小澤征爾さん死去 88歳「世界のオザワ」の訃報に国内外で追悼

海外の名だたるオーケストラで活躍し、「世界のオザワ」と評された指揮者の小澤征爾さんが今月6日、都内の自宅で心不全のため亡くなりました。88歳でした。

訃報は国内外で報じられ、親交のあった人などが哀悼の意を表しています。

今月6日に心不全のため死去 指揮者として国内外で活躍

小澤さんは1935年に旧満州、今の中国東北部で生まれました。

5歳の時に日本に帰国、小学生で初めてピアノに触れ、レッスンを始めます。その後、桐朋学園の音楽科に入学、数多くの指揮者を育てた齋藤秀雄さんから本格的に指揮を学びました。

23歳で単身、フランスに渡ると、現地で行われた指揮者のコンクールで優勝して飛躍の足がかりをつかみ、世界的な指揮者、カラヤンに師事しました。

またアメリカの指揮者、バーンスタインにも認められ、25歳でニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮者に就任、その後もウィーン・フィルハーモニー管弦楽団など世界的に有名な数々のオーケストラで指揮者として長年活躍しました。

レナード・バーンスタインと(1961年)

このうち、アメリカのボストン交響楽団では1973年から29年間にわたって音楽監督を務めたほか、世界屈指の歌劇場として知られるオーストリアのウィーン国立歌劇場でも音楽監督を務めるなどその活躍によって「世界のオザワ」と評されました。

国内でも1972年に新日本フィルハーモニー交響楽団の創立に携わったほか、恩師の齋藤秀雄さんをしのんでサイトウ・キネン・オーケストラを結成して音楽祭を開くなど精力的に活動し、戦後日本のクラシック界をけん引してきました。2008年には文化勲章を受章しています。

小澤さんは2010年に食道がんで手術を受けて以降、活動の再開と休止を繰り返していましたが、去年9月には長野県松本市で開かれたコンサートに姿を見せていました。

小澤さんは、今月6日都内の自宅で心不全のため亡くなったということです。88歳でした。

葬儀はすでに近親者のみで執り行い、後日お別れの会を開くことを検討しているということです。

闘病で活動休止も そのたびに音楽の舞台に復帰

小澤征爾さんは2010年、74歳の時に食道がんの治療に専念するため、音楽監督を務めていたウィーン国立歌劇場での公演をはじめ、国内外の公演をキャンセルして活動を休止しました。

食道がんを公表(2010年1月)

小澤さんは食道を摘出する手術を受けたということですが、同じ年の8月には復帰の会見を開き、若手の演奏家たちを前に力強く指揮をする姿を見せました。

その後も持病の腰痛や体力の低下などで活動を休止することがありましたが、そのたびに音楽の舞台に復帰してきました。

2018年、82歳の時には心臓の弁がうまく機能しない「大動脈弁狭さく症」で入院しましたが、同じ年に復帰すると再びオーケストラを指揮する姿を見せ、小学生に音楽の魅力を伝える催しなども開きました。

そして2022年、自身が総監督を務める「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」の30周年特別記念公演を前に長野県松本市で、3年ぶりにオーケストラを指揮する姿を見せ、動画を公開しました。

この時が、公の場での小澤さんの最後の指揮となりました。

国内での大きな功績の一つ「サイトウ・キネン・オーケストラ」

小澤征爾さんの国内のクラシック界における大きな功績の一つが今も続く「サイトウ・キネン・オーケストラ」です。

これは1984年、小澤さんが師事した音楽家の故・齋藤秀雄さんをしのんだメモリアルコンサートを開いたのが始まりです。

このとき、特別に編成されたオーケストラには小澤さんらの呼びかけに応えた世界中で活躍する齋藤さんの門下生が集まり、今の「サイトウ・キネン・オーケストラ」の母体となりました。

このオーケストラはヨーロッパでのツアーも行って海外でも絶賛され、1992年には長野県松本市でも小澤さんみずからが総監督を務める「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」を初めて開催しました。

サイトウ・キネン・フェスティバル松本(2009年)

その後「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」は世界水準のオーケストラとオペラに親しむことができる国際的な音楽祭となりました。

