実は校歌がない東京藝大~学生たちで再生した校歌がつなぐ思い

実は校歌がない東京藝大~学生たちで再生した校歌がつなぐ思い
東京藝術大学の有志の学生がよみがえらせた校歌。その音源を流したそのとき。

「緑かがやく上野の森~」
前身の東京美術学校の95歳になる卒業生がふいに歌い始めました。

戦争に動員されたときに同級生と歌っていた情景を思い出したというのです。

1人の学生の呼びかけで、90年の時を超えて校歌を再生させた取り組みを取材しました。
(社会部記者 児玉梨里)

※記事の最後で学生が再生した校歌の動画を見ることができます。

きっかけは授業の課題

東京藝術大学美術学部3年生 高田清花さん。

取り組みのきっかけになったのは、授業の課題でした。

大学の歴史について調べる中で、藝大には校歌が制定されていないのに、前身の「東京美術学校」には校歌があったことを知ったのです。

東京・上野にある東京藝術大学は前身の「東京美術学校」と「東京音楽学校」が合併する形で、昭和24年(1949年)に創立されました。

大学の図書館を訪れると、1冊の本に「東京美術学校」の校歌が残されていました。

前身のもう1校「東京音楽学校」出身で、「赤とんぼ」で知られる山田耕筰が昭和5年ごろに作曲したものでした。
校歌の歌詞を初めて読んだとき。

コロナ禍で入学式もなく、リモート授業ばかりで藝大生としての実感を持てずにいた高田さんは胸を打たれたといいます。
高田清花さん
「歌詞は『緑かがやく上野の森』から始まるんですが、この場所に本当に先輩方がいたんだという100年越しの気配を一気に感じて鳥肌が立ったのを覚えています。コロナ禍に入学してクラスメートの顔も知らないまま、パソコンとにらめっこしてキャンパスライフが終わっていく。そんなふうに思っていたときに先輩方の息づかいを楽譜から感じることができて心強さも感じました」

「私も歌いたい」募集したら80人も

高田さんはまず見つけたメロディー譜にパソコンでオーケストラの和音を付けました。

それを声楽科の5人に歌ってもらった作品を授業の課題として提出。

本来はそこで終わるはずでした。

ところが3か月後、たまたまハープ科の友人に校歌のことを話したところ「私も歌いたい」と言われ、それをきっかけに一緒に歌ってくれる人や演奏してくれる人を募集することになったのです。
「みんなで藝大の“校歌”として生まれ変わらせたい」SNSでメンバーを募ると、声楽科や作曲科の同級生など80人以上が賛同してくれました。
高田清花さん
「校歌に惹かれるのは私だけじゃないんだと気付きました。同期にはすばらしい演奏家もたくさんいるし、たとえ数人だけでも共感してくれればいいと思っていたんですが、想像以上に集まって焦りました。でもこれはやるしかないと決意して運営チームを立ち上げました」

直面した壁 歌詞の一部変更

課題になったのは、ある歌詞でした。
「東京美術学校」の校歌にあった「美術に生くる吾ら」という一節。

高田さんたちは藝大の校歌にするには、「藝術に生くる吾ら」と変更する必要があると考えたのです。

この作詞をしたのは、「東京美術学校」出身の詩人、川路柳虹でした。
高田さんは弁護士を通じて著作権の保護期間が過ぎていることは確認しましたが、念のため歌詞を変更する承諾を得ようと、川路の親族をさがすことに。

ただ川路を研究していた学芸員や、作品を扱った出版社の編集部などに問い合わせても見つからなかったため、諦めるしかないと思い始めていました。

ところがネット検索を続けていると、あるホームページを発見。

それは川路の親族が非公式に家系図を載せていたページでした。

当時について高田さんは「なすすべがこれ以上なくなってどうしようかと思っていたとき、たまたま開いたページに連絡先が載っていたのでメールを送ったら奇跡的に連絡が取れました」と振り返りました。

たどりついた親族

2か月ほどかかってようやく会えた親族は、川路のまたいとこにあたる帽子作家の香山まり子さんと息子の由人さんです。

今回の企画について説明し、「歌詞の一部を変更したい」と申し出ると快諾してくれました。
香山まり子さん
「人生って不思議ですね。柳虹さんだって後輩の学生さんが来て今こんな話をしているなんてびっくりしているでしょうね。こういう日が来るなんてまったく想像していませんでした」
香山由人さん
「すごく本気の活動だということがわかったので、柳虹さんも生きていれば『いいよ』って当然承諾しただろうと思います。ホームページを検索して自分たちを見つけ出す人がいるとは想定していなかったので、連絡が来たときには載せておいてよかったなと思いました」

