「野球していいのだろうか」被災地のチームが問い続けたこと

「野球していいのだろうか」被災地のチームが問い続けたこと
「当たり前の日常は、一瞬にして崩れる…」

能登半島地震、阪神・淡路大震災を経験した日本航空高校石川の監督が自問自答しながら臨んだセンバツ。

選手に伝えたかったことがありました。

全員の気持ちを帽子に

「笑顔・感謝・恩返し」

部員67人全員の気持ちを表現したことばです。

能登半島地震で震度7を観測した石川県輪島市にある日本航空高校石川はメッセージが書かれた帽子で試合に臨みました。中村隆監督(39)が自身の経験を初めて明かしたことをきっかけに、揺れていた選手たちの心が固まりました。

29年前の震災を経験

チームを率いる中村監督は神戸市西区出身。

小学4年生の時、自宅で寝ていたときに阪神・淡路大震災に遭いました。

当時の様子は鮮明に覚えています。
中村隆監督
「大きな地鳴りで目が覚めました。直後に突き上げるような大きな揺れがあって、ベッドの上のテレビが落ちて、棚のガラスや皿、コップがすべて落ちて割れました。

父が『すぐ外に出ろ!』と声をあげたので、はだしで夢中で逃げました。割れたガラスを踏みつけたからなのか、気が付くと両足が血まみれでした」
神戸市西区では3700棟近い建物が全半壊しました。

通っていた小学校には避難所が開設され、その後、校庭に150戸余りの仮設住宅が建てられました。

中村監督が通っていた小学校は1か月ほど休校になりました。
中村監督
「父から『自分たちはまだましなほうだ』と言われ、被害の大きかった三宮に連れて行かれました。道路に大きなビルが横たわっていて衝撃を受けたのを覚えています」
こうした経験から『当たり前の日常が一瞬で崩れ、一変してしまう』ことを知りました。

ことしの元日に…

阪神・淡路大震災の発生から29年が近くなった元日。能登半島地震が起きました。

地元の神戸市で地震を知った中村監督は、卒業する3年生を含めた92人の部員の安否確認に追われました。冬休みで多くが実家に帰省していましたが、全員に連絡を続けました。
しかし、能登半島出身の2人とは、なかなか連絡が取れませんでした。

『とにかく生きていてくれ!』

祈りと焦りが入り交じった複雑な心境が続き、眠ることができませんでした。

部員全員とようやく連絡が取れたのは翌日になってからでした。

地震の影響で学校は50センチほどの段差ができた場所もあるなど大きな被害を受け、ブルペンも隆起していました。
こうした中、野球部の拠点を山梨県の系列校に移すことが決まり、中村監督は荷物を運び出すために寮を訪れました。

地震からわずか10日後でした。

部屋の荷物が散乱し足の踏み場もありませんでした。

「ことばがないです…」

絞り出すことだけで精いっぱいでした。

輪島の“兄貴”からエール

さらに変わり果てた地域の町並みを見たことで一層の葛藤を抱くようになりました。

『野球どころではない。この状況で野球をしていいのか…』
中村監督
「多くの人が避難所で生活しているなかで、野球ができる環境に自分たちだけが移ることが本当に正しいのか。そんなことよりボランティアなどで輪島のためにできる事をやるべきではないのか。そうした思いは消えませんでした」
そんな時、気持ちを前に推し進めてくれたのが知り合って20年近くの友人、地元の輪島高校で野球部の監督を務め兄のように慕っている冨水諒一さんでした。
大学卒業後、縁もゆかりもない能登にやってきた中村監督と意気投合し、時には夜を徹して野球談義を交わしたこともありました。

その“兄貴”から予想もしていなかったエールが送られてきたのです。

『俺たちのためにも野球をしてくれ』
輪島高校野球部 冨水諒一監督
「私も自宅が潰れ、当時は野球どころではありませんでした。それでも彼らには全力で打ち込める環境があったので『やりたいこと』や『できること』を見失わないでほしかったんです。選手からすると地震で夢が奪われるのは理不尽ですし、頑張る姿を見て元気づけられる人もいるのではと伝えました」
中村監督は「一気に気持ちが楽になった」と動き始めました。