松本市で小澤さんが指揮した「サイトウ・キネン・オーケストラ」の演奏を収録したアルバム「ラヴェル:歌劇《こどもと魔法》」は、2016年、アメリカの音楽界で最も権威があるとされる「グラミー賞」の最優秀オペラ・レコーディング賞に選ばれました。

おととし、松本市で行われた「サイトウ・キネン・オーケストラ」の演奏が小澤さんの公の場での最後の指揮となりました。

《国内外で追悼》

約30年間 音楽監督務めた米ボストン交響楽団 公演で追悼

小澤征爾さんが1973年から2002年まで、およそ30年間にわたって音楽監督を務めたボストン交響楽団では、9日午後の公演の冒頭に演奏と黙とうで小澤さんをしのびました。

オーケストラのバックには小澤さんが指揮をしている横顔の大きな写真が掲げられ、はじめに楽団のチャド・スミスCEOが「きょうはこのオーケストラを愛する人にとって、そして音楽を愛するすべての人にとってとてもつらい日だ。わたしたちは巨匠を失った」と述べて小澤さんに哀悼の意を示しました。

また「彼は教師でもあった。その教えは演奏者たちの中に生き続け、この神聖な空間の中で鳴り響き続ける」と述べ、後進の育成にも力を注いだ小澤さんの功績もたたえました。

このあと、小澤さんが生前、友人が亡くなったときに別れの曲として贈っていたというバッハの「G線上のアリア」が楽団員によって演奏され、そのまま静かに演奏の手をとめて黙とうをささげました。

また、ボストン交響楽団は、ホームページに追悼文を掲載し「伝説的な指揮者だっただけではなく、次世代の音楽家たちにとって情熱的な指導者でもあった」と功績をたたえました。

また、その人柄について「心優しく、思慮深く、指揮台ではバレエのような優美さと並外れた記憶力を持ち合わせた音楽の天才だった。ボストンの町と、スポーツチームを深く愛していた」と紹介し、「彼の遺産は私たちの記憶や、レコーディングを通して生き続ける」として、ボストンを愛し、市民にも愛された小澤さんに哀悼の意を表しました。

ボストン交響楽団スミスCEO「彼は先駆者だった」

9日、ボストン交響楽団のチャド・スミスCEOがNHKのインタビューに応じ、「けさ、亡くなったことを知りました。病気だったことは知っていましたが、思っていたより衝撃は大きく、世界が少し暗くなった気がします」と心境を語りました。

その上でボストン交響楽団がいまのような現代的な姿になったのは小澤さんのおかげだとして「彼が採用した音楽家、オーケストラの音やレパートリー、そして観客がこの空間で音楽を体験する方法に大きな影響を与えました」と功績をたたえました。

そして小澤さんのキャリアについても触れ「彼は先駆者だったと思います。彼はアジア出身の音楽家がプロとしてのキャリアを歩む道を開きました。初めてであることは大きな重荷だったと思いますが、彼がこの音楽の世界で頂点に立ったことは多くの人にインスピレーションを与えたと思います」と話していました。

ボストン交響楽団が拠点としている音楽ホールでは、建物についた楽団の頭文字の「BSO」という看板の「B」の字の電気を消して、「セイジ・オザワ」を意味する「SO」とすることで小澤さんへの哀悼の気持ちを示しています。

音楽ホールでは小澤さんの写真がロビーに掲げられ、コンサートのあと、花を手向ける人の姿も見られました。

コンサートを聞きに来た女性は「彼は黒いネクタイをせず、別の素敵な服を着て指揮をした初めての人でした。若くて、情熱的でした。彼が亡くなってとてもとても悲しい」と話していました。

また別の男性は「彼は本当に際立っていて、みんなに影響を与えた人物として記憶されるでしょう。彼が指揮する姿、表現や動きを見るだけで本当に面白かった。信じられないほど素晴らしかったよ」と話していました。

また、この音楽ホールのすぐ近くの駐車場にはオーケストラでの小澤さんの姿を大きく描いた壁画があり、写真を撮る人の姿も見られました。

写真を撮りに来ていた女性は「けさ小澤さんが亡くなったことを聞いて、地元の新聞に記事を書こうと思い写真を撮りに来ました。残念ながら、わたしはクラシック音楽にあまり詳しくありませんが、彼が音楽の世界でとても有名だったことは知っています」と話していました。

