日本とマーシャル諸島の生徒が交流会「ビキニ事件」から70年

70年前にアメリカが太平洋のマーシャル諸島のビキニ環礁で行った水爆実験で、日本の漁船「第五福竜丸」の乗組員などが被ばくした、いわゆる「ビキニ事件」について、日本とマーシャル諸島の生徒がお互いの被ばくの歴史を学ぶ交流会が開かれました。

交流会は神奈川県横浜市の神奈川学園が、2020年から交流を続けているマーシャル諸島の学校と開いたもので、17日、両校をオンラインで結び、中学生と高校生のあわせておよそ40人が参加しました。

神奈川学園の生徒たちは記録や写真などをデジタル上の地図にまとめた「デジタルアーカイブ」を使って、当時、神奈川県の三崎港を出港したマグロ漁船が被ばくし、元乗組員や海産物に被害が及んだことや、「第五福竜丸」の乗組員だった大石又七さんが毎年、学校で講演を行うなど、交流を続けてきたことなどを英語で説明しました。

説明を聞いたマーシャルの生徒からは「被ばくによって元乗組員にはどのような症状が見られたのか」などの質問が寄せられていました。

交流会は来月も開かれ、マーシャルの生徒から現地の被ばくの歴史を学ぶ予定だということです。

参加した中学3年の大久保彩菜さんは「マーシャルのことを知ることができるだけでなく、自分が住む地域の被ばくの歴史を学ぶきっかけとしてもいい機会となりました」と話していました。

「ビキニ事件」から70年 救済と継承は

アメリカが太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験で日本の漁船「第五福竜丸」の乗組員などが被ばくした、いわゆる「ビキニ事件」からことしで70年ですが、被害の救済を求める訴えが今も続いている一方、被ばくの歴史をどう伝えていくのかが課題となっています。

1954年3月、南太平洋で操業中だった静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」は、アメリカがマーシャル諸島のビキニ環礁で行った水爆実験で、放射性物質を含んだいわゆる「死の灰」を浴びて乗組員23人が被ばくし、半年後に1人が亡くなりました。

当時、周辺海域で創業していたとされる延べ1000隻近くの日本の漁船について、国は乗組員の放射線量の記録は残っていないとしていましたが、2014年に第五福竜丸を含む漁船の記録が開示され、乗組員の一部から通常よりも高い放射線量が検出されていたことが明らかになりました。

これを受けて、元乗組員やその遺族が日本政府などに対して被害の救済を求める訴えを起こし、現在も2つの裁判の審理が続いています。

一方、当時を知る人が少なくなる中、被ばくの歴史を伝えるための模索が進められていて、東京 江東区の第五福竜丸展示館では、被ばくした船体のほか、船の備品や元乗組員の日用品などを展示し、実物の資料を通じて被ばくの実相を伝えています。

さらに、気候変動など現代の問題と関連づけた企画展や、子ども向けの催しなどを開催し、近年は若い世代の来館者が増えているということです。

第五福竜丸展示館の市田真理学芸員は「被ばくを経験した船があり、乗組員が残してくれた資料もあるので、それを活用することで、これからも被ばくの歴史を伝え、決して過去の問題ではないことを知ってもらいたい」と話していました。