明かした震災の経験

不安を抱えていたのは選手たちも一緒でした。

地震のあと自宅待機を指示されていた中、急きょ、一部の選手から山梨の系列校に集合することになりました。
キャプテン 寳田一慧選手
「山梨に来て野球ができるというのは非常にうれしかったです。ただ学校や輪島が本当にひどい状況になっていて苦しい思いをしている方々がたくさんいる中で、自分たちだけが山梨に来て野球をやっていいのかという思いはありましたし、不安でした」
状況の整理が追いつかず、戸惑いながら生活を続けていた選手を目にした中村監督。

阪神・淡路大震災の経験を初めて選手に伝えました。

山梨に集合してから数日後、練習が終わったあとのミーティングでした。
中村監督
「自分が同じような経験をしていることを私が話すことで説得力を持たせたかったんです。輪島の子どもたちと、当時の子どものころの私は同じですが、選手たちには系列校があって練習ができています。系列校がなかったら地元で不安を抱えていたはずです。さまざまな支援のおかげで野球ができていることに感謝して、今の支援など、当たり前が当たり前だとは思わないでほしかったんです。

困っている人がいたら一歩踏み出して手を差し伸べられる大人になってもらいたいです。『日常は一瞬で崩れてしまう』ということを忘れないでほしいです」
選手たちに訴えて、およそ1週間後センバツ出場が決まりました。

中村監督はその後も、毎日のように“感謝”の心や他人を助けることの大切さを訴え続けました。

気持ちが揺れていた選手たちも少しずつ落ち着きを取り戻し、理解も深まっていきました。
キャプテン 寳田一慧選手
「監督が阪神淡路で被災していたことは全員知りませんでした。今の環境がいかに恵まれているかを身にしみて感じました。当たり前の大切さがわかってきました」
選手たちは『石川や輪島に何ができるか』などをテーマにミーティングをするようになりました。

ミーティングを重ねていく中で、被害を受けた地元選手の話を聞いたり、支援を受ける日々を過ごしたりしたことで「お世話になった人たちの思いも背負ってセンバツに臨むべきだ」などといった意見が出てくるようになりました。

そして、選手たちは、地元に向けてプレーと帽子のつばを通じてメッセージを送ろうと決めたのです。
『笑顔・感謝・恩返し』。

そして『がんばろう石川』。

ベンチに入れなかった選手たちも含めた67人全員の思いでした。
キャプテン 寳田一慧選手
「監督の話をきっかけに石川の現状について真剣に考えるようになりました。心を鬼にした接し方も、今思えば自分たちに現実に向き合って欲しかったんだと思います」

輪島に恩返しできたかな…

こうして強い決意で臨んだ日本航空高校石川。アルプス席の選手たちも石川へのメッセージを込めた帽子をかぶって応援しました。

茨城の常総学院と対戦し、競り合う展開。0対1で迎えた9回ウラ。

一塁・三塁のチャンスを作りましたが、惜しくも届きませんでした。
選手たちにアルプス席から大きな拍手が送られました。

試合後、中村監督は目に涙を浮かべながら答えました。
中村監督
「野球をやらせてくれる環境、前向きに打ち込める環境を与えてもらえたので、ここまで頑張ることができました。だからこそ、能登や山梨などでお世話になった人たちに1試合でも多く戦う姿を見せたかった。

選手たちにとっては苦しい部分もあったと思いますが、多くの人から温かい手を差し伸べられて、より深く感謝の気持ちを持つことができるようになりました。いろんな人のために頑張れるようになり、心の成長を感じていますし、この先さらに大きくなってほしい」
中村監督は、これまでの支援や応援に対する感謝の気持ちを伝えるために選手たちと輪島を訪れてボランティアをしたいと考えています。
甲子園取材班 記者
宇佐美貫太
2019年入局
初任地は甲府局
人情味あふれる中村監督のもと成長できる選手たちを羨ましく感じました