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団「偉大な指揮者のひとり」

小澤征爾さんが死去したことを受けて、小澤さんが指揮者をつとめたウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は、9日、追悼の声明を発表しました。

声明では、小澤征爾さんを「最も偉大な現代の指揮者のひとり」とたたえたうえで、「私たちは感謝と愛情を抱きながら、数々のコンサートやオペラなどでの公演、特に日本へのツアーを振り返っています」としています。

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 日本語で追悼コメント

小澤征爾さんが指揮者をつとめたドイツのベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は、9日、SNSに投稿し、指揮をする小澤さんの写真と共に「ベルリン・フィルはかけがえのない友人であり、当楽団の名誉団員でもある小澤征爾に心からの哀悼の意を表します」と日本語で追悼のコメントを投稿しました。

NYフィルハーモニック かつての写真投稿し功績たたえる

小澤さんがかつて副指揮者を務めたニューヨーク・フィルハーモニックは、9日、公式のインスタグラムで声明を発表しました。

この中で小澤さんについて、25歳の時、1961年にニューヨーク・フィルハーモニックでデビューして以降、何度も再演を果たしたとした上で、当時、音楽監督だったレナード・バーンスタイン氏などと一緒に写った写真を投稿しました。

そして「武満徹やキルヒナーによる世界初演となる作品やレナード・バーンスタインの作品などあわせて124回、コンサートで指揮した」として小澤さんの功績をたたえました。

その上で「ニューヨーク・フィルハーモニックは、この音楽界の巨匠と豊かな関係を築けたことを光栄に思う」として、哀悼の意を示しました。

指揮者 佐渡裕さん「ずっと背中追いかけてきた 感謝しかない」

小澤征爾さんに師事し、現在は小澤さんたちが設立した新日本フィルハーモニー交響楽団で、音楽監督を務めている指揮者の佐渡裕さんはNHKの電話取材に応じ、「小澤先生は子どものころから憧れていた1番の指揮者でした。いつかこんな日が来るとは思っていましたが、突然のことで大きなショックを受けています」と話しました。

ヨーロッパの指揮者が席けんしていたオーケストラの世界で、日本人の小澤さんが活躍できたことについて佐渡さんは「小澤先生の指揮はすごく正確で誰から見てもはっきりと見えます。精密機械のようなテクニックに加え、ものすごいパッションを持っていることが大きかったと思います」と小澤さんの技術と情熱を高く評価しました。

また、「日本人としてのバックグラウンドを持ちながら、音楽を共通語として世界で通用することを示したことが、僕ら日本人の後輩にとってものすごく励みになりました。日本だけでなく韓国や中国からも優秀な人が出てきている、そういう時代につながったと思います」と小澤さんの功績の大きさをたたえました。

そのうえで、「小澤先生の背中をずっと追いかけてきましたが、追いつかない存在でした。26歳のときにタングルウッド音楽祭のオーディションで選んでくれなかったら、僕は海外に出ていなかったかもしれません。ヨーロッパではうまくいく時もいかない時もありましたが、よく食事に誘ってもらいました。そんなとき音楽の話はほとんどしませんでしたが、『頑張れよ』と言われているように感じました。本当に感謝しかありません。ありがとうございました」と話していました。

詩人 谷川俊太郎さん「とても寂しい」

小澤征爾さんと交流があった詩人の谷川俊太郎さんは「小澤さんは、仕事をし始めた時期が重なり、同年代として親しみを持っていました。共通の知人を通じて何度か食事をともにし明るい人柄にひかれ、オーケストラは何度も聴きに行きました。同じ世代の芸術家が、次々といなくなりとても寂しいです」と話していました。

バイオリニスト 豊嶋泰嗣さん「魔法を持っていた」

デビュー当初から小澤征爾さんと何度も共演してきたバイオリニストの豊嶋泰嗣さんは、「ずっと闘病されていたのである程度覚悟していましたが、かなりショックはありますし、世界の宝でもあるので世界的に悲しい残念なことだと思います」と話していました。

去年の夏に会ったときのことについて、「小澤さんは手もほとんど動かない状態だったので、最初はゆっくりとした楽章だけやろうと思っていたけれど、演奏しているうちに小澤さんの手がだんだん上がってきたのに乗せられて3楽章も弾いてしまったのを今でも覚えています。純粋に音楽のことだけに打ち込む姿勢は昔からずっとそうだったと思いますし、われわれ演奏家も触発されて、一緒に音楽を作っていく喜びがすごくありました。一緒に演奏する時間は特別で、演奏者の能力を超えた部分まで引き出す魔法を持っていました」と振り返っていました。

