「世界のタンゲ」丹下健三 よみがえった?幻の広島都市構想

「世界のタンゲ」丹下健三 よみがえった?幻の広島都市構想
広島市中心部のほど近くに完成した新しいサッカースタジアム。

実はこのエリアでは戦後すぐ、ある“幻の計画”が発表されていたことがわかりました。

世界的な建築家・丹下健三によるスタジアム建設の構想です。

70年以上のときを経て「よみがえった」計画。

その意味を追いました。
(広島放送局 記者 相田悠真)

74年前の“幻の構想”

2月に広島市に開業した、新しいサッカースタジアム。

J1・サンフレッチェ広島の本拠地として、中心部から歩いて20分ほどの場所に建設されました。

このスタジアムの取材をする中で、今から74年前、このエリアにスポーツのスタジアムを作る構想をしていた人物がいることがわかりました。それが丹下健三です。
丹下健三は広島市の平和公園の計画を作ったあと、東京都庁や国立代々木競技場など数々の建築物の設計を行い、世界的な建築家となりました。

広島で取材をする私にとって、丹下健三は平和公園や原爆資料館といった広島市を平和都市とするための計画を作った人物というイメージでした。

その丹下がなぜ、スタジアム建設まで構想していたのか。取材を進めることにしました。

平和公園とスタジアム

丹下の“幻の計画”とは、1950年に発表された「広島平和公園計画」です。

その一部は現在の広島市の都市計画に反映されましたが、反映されていない部分もあります。
計画の地図を詳しく見ると、その南側には、川を挟んで原爆ドームや原爆資料館が配置され、現在の広島と同じ構図となっています。

この計画では、その北側のエリアに、これまでの広島のまちに見られなかった施設が配置されていました。ここには、「アスレチックスタジアム」と記されています。
丹下が発表した計画の地図と、今回完成したサッカースタジアムの位置を改めて確認してみます。

地図の下(南側)にあるのが、平和公園のエリア。その上(北側)にスタジアムがあります。

ほぼ同じ場所に、新しいサッカースタジアムが完成しているのです。

丹下の構想「平和の軸線」

当時は実現しませんでしたが、なぜ丹下は平和公園の計画に、スタジアムを位置づけたのでしょうか。

千葉大学の豊川斎赫准教授に聞きました。

豊川准教授は、丹下の論考をまとめたり、その建築や都市計画についての著書を複数出版したりするなど、丹下の研究をしています。
豊川准教授が、この計画を理解するキーワードとしてあげたのが「平和の軸線」です。

そこには、広島を平和都市として復興するための丹下の思いがありました。

丹下が広島の復興に携わったのは、戦後すぐ。

1949年には、平和公園の設計コンペで1等を獲得します。

その設計の特徴が、原爆ドームからの延長線上に、今の原爆慰霊碑、そして原爆資料館を配置したことです。
現在の広島市の平和公園でも、慰霊碑に手を合わせると、その先に原爆ドームが見えてきます。

被爆地の象徴となる原爆ドームを中心に、1つの軸線を作った丹下の計画。

それが、後に「平和の軸線」と呼ばれる、広島市の都市計画の核となる考え方になったというのです。

なぜスタジアムだったのか?

そして、その「平和の軸線」の北側の延長線上に位置づけられていたのが、1950年の計画にあったスタジアムでした。

豊川准教授は、丹下が広島という都市の復興を考えるうえで、スポーツの果たす役割を重視していたからではないかと指摘します。

多くの人が集まって、思い思いの過ごし方ができる空間が、町の中心にあることを構想していたというのです。
千葉大学 豊川斎赫准教授
「広島が平和を世界に訴える都市だと考えたときに、その町の一番中心に展開している施設として、平和のことを考える場所であり、平和公園を挟んで川の向こうには、たくさんの人が集って、スポーツを楽しんだりできる場所が必要だという、平和公園の中にとどまらない全体を見る1つのメソッドに意味があったのではないかと思います」
丹下が都市計画を発表した会議では、近代都市の4つの機能について話し合われました。

