ギャラリーの涙

ギャラリーで1人、涙が止まらなくなりました。

「これ、親父のです」

展示されている作品は地震で行方不明になっている父が作ったものだと伝えると、ギャラリーの男性から「作品を譲りたい」と申し出を受けました。

けれど、あえて「そのままでお願いします」と伝えたのです。

(3月4日の「ニュースウォッチ9」で放送)

画像をクリックすると見逃し配信が見られます。※3/11(月)午後10:00まで

「逃げるしかなかった」

地震が起きた元日。

清水宏紀さん(46)は、輪島市の「朝市通り」近くの実家で、父親の博章さん(73)と母親のきくゑさん(75)と3人でおせち料理を食べていました。

清水宏紀さん

午後4時すぎ、最初の揺れのあと、両親を車で避難させようと外に出た時、2度目の激しい揺れが襲いました。

実家は倒壊。

外から2人の姿は見えません。

清水さんが呼びかけると、家の中から母親のきくゑさんの声がしました。

「助けをなんとか呼んでくれ。あなたが頼り」

母・きくゑさん

しかし、倒壊した家の中から自力で助け出すことはできず、助けも呼べない状況でした。

相次ぐ余震と津波警報、そして火災の火の手が、ものすごい勢いで迫っていました。

「最後は逃げるしかなかったですね。『悪いけどもう逃げるよ』と。(母は)『わかった』ということを言ったと思います」

「現実の感じがしない」

現場付近で大規模な捜索が始まった1月9日。

実家のあった場所で人の骨が見つかったと警察から連絡を受けました。

1月下旬、清水さんは取材に対して、こう話していました。

「当日から現実の感じがしなくて。目の前のことに集中しないと、バランスが崩れて落ちていくんじゃないかって」

父としても、仕事にも厳しかった

父親の博章さんは、輪島塗の漆器などにまき絵を描く職人でした。

父・博章さん

清水さんにとっては、厳しい父親でした。

そしてその厳しさは、仕事にも表れていました。

中学生か、高校生のころ、父親の仕事を手伝った時のこと。

「漆器を磨くっていう作業だったんですけれど、細かい線があるところを注意して磨かないと線が削れてしまうから『注意してやれよ』と言われていました」

それでも、多くの漆器を磨いていくうちに、一つ、線が削れてしまいました。

その時に言われたことばを、清水さんは今も覚えています。

『お前がやった作業の中では20個30個のうちの一つだけど、これを買ったお客さんにとっては唯一の1個だよ。そしたら輪島塗ってこんな程度の品物なのかと思われてしまう、それは仕事としてやっちゃいけないよ』

博章さんは数多くの作品を手がけてきましたが、家にあった作品は火災ですべて失われました。

写真すら捜せない中で

家があった場所で見つかった骨については鑑定が進められていますが、両親かどうか特定できておらず、2人は今も「行方不明者」となっています。

家も焼けてしまい、2人が写る写真を捜すことすら困難を極めました。

「倒壊しただけなら捜しようがあったと思うんですけど、火災で燃えてしまったので正直どうしようかというほうが大きかったかなと思います」

そうした中、清水さんはあることを人づてに聞きました。

博章さんの作品が、埼玉県川越市のギャラリーに展示されているという情報を、博章さんの同級生が知らせてくれたのです。

博章さんは高校を卒業後、東京で専門学校を出て、一度就職していました。そのころの友人関係のつながりがあったのです。

清水さんは、埼玉へ向かうことにしました。

作品がきっかけでしたが、実際の輪島の状況や父の状況を伝えられればという思いもありました。

「僕の友人の作品なんですけど…」

川越市のギャラリーで博章さんの作品を展示していたのは、草野光廣さん(77)です。

東京の専門学校で博章さんと同級生でした。

その縁で草野さんは今から40年ほど前、博章さんに漆器の制作を依頼したということです。

作品はこれまで、桐の箱に入れて保管していましたが、能登半島地震で博章さんの行方が分からなくなったことを知り、展示を始めていたのです。

草野さんは「博章さんの家族に作品を譲りたい」と考えていました。

しかし連絡先がわからず、どのように連絡を取ろうか困っていたところでした。

今月2日。

ギャラリーに展示してある作品の前で、人目もはばからず泣いている男性がいました。

草野さんは近づいて声をかけました。

「これ僕の友人の作品なんですけど…」

すると、涙を流す男性は答えました。

「これ、親父のです」

男性は、清水さんでした。

草野さん
「本当に驚きました。まるで清水さん(博章さん)が巡り合わせてくれたようです」

「父らしいな」

作品と対面した清水さんは、ことばにできない感情が込み上げてきたと言います。

「あ、ここにあったのか、というのが一番ですね。やっぱりそのあとはちょっとことばにはならなかったです。感情が込み上げてきて、涙が出てきました」

展示されていた博章さんの作品

展示されていたのは、ひょうたん型の朱塗りの漆器に、色鮮やかな桜模様のまき絵が散りばめられた作品でした。

「父らしいなと思いました。少し明るめの作品で、明るいものが好きだったのでそれが表れているなと」

さらに、作品を収めた箱には、博章さんの経歴を記した紙も入っていました。

そこには、ものづくりにかける心構えが書かれていました。

「一職人として『人是皆師匠』を心に、漆を友とし、漆と共に歩む」

博章さんの歴史好きな面が表れていると、清水さんは感じました。

もともと歴史が好きだった博章さんは、母親のきくゑさんとの出会いで輪島に来ることになり、輪島塗という歴史のある仕事に携われることを喜んでいたと言います。

「そのままでお願いします」

この日、清水さんは博章さんの同級生だった草野さんと初めて会い、話をしました。

草野さんは、展示している作品は清水さんにとって大切なものなので「作品を譲る」ことを申し出ました。

しかし、清水さんはその申し出を受けませんでした。

そして「今後も展示を続けてほしい」と伝えました。

自分が譲り受けるより、多くの人に見てもらったり使ってもらったりすることにこそ価値があると考えたからです。

草野さんは、清水さんの思いに応えてしっかり展示していくと伝えたということです。

草野さん
「震災を風化させないようしっかり展示したいし、これだけの作品を作り上げた職人がいたことを示す証しとして、見る人にその思いを感じ取ってもらいたいです」

清水さん
「やっぱり見てもらうこと、使ってもらうことが一番だと思います。きっかけとしては残念なことなんですけど、それでもやっぱり思い出してもらって、箱から出して見てもらい、“父が生きた証し”をたくさんの人に見てほしい」

そのうえで清水さんは、能登や輪島などの被災地に外の人が心を寄せるきっかけになればと考えています。

「輪島でみなさん言われるのが、この先風化していくことが怖いと。私も週末は毎週輪島に帰るんですけれども、消防、自衛隊の方、そしてメディアの方もどんどん数が少なくなっていく。やっぱり復旧・復興というのもまだまだスタートを切ったかどうかというぐらいなので、その途中で『まだ復旧なかばだよ、復興なかばだよ』ということを知っておいてもらわないと、なかなか地元にいる人たちも継続して動けるのかわからないと思うので、そういう意味でも遠く離れた埼玉の方に動いていただけるのはありがたいのひと言に尽きます」

「離れたところでも、見ず知らずの方でも、被災地の方々のことを思ってくれているだけで支援になると思っています。その思いが途切れてしまうと支援が止まってしまうので、そういう思いをつないでいくためにいろいろなところで動いてほしい、動き続けてほしい、まずは被災地に思いを寄せてほしい、そういう思いです」

(能登半島地震取材班 江田剛章 海老原悠太)