旧日本軍「幻の攻撃機」風防ガラスとみられる部品発見か 群馬

太平洋戦争の末期にかけて群馬県内で開発が進められた旧日本軍の「連山」という攻撃機は、戦局の悪化などから試作機4機にとどまり、「幻の攻撃機」とも言われています。この「連山」の操縦席などを覆う風防ガラスとみられる部品が群馬県内で見つかり、専門家は、非常に貴重な資料だと指摘しています。

「連山」は、旧日本海軍の命で太平洋戦争中の昭和18年ごろから20年にかけて、群馬県の製造工場で開発が進められましたが、戦局の悪化や資材の不足から実際に製造されたのは4機の試作機のみにとどまり、「幻の攻撃機」や「幻の翼」とも言われています。

この製造工場に勤務していた男性の親族から「風防ガラスだと思われるガラスを持っている」という情報がNHKに寄せられ、親族の意向も踏まえて戦前の航空機の機体に詳しい中村泰三さんが分析しました。

保管されていたガラスは合わせて38枚あり、1枚の大きさは最も大きいもので横が65センチ、縦が40センチほどあります。

中村さんは、このガラスを企業の協力を得て3Dスキャンして映像化したうえで、残されていた図面や映像、それにアメリカ軍が撮影した写真と照合したところ大きさが合致し、「『連山』の風防ガラスである可能性が極めて高い」と結論づけました。

中村さんは「『連山』のものとみられる部品が見つかったのは国内で初めてではないか」としたうえで、「まさに“幻”と言える存在の部品の発見は大変、意義がある。当時の開発のいきさつや製造技術が分かることにつながる非常に貴重な資料だ」と話しています。

ガラスの一部は、保管していた親族の意向から今後、群馬県立歴史博物館などに寄贈される予定だということです。

専門家の分析では

連山の風防ガラスとみられる部品の分析を行った中村泰三さん(55)は元陸上自衛官で、これまで20年余りにわたり各地の博物館などと戦前の航空機の修復作業や調査活動を行っています。

今回の分析の結果、保管されていた38枚のガラスは全部で7種類あり、連山の機体の一番先にあった「爆撃席」を覆う3種類の20枚、機体上部の「操縦席」を覆う3種類の15枚、そして、機体側面を覆う1種類の3枚とみられると、結論づけました。

また、ガラスにある「枠」に塗料などが付着していないことから、機体に装着する前のものだとみられるとしています。

中村さんによりますと「連山」の機体は現存せず、これまで、国内で部品は見つかっていないということです。

中村さんは「近代化遺産としても航空遺産としても大きな価値がある」とした上で「戦後80年近くがたち、日本での戦争の記憶が忘れ去られていく中での非常に貴重な資料だ」と話しています。

また、中村さんから連絡を受けた東京文化財研究所は今後、ガラスの元素を分析して旧日本軍のほかの戦闘機との比較を行うなど、調査や研究を進めるということです。

「幻の攻撃機」や「幻の翼」連山とは

「幻の攻撃機」や「幻の翼」とも言われる連山。

映像が残されています。

この映像を撮影していたのは、群馬県にあった製造工場に勤務していた男性です。

6分半近い長さの白黒の映像は「幻の翼といわれた海軍重爆撃機『連山』の全容」などという文字が映されたところから始まります。

次に「連山進空式」という文字や、昭和19年12月25日、小泉飛行場で撮影と映されています。

式典では、機体の前で神事が行われたあと、旧日本軍とみられる人たちなど多くの人が参加する中で、機体が離陸して上空を飛び着陸するまでの様子が鮮明に記録されていました。

また、47年前に連山を特集した専門の雑誌には元技術者という人などが寄稿していて「『連山』は技師をはじめ官民を問わず、極めて多くの人々の汗の結晶であった」とか、「幻の機として終戦を迎えた」などと書かれていて、戦局が悪化する中でも旧日本海軍が連山の開発に力を入れていたことがうかがえます。

また、連山を開発していたのは「中島飛行機」で、日本航空協会が発行した「日本航空史」によりますと、太平洋戦争中に生産された日本の旧陸軍・海軍の機体のおよそ30%を生産していたということです。