コロナ禍 21回に分けて収録

「藝大校歌再生活動」と名付けた取り組みは、再生した校歌を自分たちで演奏して音源を収録し、SNSに掲載することで多くの人に知ってもらうことを目標にしていました。

当初、高田さんが見つけたのはメロディー譜のみで、伴奏の楽譜はありません。

そこで作曲科の学生が協力してくれ、「藝大らしい編曲にしたい」とオーケストラや和楽器も入れた独自の譜面づくりに取り組んだのです。
編曲を担当 矢野耕我さん
「藝大に校歌がないことは知っていて、だからこそ歴史に関わるめったにない機会でおもしろそうだなと思いました。音楽の流れをどんどん前に進めるような、自然に音楽が進んでいくような編曲を意識しました」
いよいよ音源の収録です。

しかし新型コロナがそれを難しくしました。

スタジオに入れる人数が制限されていたため、パートごとに21回に分けて収録し、合成する形で完成させなければなりませんでした。

校歌は2分程度ですが、オンライン授業で実家に帰っていた学生もいたためスケジュールの調整に時間がかかり、完成までには半年近くを要しました。

大先輩に聴いてもらうと…

いま高田さんたちは大学の協力を得て、再生した校歌を卒業生に知ってもらう活動を続けています。

この日、訪れたのは「東京美術学校」の卒業生で、国技館などを手がけた建築家の今里隆さん、95歳です。
収録した校歌を聴いてもらうと…。

「緑かがやく上野の森~」一緒に口ずさんでくれました。

終戦の年の昭和20年に入学した今里さんは、神奈川県藤沢市にあった「海軍電測学校」に動員され、同級生とともに若い兵士の教育用の絵を描いていたことを思い出したといいます。
建築家 今里隆さん
「いま歌うと懐かしいですね。歌っていると、当時何をやっていたのか思い出してくる。戦争中だったから学校に入っても授業がなくて『いつから始まるんですか』と聞きに行ったら、そのまま動員されました。美術学校はみんな絵が描けるから泊まり込みで初年兵教育用の漫画を描いて、同級生で集まると時々校歌を歌っていました。校歌をみんなで歌うと仲良くなれるんですよね」
高田清花さん
「音源を聴いてもらったら今里さんが『これは懐かしい』と当時を思い出していろいろと話してくれ、半世紀以上の先輩後輩のつながりがこの校歌によって再生されたことに本当に感動しました。大先輩と話せる機会はめったにないですし、この校歌と出会ったことからすべてが始まって縁をつなげてくれたと感謝しています」

卒業生と思いをつなぐ歌として

90年の時を超えて生まれ変わった校歌。

活動するメンバーは増え、今では100人規模になっています。
SNSやラジオ配信を通じて、再生の経緯や卒業生との交流などを発信し、ことし3月には大学内のホールで公演を行う予定です。

高田さんはこの校歌を卒業生と思いをつなぐ歌として残していきたいと願っています。
高田清花さん
「この校歌は先輩と後輩がつながることができる、時空を超える藝大生のつながりという点で心のよりどころになっていく歌だと思います。今回の活動は演奏して終わりではなく、藝大が日本そして世界でどういう役割を担ってきたのかを考える機会にできたらと思っていて、アーカイブ化まで力を入れて後輩たちに残していきたいです」

藝大校歌再生活動の校歌(動画で)

<藝大校歌再生活動の校歌>
作詞(原作):川路柳虹
作詞(一部変更):高田清花
作曲:山田耕筰
編曲:矢野耕我

緑かゞやく上野の森、
燃えたり、若き、わかき希望、
藝術に生くる吾ら。

高き理想、
深き技術、
はげめよ永久に、努めよ永久に。

歴史に誇る不朽の名、
巨匠の揺籃こゝにこそ見よ。

取材後記

今回の取材を通して、先人が残した校歌が高田さんの心に火をともし、学生たちにも広がっていったのだと感じました。

高田さんと出会うまで「校歌はあって当たり前」と思っていて、校歌の歌詞に込められた意味まで知ろうとしたことはありませんでした。

校歌の最後にある歌詞「巨匠の揺籃こゝにこそ見よ」。
“揺籃”とは物事が発展する初期段階のことで、将来巨匠になっていく才能豊かな若者たちのことをこう表現したのだと思います。

校歌に込められた思い、そして「校歌を聴くと当時のことを思い出す」ということばから、その愛着は何年たっても変わるものではないということを改めて考えさせられました。

残念ながら東京藝術大学の正式な校歌には制定されませんが、3月に開かれる公演でたくさんの在校生や卒業生の心に響く演奏をしてほしいと願っています。

(11月30日「おはよう日本」で放送)
社会部記者
児玉梨里
2023年入局
学生時代はバンドサークルで昭和歌謡や海外のロックを演奏