日も追悼の集会を開くほか、これまでの活動内容などをまとめた冊子を今月、新たに完成させていて、事故について伝える活動を続けることにしています。

町田米軍機墜落事故とは

町田市中心部にアメリカ軍の戦闘機が墜落したのはいまから60年前、1回目の東京オリンピックが行われた1964年の4月5日午後4時28分ごろでした。

町田市がまとめた「米軍機墜落事故災害誌」によりますと、アメリカ海兵隊のジェット戦闘機は高度1800メートルほどの上空からきりもみ状態で墜落。

墜落場所は町田市中心部の原町田地区にあった商店街の一角で、民家4棟が一瞬のうちに吹き飛んだほか、買い物客で混雑していて、乳児を含む4人が死亡、32人が重軽傷を負う大惨事となりました。

また、土砂や機体の破片が半径50メートル四方に飛び散って、火災も発生し20数棟の住宅に全壊や半壊などの被害が出たということです。

「災害誌」では当時の現場の様子について「逃げ惑う買い物客、倒壊した建物の下から救いを求める負傷者の悲鳴と叫び、付近一帯は大混乱となった」などとされています。

墜落した戦闘機は山口県の岩国基地所属で、この日の午後、飛行訓練のため、沖縄の嘉手納基地を飛び立ち、神奈川県の厚木基地に向かう途中に故障したとされ、乗員は落下傘で脱出し、かすり傷で済みました。

戦闘機のエンジンは現場の土の中に深くめり込み、当初、掘り出すことが試みられましたが、付近の建物が倒壊する危険があるとして打ち切られ、今も残されたままとなっています。

姉とおいを亡くした女性は

町田市と隣接する相模原市に住む安藤順子さん(83)は、60年前のアメリカ軍戦闘機の墜落事故で、20代だった姉、吉田ツネ子さんと、生後まもないおいの賢一ちゃんを亡くしました。

安藤さんはこの60年間について「長かったような短かったような感じです。本当に悲惨な事故だったので、忘れることはできません」と話しました。

当時、家族の元に事故を知らせる電話があり、安藤さんは両親やきょうだいとともに、すぐに現場に向かいましたが、現場は建物が破壊され、めちゃくちゃな状態で、立ち入れないようロープも張られたため、ただ遠くからぼう然と見つめるしかなかったと言います。

そして、ツネ子さんと賢一ちゃんが安置されている場所に案内され、遺体を確認したということです。

安藤さんは「姉の内出血している顔を見た時はもうショックで何も言えなかったです。両親もきょうだいも皆、ただ見ているだけで、あまりにもショックすぎて、涙も出なかったです。それは今でもはっきり覚えています」と話していました。

安藤さんは幼い頃、体が丈夫ではなく、姉のツネ子さんが優しく接してくれ、7人きょうだいの中でも特に仲がよかったと振り返り「かわいそうだとつくづく思いますし、憤りもありました」と話しました。

安藤さんは今もアメリカ軍の飛行機やヘリコプターの音がすると緊張するということで、「あれが落ちてきたら、姉のように亡くなってしまうのだろうと思うと、どきどきしてしまう」と心の内を明かしました。

去年11月のアメリカ軍機の墜落事故以来、飛行が見合わせられていたオスプレイの飛行が再開したことについても、不安を覚えるとしています。

その上で「とにかくきちんと整備をして、安全を確保してほしい。家族を事故で亡くした人も本当に苦しんで生きていく。絶対に二度と事故は起きてほしくないです」と望んでいました。