そのうえで、「今では当たり前にみんな海外のオーケストラで演奏したり指揮したりしていますが、小澤さんは前例がないところをずっと歩んできていたパイオニアで、指揮者として小澤さんほど認められている人は世界を見渡しても一握りです。僕自身も、若い人を育てていく年齢になったので、小澤さんの遺志をついでいきたい」と話していました。

バイオリニスト 矢部達哉さん「努力欠かさない人」

およそ35年前から小澤征爾さんと共演を重ねてきたバイオリニストの矢部達哉さんはNHKの電話取材に対して「小澤さんとともに共演できた時間は幸せな時間で、今は喪失感でいっぱいです。日本の音楽家にとって誰もが憧れる存在で、道なき道を切り開き、歩き続けていた存在でした」と話していました。

また、小澤さんとツアーでまわった際、前日が夜遅くても小澤さんが次の朝4時ごろから楽譜を開いて練習する姿を何度も見たということで、「何百回も指揮をしている曲であっても、努力を惜しまず、最後の最後までいい指揮者になるための努力を欠かさない人でした。指揮台で動き始める瞬間に生まれる吸引力や磁場は、どの指揮者と比べても次元がちがい、魔法のような指揮でした」と話していました。

ジェイムス・テイラーさん「歴史に残る偉大な音楽家」

シンガーソングライターのジェイムス・テイラーさんは小澤征爾さんのコンサートに参加するなど、音楽のジャンルは違うものの親しい交流があった音楽家の1人で9日、ボストン交響楽団の公演が開かれた音楽ホールでNHKのインタビューに応じました。

家族ぐるみの付き合いをしていたというテイラーさんは、小澤さんがテニスやスキーなど、スポーツにも才能を発揮したというエピソードを紹介し「身体能力が高かったこともすばらしい指揮者であったことの1つの要素だったと思う。彼は全身を使ってオーケストラや観客に音楽を伝えていた」と話していました。

そして小澤さんとテイラーさんがジャンルを超えて交流してきたことに触れ「彼はクラシック音楽をよりグローバルなものに、つまり、世界中のすべての人々に、私のようなジャンルの違う人間に対してもずっとより開かれたものにした」と評価していました。

その上で「彼は歴史に残る偉大な音楽家、指揮者、音楽監督の一人として認められるでしょう。そしてクラシック音楽の境界を広げたという点でも評価されると思う」と話し、小澤さんをしのんでいました。

仏メディアも相次いで速報「クラシック音楽の魔術師」

このうち、フランスの有力紙「フィガロ」は「クラシック音楽の魔術師、小澤征爾が死去」と見出しをつけ、小澤さんの功績を詳しく伝える記事を電子版で掲載しました。

また、有力紙の「ルモンド」も、小澤さんが20代前半でフランス・ブザンソンの指揮者コンクールに出場し、優勝したエピソードなどを紹介し、「西洋で指揮者として初めて成功したアジア人だ」と伝えました。

このほか、「ラジオ・フランス」も電子版の記事を掲載し、「最も偉大な指揮者の1人であり、おそらくクラシック音楽の最後の生きた伝説だった」としています。

小澤さんは、フランスでも数多くの公演を行っていて、フランスで最も権威ある国家勲章である、レジオン・ドヌール勲章を、受章しています。

中国メディア「悲しいニュースが届いた」

小澤征爾さんが死去したことについて、中国メディアも相次いで速報で伝えました。

国営の中国中央テレビなどは、小澤さんが現在の中国東北部、瀋陽で生まれその後太平洋戦争が始まって日本に戻るまでの間、北京で暮らしていたことや、公演のために何度も中国を訪れたことを伝えています。

中国のSNS上では「私が最も愛する指揮者だった」とか「偉大な芸術家だった」という投稿が相次いでいます。また、10日に旧正月の春節を迎える中国では9日は大みそかにあたるため「大みそかの夜に最も悲しいニュースが届いた」という投稿も見られました。

