「僕には事件だった」山田洋次監督が見た13年ぶりの浜通り

「僕には事件だった」山田洋次監督が見た13年ぶりの浜通り
「山田洋次監督が福島第一原発を視察するらしい」

その知らせを、私(記者)はとても「意外」に感じた。山田洋次監督は、映画「男はつらいよ」をはじめ、日常を生きる人々をモチーフに、笑いと人情味あふれる作品を世に送り出してきた。

しかし、福島第一原発は、山田作品に描かれてきた世界とは真逆の、シビアで、無機質な場所だ。

92歳となったいま、そんな場所に何を求めるのか。13年ぶりに訪れた福島の被災地で山田さんが何を見て、何を感じたのか。密着取材した。

(福島放送局記者 香本響太)

「むしろ考えなきゃいけない」

東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故から13年を前にした、ことし2月中旬。

山田洋次監督(92)の姿は、福島県の太平洋側、浜通り地方にあった。
この地域を訪れるのは、震災直後の2011年6月以来、およそ13年ぶり。当時は、津波で大きな被害を受けたいわき市の避難所で「寅さん」を上映して講演。被災者を激励した。

今回、山田さんがどうしても視察したいと考えていたのが、福島第一原発だった。そこには、創作活動を続けていく中で、あの原子力災害をけっして忘れてはならないという、強い思いがあった。
山田洋次監督
「ずいぶん年月が経ってきたからね。福島のことを忘れてしまうことだけは、絶対反対だね。逆じゃないかな。これからむしろ一生懸命考えなきゃいけない」

庶民の日常 奪った原発事故

山田さんは、これまで監督として90にも及ぶ作品を手がけてきた。その多くは、日常を懸命に生きる庶民が主人公だ。

「男はつらいよ」シリーズや、1977年公開の「幸福の黄色いハンカチ」など、笑いと人情味あふれる数々の名作を世に送り出してきた。
福島第一原発の事故は、山田作品がモチーフにしてきた、当たり前の日常を奪った。3基の原子炉がメルトダウンし、大量の放射性物質が放出された。大勢の庶民がふるさとを追われ、仕事を失った。帰還困難区域は7つの市町村にまたがり、いまも2万6000人余りが避難生活を送っている。
その根源となった福島第一原発で、何が起き、いま何が行われているのか―。
自らの目で確かめようと、山田さんは福島第一原発の視察を決めたのだった。

福島第一原発の視察は「事件」

2月中旬、経済産業省の職員の案内で、厳重なセキュリティーチェックを済ませた山田さんはつえを手にしているものの、しっかりとした足取りで原発の視察用の車に乗り込んだ。

構内では、事故当時に東京電力の社員たちが詰めていた免震重要棟や、原発の敷地を埋め尽くしている処理水の保管タンクのようすなどを見た。

事故を起こした原子炉建屋を望む高台も訪れた。
目の前に、水素爆発の衝撃で曲がった鉄骨がむき出しになっている1号機が迫る。
山田洋次監督
「百聞は一見に如かずと、古いことばだけど、いろいろ話を聞いたし、さんざんテレビで見てたけど、やっぱり違うね、本物ってのは。全然想像したものと違いますね」
事故が起きた当時のようすや、廃炉作業の工程などの説明に、山田さんは熱心に耳を傾けている。

毎日およそ4000人が作業に従事していること。放射線量が高い建屋の内部は長時間の作業ができないこと―。

現場の状況について時折、質問をしながら、非日常の光景を目に焼き付けているようだった。1時間余りの視察を終えた山田さんは開口一番、その衝撃を「事件」と表現した。
山田洋次監督
「僕にとって、この福島第一原発の現場に立ったことは、ひとつの事件だったね。4000人が毎日毎日働いて、まだまだ何年も何年も廃炉が続くという驚き。そして、どうしてこんなものを日本人は作ってしまったのかという疑問。そんなことでいま頭の中が混乱しております」

