40代でがんになった編集者の“生きた記録”

40代でがんになった編集者の“生きた記録”
もし、あなたがあと数か月の命だとしたら何をしますか?去年の秋、小さな出版社からある一冊の本が出版されました。

仕事に追われながらも充実感にあふれていたあの頃。家族や仲間と過ごした時間。何気ない日常は”生きることの意味”をみずからに問いかけることになりました。

「長くて2か月 短くて1か月」

いつか、そう遠くないときに、僕は死んでしまうのでしょう。最後のときまでは自分なりの生きる意味を手離さず、人生が自分に何を求めているのかを見つめていたいと思うのです。
(「憶えている 40代でがんになったひとり出版社の1908日」より一部を抜粋して掲載 以下同様)
去年7月3日に亡くなった岡田林太郎さん(享年45)。私が岡田さんの取材を始めたのは、おととし10月下旬。末期がんを患いながらも精力的に本を作っているときでした。

岡田さんは幼いときから本が好きで、大学卒業後は歴史や文学などの専門書を扱う出版社へ就職。戦争をテーマにした本を多く手がけ、30代半ばで社長も務めました。
ところが40歳になった年、名も無き市井の人に焦点を当てた本を自由に作りたいと、社長の座をなげうって、出版社を創業します。「株式会社 みずき書林」。従業員のいない”ひとり出版社”でありながらも、精力的に本を作り続けました。

そんな岡田さんに思いもしなかった試練が待ち受けていました。2021年9月、43歳。ステージ4のスキルス胃がんの告知を受けたのです。

しばらくは仕事をしながら闘病生活を送っていましたが、翌年秋に体調を崩し入院。1か月後に退院できたものの、医師から「長くて2か月、短くて1か月」と余命を宣告されます。

岡田さんはそれまで抱えていた仕事をすべて諦め、妻や友人と穏やかな最期を迎える覚悟をしました。しかし、家で妻とともに過ごす中で、奇跡的に体力が回復していった岡田さんに、編集者仲間からある提案が舞い込んできました。

「何か本を書いてみませんか?」。岡田さんは、ひとり出版社を創業して以来、5年間にわたってブログを書いていました。そのブログをもとに当時を振り返りながら、いま、改めて何を考え、感じるのか、書き加えるスタイルの本を執筆することを考えたのです。

原点は一冊の本に

岡田さんがブログをもとに本を書こうと決めたのには理由があります。それは、独立後、最初に手がけた一冊の本でした。

太平洋戦争中にマーシャル諸島で餓死した旧日本兵の日記をひもとく、『マーシャル、父の戦場』です。
本の主人公は佐藤冨五郎一等兵曹。食料が不足し、動くことすらできなくなる中、日本に残してきた家族を思いながら亡くなる前日まで日記を書き続けていました。

死の間際まで何かを残そうとした日本兵の姿。歴史に名を刻むことのないあるひとりの人間の生きた記録が死を意識し始めた岡田さんの胸に深く刺さったのです。
岡田さん
「書き続けるという精神力の強さこれは魅力を感じます。まもなく死のうという人間がこんなことを考えていましたっていうのは何らかの価値があると思う」

生きた意味 生きた記録

最初で最後となった自身の著書『憶えている』は、不安を抱きながらも情熱や興奮に満ちていた、独立して間もない頃から始まります。
2018年8月23日
とりあえず4冊刊行しました。まあ、傍目には小さな出版社がひとつ立ち上がって、少部数の本を4点刊行しただけなのですが、やっている本人にとっては大冒険だったのです。
このときを振り返った文章にはこう書かれています。
あの頃の興奮と楽しさと不安をありありと思い出すことができる。仕事というのはこんなに面白いものだったのかと、あらためて感じる日々だった。
岡田さんは、何気なく過ごしていた日常の1コマを振り返り、それがいかに尊いものであったかについても書きました。
2019年8月14日
仕事をしながら、キッチンで牛肉のビール煮込みを作ります。急ぎで済ませるべき仕事を片付ける視界の端には、ぽこぽこと煮立っている鍋があります。
このときを振り返って書いたのは…。
なんでもない日常の風景。この日のことはもう憶えていない。でも、こんな日がたくさんあったことは憶えている。今の僕はもう、料理をしながら仕事をすることもなくなった。こんなふうな日常風景を読むと涙がこぼれそうになる。
岡田さん
「僕のなんでもない日常が書いてあって、読んだ人が、全く関係のない僕という人間が、こういう風に生きて、こういう風に死んでいくんだと言うことを感じて、感動してもらえたらすごくうれしい」

人生でつかんできたものは

去年4月下旬。この日、順調に書き進めていた岡田さんは、頭を抱えて悩み始めます。執筆の様子を撮影していると、突然、キーボードを打つ手が止まったまま動かなくなりました。「何も思い浮かばない!」。

