「毎日、毎日ずっとやな」壊れたわが町 解体業者が足りなくて

「毎日、毎日ずっとやな」壊れたわが町 解体業者が足りなくて
「毎日、毎日。8時半から5時まで。こんな生活ずっとやな」

従業員全員が住む場所を失った解体業者の社長。

家族には遠方への避難を勧められた。

しかし、彼はそこにとどまり、連日、朝から晩まで重機を動かす。

動かさざるをえない、と思っている。

「赤」「赤」、ここも「赤」

地割れ、傾き、割れたガラス。

歩く人の姿は、まばらだ。

地区を見渡すと、ほとんどの家に赤色の紙が貼られている。

危険 UNSAFE

「この建築物に立ち入ることは危険です」
地震で7万5000棟余り(2月22日時点)の住宅に被害が出た石川県。

このうち、約5000棟の住宅が全壊したのが珠洲市で、特に被害の大きかった地区の一つが正院町だ。

ガシャーン、ガシャーン。

1台の重機の音が、にぎわいを失った地区に鳴り響く。

操縦しているのは、地元で長年解体業を営んできた柳和彦さん(61)。

この町の景色は生まれたときから知っていた。

だが、その住み慣れた“わが町”は壊滅的な状態に。

自宅も全壊した。
「すき焼き。すき焼きの途中やっててね」

「孫とね、ただ普通にワイワイと」

住めなくなった“わが家”を見ながら、そう語る柳さん。

元日、震度6強の揺れに襲われたのは、金沢市に住む娘と孫が帰省しているときだった。

近くの小学校に避難したあと、戻ってみると、地区の姿は様変わりしていた。至る所で住宅が倒壊。電柱は傾き、崩れた家屋が道路にあふれ出ていた。60年前から見てきたなじみの光景は、もうそこにはなかった。

同じ地区に住む5人の従業員も、全員被災していた。

地区には電気も水道も来ておらず、ままならない生活だった。娘には金沢に避難するよう、説得された。けれど、柳さんは地区に残った。
柳社長
「子どもらは『こっちこい。こっちこい』と言ってるんだけれども、仕事上、やっぱあっち行くわけにもいかんし。やっぱりちょっとでも、ためになりゃあと思って。ほんで、やったんですけどもね」

「がれきと思うかも知れんけど」

柳さんたちは、避難生活を送りながら、地域の片付けなどに奔走した。

発災から10日ほど後には、市から依頼を受けて、がれきの撤去を始めた。

地区では崩れた家屋があちこちで道を塞いでいて、インフラの復旧作業に向かう車両さえ通ることができなかった。

周りでは地震で工事の機材が壊れる業者もあった。幸い、柳さんの会社では機材の被害が比較的少なく、工事の要となる大型の重機は能登半島南部の七尾市の企業からリースしてもらい、社長みずから乗り込んだ。
慣れ親しんだ土地で、顔見知りの住民たちが作業を見守っている。

現場では声をかけ合いながら、住民の大事なものが混ざっていないか、一つ一つ確かめながら進めているという。
従業員
「倒壊した住宅っていうのは、テレビを見る人からすれば、がれきと思うかも知れんけど、あの地震の直前まで皆さんが、お正月で親戚の方とかね、家族で団らんの場があって、ものの5分ぐらいかね、命からがら車も大事なものを置いて外に逃げ出した人が助かってるんで、やっぱりそういうところはくんであげないと。いきなり『仕事だから』ってバーっとやるじゃなくて」

毎日、毎日、ずっとやな

自分たちも住む場所を失った従業員たち。

柳社長も含め、今は会社の近くに以前から建てていたプレハブ小屋に身を寄せている。
撤去作業は1日およそ8時間。

柳社長たちはほとんど休みなく働いてきた。

それでも思うように、撤去作業は進まなかったという。

連日、昼になると、このプレハブや地域の避難所に戻って食事をとる。
柳社長:「ほら、これはおいしいわ。夜ももち?」
従業員:「夜も、もちよ。さっきつまみ食いした」
夜は、プレハブの中で雑魚寝。最初のころは風呂に入ることもできなかったという。
柳社長:「今でこそ、風呂とか入られるけど、最初はみんな風呂入れんで。10日以上入ってらんもんね、最初は。でも作業は、毎日、毎日。8時半から5時まで。そんな生活ずっとやな」
従業員:「津波きて、活動したくてもできない人がおって、たまたまこの地区は津波がほとんどこなかったから、大事な道具すべて助かった。だから、地域に貢献できる」
発災から7週間あまり、「ようやく地区でのがれきの撤去にめどがついてきた」と柳さん。しかし、依然として、正院町での住宅の解体は進んでいない。柳さんたちによると、まだ依頼が行政から寄せられていないという。

なぜ解体が進まない?