長野 松本市民「ショックすぎてことばにならない」

松本市の50代の女性は、「ショックすぎてことばになりません。『音楽のまち松本』にしたのは、小澤征爾さんでした。世界中で愛された小澤さんの音楽がいつまでも残ってほしいです」と話していました。

また、60代の男性は、「松本市にとって身近な方だったので、ショックで驚きました。松本市を温かく見守りたくさん貢献してもらいました」と話していました。

音楽祭のボランティア「気さくで分け隔て無い」

小澤征爾さんが総監督を務める音楽祭で、数百人のボランティアをまとめてきた松本市の青山織人さんは、小澤さんについて「いつかは来ると思っていたが、失ったものは大きい。世界のオザワと言うけれど、気さくで分け隔て無く、ボランティアにも声をかけてくれていた。何十万人の子どもの音楽の世界にいい影響を与えてくれた。感謝しかないです」と話していました。

松本 市内3か所の音楽祭会場に献花台

長野県松本市では市内3か所の音楽祭の会場には献花台が設けられ、このうち、去年、小澤さんが姿を見せたホールには多くの人たちが訪れ、花を手向けたあと手を合わせ別れを惜しんでいました。

10年ほど前の音楽祭に、合唱で参加したという70代の女性は「小澤さんの指揮のもと、一流の音楽を経験できて夢のようでした。亡くなったと聞いてすごくさみしい思いです」と話していました。

大学生の頃に音楽祭を鑑賞したという40代の男性は、「元気に指揮をしている姿を見られなくなり残念です。子どもたちのための音楽活動を積極的にするなど人としても尊敬しています」と話していました。献花台は12日まで設置されるということです。

館長務めた水戸芸術館に献花台

小澤征爾さんは水戸芸術館が1990年に開館した当初から専属の室内管弦楽団の音楽顧問となり、コンサートホールでの定期演奏会で指揮者も務めました。

2013年には水戸芸術館の館長と室内管弦楽団の総監督に就任し、「水戸の人たちに芸術を身近に感じてほしい」という思いを口にしていました。

芸術館では10日定期的に開かれている無料のコンサートが開かれ、多くの人が訪れてパイプオルガンの音色に耳を傾けていました。

また献花台が設けられ訪れた人が手を合わせていました。

千葉県印西市から訪れた64歳の男性は「ニュースを知って、水戸芸術館に来ることにしました。車いすを使うようになっても指揮をするなど、亡くなるまで信念を貫いたのがかっこいいと感じます」と話していました。

水戸市の81歳の女性は「芸術館での演奏会は徹夜で並んでチケットを購入したこともあり演奏を聴いて夢心地でした。リハーサルの様子を見た時は、和気あいあいとしていました。長い間いい音楽を子どもたちにも届けてくれて、ありがとうございましたと伝えたいです」と涙ぐみながら悼んでいました。

水戸市の58歳の男性は「娘が小学生のころに小澤さんのセミナーに参加し、音楽の楽しさを感じたようでした。国際的に活躍された方が身近にいたことは水戸市民として誇りです。これからも芸術館に足を運びたいです」と話していました。

水戸室内管弦楽団 猶井正幸さん「若い世代に伝えたい」

水戸室内管弦楽団の楽団員代表で、「サイトウ・キネン・オーケストラ」の一員でもあるホルン奏者の猶井正幸さんがNHKのインタビューに応じ、「心に大きな穴が空いた気持ちですが、小澤さんの奏でる音はいまも残っているので、若い世代に伝えたい」と話しました。

ホルン奏者の猶井正幸さん(73)は小澤さんと40年来の親交があり、亡くなったとの知らせを受けて小澤さんの自宅を訪れ対面したということで「穏やかなお顔をされていた。涙が止まらなかったが、『あとは任せてください』と心の中で誓った」と話しました。

猶井さんは小澤さんが師事した音楽家の故・齋藤秀雄さんをしのんで特別に編成されたオーケストラ「サイトウ・キネン・オーケストラ」に小澤さんの誘いを受けて加わり、親交が始まりました。

指揮者と演奏者として向き合い、「アイコンタクトを大切にされ、目を合わせて互いに近づいていった。『こうしなさい』という指導ではなく『こうしてみたら』と提案をしてくれた」と振り返りました。