その数日後、お見舞いに訪れたいとこの拓也さんと妻の裕子さんを前に、岡田さんは胸の内を語り始めました。
岡田さん
「人生を感じさせる何かが、まもなく死ぬよってときになんかもっとあるような気がして、(人生で)なにをつかんできたんだろうって。なにかしらもっとじぶんの中にあるんじゃないかって思ってしまう」
岡田さんの覚悟をそばで見てきた裕子さんがことばをかけます。
裕子さん
「つかめそうでつかめないからこういう感じなのかな。近くまで来ているんだよねきっと、もうちょっとだよね」
この本で何を残したいのか。自分がこれまでつかんできたものは何なのか。人生を振り返ってみて、その答えを見つけようともがいていました。
執筆を続けている岡田さんは余命宣告を忘れさせるほど体力が回復。しかし、血尿や吐き気など、悪化する病状にも悩まされていました。

そんな中でも考えることをやめなかった「生きる意味」。この頃、執筆のために抜粋した元のブログの振り返りをひと通り終えていました。ここからは、振り返る形ではなく、それ以後に書いたブログをそのまま載せています。
2023年5月6日
みんなそれぞれにライフヒストリーを持っている。それは多くの場合、個人的でごくささやかなもののように見えるが、実は生きていることの本質はそのささやかな私性(わたくしせい)にこそあるのではないだろうか。
そして5日後、みずからの“生きる意味”についてつづりました。
2023年5月11日
この個別一回限りの人生の場面のなかで、自分の生きる意味を見定めていかないといけません。僕にはやりたい仕事があります。大事にしたい人間関係があります。このふたつが、僕自身の生きる意味を提供してくれています。
去年5月29日。岡田さんは腹部に強い痛みを感じ、急きょ病院に向かいました。この日、痛みを取るためにあえてリスクが伴う手術を受けるかどうか、選択を迫られます。

手術をすれば合併症を引き起こす可能性がある一方、痛みがある状態ではこのまま本の執筆を続けることはできません。

裕子さんや両親にも相談したうえで、岡田さんは最終的に手術を受けることを決断しました。

手術は無事に成功。しかし、病気は岡田さんの身体をむしばんでいて、入院から1か月後の7月3日、帰らぬ人となりました。

誰かの人生が、誰かの人生の糧に

それから3か月後。完成した本が裕子さんのもとに届けられました。真っ白な表紙に黒字のタイトル。右隅には岡田林太郎と書かれた文字。笑顔でそっと手に取った裕子さんの目には涙が浮かんでいました。初版は1000部発行され、書店やインターネットで販売されました。
最後に入院したときに病室で書いたあとがき。45歳で閉じた自分の人生をこう締めくくりました。
僕の人生に関わってくれたみんな、本当にありがとうございます。おかげで楽しく充実した人生でした。
岡田さんの生きた記録は読者にはどう届いたのか。本を読んだという人を探し、訪ねました。知人を通じて岡田さんの本を知ったという、出版業界で働く竹内正明さん(55)。

岡田さんの本を読み、戦争や災害などのニュースが続く今だからこそ、著名人ではない、あるひとりの人生が書かれた本の力を感じたといいます。
竹内さん
「なんでも数に置き換えがちではある世の中で、そうじゃないことということをやっぱり思わないといけないですし、そういうことを考えることができるのがもしかしたらこういう書籍だったり、日記だったりっていうようなものかもしれない」
インターネットでこの本を見つけ、著者が同世代だったことで興味を持ったという阿部拓也さん(45)。

20年以上、雑草の研究を地道にやり続けているみずからの姿と、市井の人に目を向けて本を作った岡田さんの姿を重ね合わせていました。
阿部さん
「生きていくことは積み重ねだと思う中で、もっと自分のやっていることを積極的にやっていいんだなっていうのは、本からすごく後押ししてもらったというか、励まされた感じはありますね」

亡くなったあの日、岡田さんは…

岡田さんの取材を思い立ってから1年4か月が過ぎた今でも心に残っている瞬間があります。それは、結果的に最後の入院となった5月の入院から岡田さん本人の撮影が難しくなっていたころ、妻・裕子さんを通じて岡田さんから「取材を受ける」と連絡があったことです。

その翌日に会いに行く約束をし、やっと会えるとばかり思っていました。しかし、その日の明け方、岡田さんは亡くなりました。

なぜ、岡田さんは、最期、一分一秒も惜しい時間を取材に割いてくれようと考えてくれたのか。死の間際まで懸命に生きたという自分の姿を記録して残すことが、いつか誰かの人生の何かしらの糧になるかもしれないと信じていたのではないかと思うのです。

それだけの覚悟を持って取材に応じてくれていた「岡田林太郎」というひとりの人の生きた記録。この記録を通じていまを生きる“あなた”に何か届いて欲しいと願うばかりです。

(2月4日 「おはよう日本」で放送)
映像センター カメラマン
三橋 昂介
2014年入局
福岡局、長崎局、大阪局を経て2022年より現職
さまざまな場所にカメラを向けて「人」をテーマに取材している