珠洲市によると、能登半島地震で被害を受けた住宅や建物が「り災証明書」で「半壊」や「全壊」などと認定され、“公費”で解体・撤去される対象になる。

ただ、応急危険度判定で赤の「危険」と判断されても、必ず公費解体の対象になるわけではない。対象と認められなければ、“自費”での解体となってしまう。
また、取り出すことが可能な家財道具などについては、被災者が自己負担して、搬出したり処分したりしなければならない。

所有者に代わって自治体が進める「公費解体」。その申請の受け付けは、すでに一部の市や町では始まっていて、石川県は「公費解体」を来年(2025)10月までに終える目標を掲げている。

しかし、県内の解体業者によると、本格的な発注には至っていないというのだ。

なぜか。

まず、こんな数字を見つけた。

17.15倍

これは、石川労働局がまとめた、解体工事の作業員が含まれる「建設躯体工事従事者」の有効求人倍率だった。

去年(2023)12月の求人は223人に対し、仕事を求める人は13人にとどまり、すべての職種の中で最も人手が足りていないという。

こうした状況の中、家屋の解体をめぐっては、被災地以外からも業者を確保しようと、石川県は解体業者で作る「県構造物解体協会」を通じて県内と福井県、それに富山県の業者に協力を求めている。

“わりに合わない”

しかし、取材を進めると、解体業者からはこんな声も聞こえてきた。

わりに合わない

具体的には、主に3つの理由があげられた。
1 解体しながら壊れて混ざっている部材を手作業で分類する必要があるため、通常より時間がかかり人件費がかさむ

2 被災地への移動のための燃料費の負担も大きい

3 現地での宿泊する場合の費用も見通せない
“被災地の復興に貢献したい思いはある”としつつも、“手をあげる会社は少ないのではないか”という話だった。

さらに、人手不足についても別の県内の業者はこう話す。

「今ある仕事だけで手いっぱいというのが実情で、『公費解体』の仕事を請け負うことは働き手を確保する面でもハードルが高く感じる」

“終わったばかりだったのに…”

柳さんたちがいる正院町でも、復旧工事が進みにくい理由がある。

「6時くらいになったらどこも明かりがついてない。真っ暗やな。元日から風景はそんなに変わっていないよ。がれきの処理して道路整備、長い年数がかかるんちゃうかな」

正院町に住む村元克寿さん(66)は、今回の地震で自宅が傾くなどして、応急危険度判定で赤の「危険」と判断された。

だが実は、村元さんの自宅は「直した」ばかりだったのだ。

去年5月5日。震度6強の揺れが珠洲市を襲っていた。正院町でも被害が大きく、村元さんの自宅も壁がはがれたり、階段がまるまる落ちたりした。これをおよそ100万円かけて修繕。行政の補助で半額はまかなえたが、それでも経済的な負担は免れなかった。
村元さん
「もううんざりです。まあ5月のときはまだ修繕して住まいにまだできる感じやったから、修理したりしていたわけだけど、今回の、規模が大きい。もう住めない状態だもん。んで、もう見渡してもさ、全体が、正院町全体がみな悲惨な状態だから」
珠洲市によると、こうした「二重被災」の住宅は市内で3000棟を超えるとみられるという。まだ去年の地震からの復旧工事も終わらない中で、今回の地震で甚大な被害が出ていたのだ。

村元さんは、90歳の母親と避難所で過ごしたり車中泊をしたりしたものの、ライフラインの復旧がままならないことから金沢市内に古い民家を購入し、当面の間、生活の拠点を移すことを決めたという。

元の自宅は解体したいと考えているものの、公費で解体できるのか費用を工面する必要があるのかもわからず、「判断することができないです」と話す。

これからちょっとでもね、1日でも早う…

柳さんたちがプレハブ小屋でお昼を食べていると、従業員の1人がこうぼやいた。

「若い世代がこの地震でけっこう出ていくというか、引っ越ししていっているというのがよくあるんですよ」

解体作業の中心を担うような若い人たちが、地震後、2次避難などでいなくなっているという。重機が被災して使えない業者もあることや、そもそも柳さんたちのように生活の拠点となる場所を確保できないことも理由だということだ。

そんな中で、地元企業としての自負を、社長の柳さんの前で語っていた。
従業員
「地域に根付いて、皆さんの信頼得て、ここまでなってきた会社ですからね。少々被災したからといって、自分らも、って言うわけにはいかんしね。皆さん、やっぱり社長の近所の方でも、家が倒壊してね、道を塞いでいたり、そういう中でも声掛け合って、いきなり(家を)つぶさんと、大事なものがどの辺にあるか、ちゃんと聞いて、やっぱり社長がやっぱり今まで培った地域に信頼があるからこそ、『ぜひともやってもらえないか』と声かかるんじゃないかなと思いますね」
柳さんは、黙ったままタバコを吸って、その話に耳を傾けていた。

この日も作業は夕方まで続けたという。

柳さんが現場で語ってくれたことばが印象に残っている。
柳社長
「もう昨日まで知った人が住んどった家を折るってなると、その家の人も見ておられるから、ちょっとつらいもんがある。仕方ないわね、電気通さな。了解を得てやっておるんやけど、うん…これからちょっとでもね、1日でも早う、復興できればなと、そう思ってね」
(能登半島地震取材班:伊藤瑞希 大畠舜 杉本宙矢 谷川浩太朗)