4つの機能は「住むこと」、「働くこと」、「移動すること」、そして「憩うこと」。

広島のまちを復興しようと考えたときに、丹下は人々が伸び伸びと人間らしく余暇を楽しめる場所をこのエリアに当て込んでいたのです。

平和を伝えるスタジアム

平和公園とスタジアムを一体として、都市計画に位置づけた丹下健三の“幻の計画”。

今回、スタジアムを設置した広島市を取材したところ、丹下の計画であったエリアにスタジアムを建設したことは、意図していたものではないという回答でした。

一方で市は、新しいスタジアムを、平和を発信する場として位置づけています。

スタジアムの中にはミュージアムも併設され、この中では戦後、復興してきた広島の町の歴史も見ることができます。

人気サッカー漫画「キャプテン翼」の主人公が平和を訴える壁画も設置されました。
ことし2月、新しいスタジアムではJリーグの開幕戦が開かれました。

その後も本拠地とするサンフレッチェ広島の試合は、連日チケットが完売となる盛況ぶりです。

スタジアムでは、親子連れを含むすべての世代で、サッカーを楽しむファンの姿が見られます。

平和の中でスポーツを楽しむことができる。丹下の残した構想が、70年以上の年を経て実現しているようにも感じました。

「広島のまちづくりを象徴」

都市計画を研究している千葉大学の豊川准教授は、スタジアムの完成は、戦後から今に至るまでの広島のまちづくりを象徴していると考えています。

それは、平和公園と原爆ドームの関係を軸に行われてきた結果で、このような都市は全国でも珍しいというのです。

豊川准教授はまさに、広島のまちづくりは丹下のコンセプトをなぞっていて、それが大切にされながら今のまちづくりをされてきたことがわかると話しました。
千葉大学 豊川斎赫准教授
「広島市は景観計画の中で、原爆ドームの背後に建物が見えるのは基本的には許可しませんというメッセージを出していて、これはある種、丹下さんの設計のコンセプトをなぞっています。この意味で、広島のまちが丹下さんの原爆ドームと平和公園との関係を考えたアイデアから続々とそれに連なるようにデザインされてきたのは、戦後広島の歩みみたいなものがこの軸線を通してもよく見えるし、みんなが丁寧に町を作ってきたというのはほかの町にはあまりないです」

引き継がれる丹下健三の平和への思い

戦後すぐ、広島は「新型爆弾」が落とされ、行くと大変なことになるといううわさもある中、丹下は旧制高校時代を過ごした広島の復興のためにと、率先して広島に向かったと言われています。

当時、丹下は平和公園の設計案について「平和は訪れて来るものではなく闘いとらなければならないものである。平和は自然からも神からも与えられるものではなく、人々が実践的に創りだしてゆくものである」という言葉を残しています。
そんな思いの中で作られた計画の一部が、74年のときを経て実現した広島という都市。

いま丹下が生きていたら、どんなことを思うのでしょうか。

率直に、豊川准教授に聞いてみました。
豊川准教授
「多くの人がスポーツを楽しんだり、思い思いに人が都市の真ん中に集まってきたりして、思い思いに時間を過ごせるエリアが町の真ん中に設定されている状態を見たら、たぶん丹下さんは相当喜ぶんじゃないのかと思うし、『やりたかったことがちゃんと君たちわかってるじゃないか』とおっしゃるんじゃないのかなと思います。おそらく30年後、50年後に広島のまち作りや都市の建築を担当する若い人たちもたぶん、原爆ドームと平和公園の関係を意識しながら作っていくことになるので、魅力的なこのバトンを渡された人々が、韻を踏むようなまちづくりをしてくれるんじゃないかなと思っています」

丹下の思いが残されたまちで

今回の取材を通して、70年以上のときを経ても丹下健三という1人の建築家の思いが、広島のまちに色濃く残っていることを強く感じました。

丹下は平和公園について、「平和を創り出すための工場」でありたいと考えていたと言葉に残しています。
平和公園からの「平和の軸線」のエリアに整備された新しいスタジアムが今後、新たな平和の発信拠点となっていくのか。

今後も取材を続けていきたいと思います。

(2月22日 「お好みワイドひろしま」で放送)
広島放送局記者
相田悠真
2021年入局
現在は福山支局を担当
大学まで野球部に所属
趣味は将棋