かいま見た復興の兆し

地域の復興の兆しをかいま見る場面もあった。

福島第一原発のほか、山田さんは、原発にほど近い浪江町の請戸漁港に足を運んだ。
港では若手の漁業者たちが集まり、漁業のPR動画を撮影していた。

福島の漁業は、原発事故による風評被害や操業の自粛などで低迷した。水揚げ量は回復しているとはいえ、いまだ震災前の2割余りにとどまっている。

この請戸漁港も、地震や津波で大きな被害を受けたが、原発事故の影響で長い間、立ち入りが制限されたため、復旧工事の開始が大幅に遅れた。工事は2年半前に終わったばかりだ。
和気あいあいと撮影を進める彼らとことばを交わし、時折笑顔を見せていた山田さん。かつてあった漁を取り戻そうと奮闘する若者たちの姿に、希望を見いだしていた。
山田洋次監督
「彼らの意識の中にどのような形であの災害が生きているのか、想像を絶する。しかし、こんな若い漁師たちがこれから漁を続けていくということはうれしかった。彼らがこれからこの港を背負って、この漁場を、漁船を自分のものにして漁業をうんと栄えさせていくといいなと思った」

新たに与えられた「課題」

福島第一原発の視察と、若手漁業者との交流。

一連の視察は、山田さん自身の創作のあり方に大きな影響を与えたようだ。
山田洋次監督
「僕の作品は日本人の庶民の物語なわけだけれど、その庶民の歴史の中に、生活の中に、福島の原発事故という、すさまじい悲劇を無視することはできない。僕はこれからまだまだ芝居やドラマを作っていきたいという気持ちはある。でもそんな中でこの日本人が抱えている原発の問題を避けて通れないという、そんな課題を与えられてしまった気持ちになった」

繰り返し福島を伝えていく

山田さんはいま、福島の被災地で行われている、あるプロジェクトに大きな関心を寄せている。
浜通りを舞台にした映画の制作や現代アートの展示など、芸術や文化を浜通りの復興につなげる国の事業だ。

このプロジェクトの趣旨に賛同した山田さんはことし2月、若手の映画監督たちがハンガリーの映画監督タル・ベーラ氏の指導を受けながら映画を制作するワークショップに、特別講師として登壇。
一般の人たちも交えた講演会では、自身が手がけてきたコメディーを引き合いに、映画が福島の復興に果たす可能性について思いを語った。
山田洋次監督
「悲しみに沈んだ、絶望している人間を勇気づけるために、人はよく励ましの言葉をかける。『頑張れ』『おまえはまだまだ可能性があるんだからしっかりしろ』と。だけど本当に絶望していると、そんなことを言われても立ち上がれないんだよね。だけど、その時に本当に的確な笑い話をして彼が思わず笑ってしまう。その笑いが彼をちょっと元気づける」
映画をはじめ、芸術や文化がもつ人を励ます力を誰よりも知っている山田さん。

今回の視察を経て、福島の復興への思いを新たにした。
山田洋次監督
「自分の家を失った、あるいは、ある日突然ここは危険だから県外に逃げてくださいと言われた人の気持ちなんて、そう簡単になれるもんじゃない。でも、そんなことを僕たちは繰り返し繰り返し、小説なり、芝居なり、映画なり、ドラマなりいろんな形で伝えていく必要があるし、聞く必要がある。誰か偉い人がこうしようっていう事じゃなくてね。そういう運動を起こすということに、力を貸せればいいなと思っている」

取材後記

山田さんは、福島を舞台した映画の撮影など、今後の具体的な活動については明言しなかった。

しかし、自身の創作活動を見据え「原発事故を避けて通れない」との考えを、今回初めて語った。

日本映画界をけん引してきた山田さんの思いが、多くのアーティストら表現者に伝わり、芸術・文化を通した福島の復興を後押しするムーブメントにつながることを期待したい。

一方、福島で起きたことを「いろんな形で伝えていく必要がある」という言葉は、記者である私の胸にも深く刺さった。映画なのか、ニュースなのかは関係ない。表現に携わる者として、福島の復興をしっかり伝えていかなければならないと思った。

(3月5日「はまなかあいづTODAY」で放送)
福島放送局記者
香本響太
2017年入局
金沢局、甲府局を経て現職。
原発や県政を担当するかたわら、芸術や文化を取材。「幸福の黄色いハンカチ」をみて、高倉健さん演じる不器用な主人公に自分を重ね、勇気づけられました。