その後、水戸芸術館の開館とともに1990年に創設された専属楽団である「水戸室内管弦楽団」では、小澤さんが総監督、猶井さんは楽団員代表という立場で交流は続き、病状が進行しながらも指揮台に立つ晩年の小澤さんを支えました。

猶井さんは「小澤さんがつくったオーケストラの音はいまも仲間の中に残っている。それを若い世代に伝えたい」と決意を語りました。

よく訪れていた飲食店の店主「誰とでも仲よくなれる人」

小澤征爾さんは水戸芸術館の館長と、施設専属の水戸室内管弦楽団の総監督を務め、たびたび水戸市で演奏会に出演しました。

演奏会のあと、楽団のメンバーと一緒によく訪れていたという水戸市大町にある飲食店の店主、黒澤千里さんは「懐が深く、誰とでも仲よくなれる人でした。強いお酒が好きでした。オーケストラを聴きに行ったときは、メンバーが集中しているのがわかりましたが、店にいるときは小澤さんはメンバーを大切にしていて、皆でリラックスした様子でした。小澤さんが店に最後に訪れたのは8年ほど前で、少しやつれていたので心配していました。亡くなったと聞いてとても残念です」と話していました。

新日本フィルハーモニー交響楽団「G線上のアリア」で追悼 津

「新日本フィルハーモニー交響楽団」は1972年に小澤征爾さんらが設立した日本を代表するオーケストラで、10日津市で演奏会を開きました。

演奏会の冒頭では、小澤さんの訃報を受けた追悼の演目として、小澤さん自身も追悼の曲や別れの曲として演奏していたというバッハの「G線上のアリア」を特別に演奏しました。

そして演奏が終わるとそのまま、1分間黙とうをささげました。

会場には、およそ1800人が訪れ、バイオリンやチェロなどさまざまな楽器が奏でる美しいハーモニーに聞き入りながら小澤さんの死を悼んでいました。

訪れた60代の女性は「本当に立派な方で、もっと活躍する姿を見たかったです。これからも小澤さんの成果や偉業を引き継いでいってほしい」と話していました。

「新日本フィルハーモニー交響楽団」のコンサートマスターの西江辰郎さんは「小澤さんに影響を受けて音楽家を目指した人は多い。音楽にかける小澤さんの情熱や音に込められたメッセージはわれわれが演奏を通して受け継いでいる。今後の舞台でそれを伝えていくことで恩返しをしたい」と話していました。

岸田首相「日本が誇るレジェンド」

岸田総理大臣は、旧ツイッターの「X」に「小澤征爾さんのご逝去に哀悼の誠をささげます。世界に志を持ち、国境を越えて大きな感動を巻き起こした偉大な指揮者であり、日本が誇るレジェンドでした」と投稿しました。

東京 新宿でも死去を悼む声

このうち、神奈川県の28歳の女性は「世界的に有名で、日本の指揮者の中でも有名な方の1人だったと思うので、残念です。貴重な方を亡くしたと思います」と話していました。

都内の62歳の男性は、「ここまで海外で活躍した立派な方はいないので、すばらしい方が亡くなって残念です」と話していました。

また、都内の60歳の女性は、「かなりやせていたので心配していましたが、亡くなったと聞いてショックです。小澤さんが指揮する音楽は、はつらつとしていてメリハリがあり、好きでした。何枚かCDを持っていて、子どもが小さい時に子守歌で聞かせるなど、家族で親しんでいました」と話していました。

渋谷CDショップには追悼コーナー

訃報を受け、東京・渋谷にある「タワーレコード渋谷店」では、小澤さんが指揮したオーケストラの楽曲を収録したCDをまとめた追悼コーナーが設けられ、訪れたファンらが、CDを手に取って小澤さんをしのんでいました。

来店した70代の男性は、「小澤さんのはつらつとした音楽が大好きだったのですごく残念です。時代が変わってしまうのではないかと思います」と話していました。

また、40代の男性は「普段はあまりCDを買わないのですが、訃報を聞いて買いに来ました。偉大な音楽家だったのでさびしいです」と話していました。

タワーレコード渋谷店の森山慶方クラシック専任部長は「急きょ追悼コーナーを設けましたが、幅広い年代の方に楽しんでもらえるよう作品を揃えました。小澤さんの音楽を聴いたことがない人にも聴くきっかけになってほしい」と話していました。