父に誓う 大津波で流された町にまたにぎわいを

父に誓う 大津波で流された町にまたにぎわいを
「あの日、大切な人や伝統、すべてを失いました」

それでも、にぎやかだったふるさとの姿を少しでも取り戻したい。

東日本大震災で犠牲になった父のかつての姿を追い、復興、そして伝承に向け動き続ける男性のことばです。
(盛岡放送局釜石支局 カメラマン 庄司優太)

“もっと話しをしておけば”

13年前のあの日、15メートルを超える大津波が襲った岩手県大槌町。犠牲者は1200人を越えました。
昔からイカ、アワビ、ウニ、ワカメなど水産業が盛んな大槌町。町役場を含む、標高の低い町の中心部は壊滅的な被害を受けました。
父「もう出かけんのか?」
子「ああ」

これが震災が起きた3月11日の朝、仕事で仙台に向かう前に父と交わした最後の会話でした。
「父との記憶が3月11日にスポンと切れてしまっています。その日の朝にもっと話をしていればと、後悔があります」
大槌町で生まれ育った倉本栄一さん(71)です。

町を襲った大津波で、当時81歳だった父、栄清さんを亡くしました。

経営する自動車整備工場も大きな被害を受けた倉本さんでしたが、地震直後から、町のためにコンビニエンスストアを誘致したり、NPOの中心メンバーとしてキッチンカーで家庭を回って温かい料理を出したり、役場に働きかけて防災ラジオの開設をしたりするなど、町の復興に奔走してきました。
復興が進む中、倉本さんは、町の人々の交流の中心だった場所のにぎわいも取り戻したいと考えました。

それはかつて町の中心部にあった小さな天満宮の「三陸御社地(おしゃち)天満宮」です。
江戸時代からの歴史があるとされ、公園が併設されていたことから人々の交流の中心の場所になっていましたが、地震による津波で、跡形もなく流されてしまいました。

その後2018年に「御社地公園」として復興したものの、当時は再建費用がかさむなどの理由から天満宮は再建されませんでした。

しかし地元の人たちの再建を願う声が高まったことを受けて、倉本さんら地元の有志が立ち上がりました。再建に向けた資金集めや太宰府天満宮などへの働きかけなどに奔走し、その結果、2021年11月に天満宮は再建を果たしました。
震災から13年。「学問の神様」がまつられ、受験生やその家族が集まる場所としても再びにぎわいを取り戻しています。

その力の源泉は亡き父の存在

なぜ倉本さんが地元のにぎわいをとりもどしたいと強く願うのか。その原動力は、いつもそばで見続けた父の「背中」でした。
栄清さんはもともと漁師でしたが、町の主力産業である水産業を支えようと漁具の製造や販売を始めただけでなく、船の修理にもあたってきました。さらに、昭和40年代にはそれまで地元になかった自動車整備業を始めるなど、町の産業界をリードする存在でした。
本業を引退したあとは、地元の商工会の理事や自治会長、それに地元で最もにぎわう祭りの委員長を務め神社の整備やイベントの誘致などにも力を尽くしてきました。
倉本さん
「昔から困っている人を助けたり、町の産業を盛り上げることに尽力したり、人のためになろうとする父親の背中を見て育ったので、今の自分も自然とそういうことに続こうと動いているんだと思います」

地元の“文化”を残したい

倉本さんは、神社を再建した翌年、この町のにぎやかだった記憶を少しでもとどめたいと、神社のすぐ向かいに「だんご」の店を開きました。
大槌町では昔から行事やお祭りの時に、さまざまな種類のだんごやまんじゅうなどの餅のお菓子や料理が並びます。

その地元の“文化”を広げ、継承する場所にしたいと考えた倉本さんは、町の各家庭に伝わる、細かく砕いたゴマやクルミを包んだ「しょうじ団子」や、大槌特産のサケの形をした「鮭最中」など、地域に伝わる味覚を楽しむことができるようにしました。
特に「鮭最中」は、3代に渡って作り続けてきた和菓子店が津波の被害に遭い、生産が難しくなったのを受けて、倉本さんが作り方を学んで販売しています。
倉本さん
「町の人たちが昔から食べてきたものを残してあげたい」

あの「震災」の記憶をつなぐために

学校帰りの時間には、震災後に生まれた小学生たちが集まる場所にもなっているだんご店。倉本さんは、そんな子どもたちへ震災の記憶をつなげる場所にしたいとも考えています。
店のすぐそば、三陸御社地天満宮の脇には、52体の地蔵がまつられています。もともと震災後、町内のあちこちに建設された仮設住宅の建物のそばに1体ずつ置かれていました。
しかしその後、仮設住宅が役目を終えるなか、子どもたちや町を訪れる人へ震災を伝える場所にしたい、当時仮設住宅に住んでいた人の心のよりどころとなっていた場所を改めて町の中心部の目につくところに置きたいと、ことし3月、この場所に集められました。
それぞれ帽子をかぶったり、マフラーを着けたりと、置かれていた当時のまま。仮設住宅の人たちに愛されてきたそのままの姿です。
仮設住宅に4年間住んだ男性
「自分も仮設住宅に入っていました。仮設住宅の前にはこのお地蔵様があって、みんなで屋根をかけたりしてすごく大事にしていました。朝晩お地蔵様に『行ってくるね』、帰ってきたら『ただいま』って声をかけていました。間違いなく、ずっと心のよりどころになっていました」
だんご店に来た子どもたちも地蔵の数を数えたり、一つ一つ表情の違う地蔵を観察したりします。

震災を伝える遺構が少ない大槌町。倉本さんは町並みが復興していくなか、ここで地蔵を見た子どもたちが、倉本さんたち震災を知る人たちとことばをかわすことで、震災を知り、考えていってもらうきっかけになればと考えています。
倉本さん
「津波で避難生活の時に仮設住宅に飾ったんだよ」
子どもたち
「自分の家がわかるようにしたんだね」
「お守りみたいだね」

ことしも父に誓う

そしてことしの3月11日。倉本さんは、妻のシキ子さんと父・栄清さんの墓参りに訪れました。
妻のシキ子さん
「(夫が)自分にしかできないことや自分のやりたいことを一生懸命やっているのは、父親の姿を自分に重ねているからではないかと思います」
倉本さん
「だんだん父親に似てきている気がします。この先、父の年齢を超えても、自分がここまで生かされてきた分を地元に恩返ししていきたいです」
旧大槌町役場跡地には、倉本さんが整備した、太宰府天満宮から受け取った神木「飛び梅」と同じ種類の梅の木が30本植えられています。

ことしも春を迎え、つぼみがほころんできました。

ここまで復興のために奔走してきた倉本さんは、この梅も地域の宝物だといいます。
倉本さん
「梅の花があることで町の人の心を明るくしたい。また、梅の花を見に少しでも町外の人が訪れて交流人口が増えるきっかけになってほしい。ことしは2回目の花を咲かすので、どれだけきれいな花を咲かすのか楽しみです」

=取材後記=

「町のために」と動く倉本さんが周りに与える影響はとても大きく、成し遂げてきた結果だけではなく、周りの人達をも前向きにさせているように見えました。

取材で、生まれ育った大槌町の復興にむけ、まさに「地元愛」といえる数多くの活動の一端をお聞きし、本当に頭が下がる思いでした。

私は去年8月から大槌町の南隣の釜石市に住み、そこを拠点に取材しています。震災から13年たった地域の復興のあゆみを、住民のひとりとして肌で感じながら、引き続き取材していきたいと思います。
(3月13日 岩手県域 「おばんですいわて」で放送)
盛岡放送局釜石支局カメラマン
庄司優太
2019年入局
名古屋局、盛岡局を経て2023年8月から釜石支局
東日本大震災を中心に取材
福岡県出身