「あなたの名前を刻みたい」遺族が大切な人の名前を刻む理由

「あなたの名前を刻みたい」遺族が大切な人の名前を刻む理由
2年前、私が大阪局に赴任してまもなく、目を奪われたニュースがあった。

阪神・淡路大震災から30年近くたつというのに、毎年亡くなった人の名前が刻まれ続けているモニュメントがあるというのだ。

そこで目にしたのは、亡くなった家族の名前を前に嗚咽(おえつ)を漏らし、涙を流す遺族たちの姿だった。

大切な人の名前を刻んできた理由を知りたいと思った。
(大阪放送局 ディレクター 加藤弘斗)

泣いていいと思える場所

1月17日、午前5時。

厳しい寒さの中、神戸市の東遊園地にある「慰霊と復興のモニュメント」には、毎年長蛇の列ができる。
震災で命を落とした家族の名前を前に、遺族たちはそれぞれの形で祈りをささげる。

名前に手を触れる人。

長い時間、何かを語りかけている人。

名前を見上げながら、じっとその場にとどまっている人…
震災から30年近い歳月がたっていても、遺族たちの感情があふれ出す姿を目の当たりにし、今なお抱え続ける深い思いがあることに改めて気付かされた。

毎年、地震が起こった午前5時46分に必ずこの場所を訪れているという人に話を聴くことができた。

山下准史さん(62)。

モニュメントには、父親の金宏さんと母親の芙美子さんの名前が刻まれていた。
山下准史さん
「1月17日に来る人は、きっと大切な人が亡くなっている人。モニュメントで誰かが泣いているのを見ると、自分と同じような体験をしているんだと思える。一年に一度、泣いてもいいと思える空間なんです」

父の後を追って亡くなった母

29年前の1月17日、国内で史上初めて「震度7」を記録した大地震が発生した。

神戸市内にあった金宏さんと芙美子さんの自宅は1階部分が押しつぶされ、そこで寝ていた金宏さんは、落ちてきた天井の下敷きになった。
隣で寝ていた芙美子さんは、わずかにできた隙間で救助を待っていた時、「もうだめだ」という金宏さんの絞り出すような声を聞いていた。
地震発生からおよそ5時間、金宏さんは近所の人に救い出されたが、山下さんが駆けつけた時には既に息はなく、芙美子さんは、その場で泣き崩れていた。

山下さんは、芙美子さんと遺体安置所に向かい、その日は夜まで金宏さんの亡骸(なきがら)とともに過ごした。

芙美子さんは「お父さんをひとりで置いてかれん」と語り、その後も火葬されるまでの時間、何度も金宏さんのもとを訪れていた。
小学校の教員だった山下さんは、震災の数日後から避難所になった勤務先の学校で働き詰めになった。

泊まり込む日もあるほど多忙を極めたが、それでも週末には芙美子さんの様子を見に会いに行った。

しかし、芙美子さんが震災以前のような元気な様子を見せることはなかった。
6月18日。

山下さんのもとに警察から連絡が入った。

「身元不明の遺体があるから立ち会ってもらえないか」

そう聞いて思い浮かんだのは「母が自ら命を絶ったのではないか」という最悪の事態だった。

山下さんがそう思うのにはわけがあった。

震災で金宏さんを失って以来、芙美子さんが何度かつぶやくように漏らしていた言葉を耳にしていた。

「お父さんと一緒に逝きたかった」

山下さんの予感は現実のものとなる。

芙美子さんは亡くなった。

震災から5か月がたっていた。

母に寄り添うことができなかった

山下さんには、芙美子さんの死後、ずっと心に引っ掛かってきたことがあった。

「お父さんと一緒に逝きたかった」

そう漏らす芙美子さんに対し、ある言葉をかけていた。
山下准史さん
「励ますつもりで、『せっかく生き残ったんだから、死んだらあかん』と言ってしまった。だけど、今思うと寄り添った言葉をかけてあげればよかったと思うんです」
長年、自宅で繊維業を営んできた金宏さんと芙美子さん。

買い物にはいつもふたりで出かけるほど仲が良く、仕事も家庭も二人三脚で歩んできた。

金宏さんを失った時、60歳を前にしていた芙美子さんの喪失感はどれほどだったのか。
震災から9年後、家族から芙美子さんの名前をモニュメントに刻むことができると聞いた山下さんは、迷わず申し込んだ。
山下准史さん
「父親と一緒に逝きたかったと言っていた母の名前を、同じ空間に残してあげたかったんです。自分は、母親も震災で亡くなったと思っています」

誰でも名前を刻める場所に

モニュメントには、芙美子さんのように「震災による死」であることを行政から認められていなくても、震災の影響を受けて命を落としたと感じてきた遺族たちの思いに寄り添い、名前を刻むことができるスペースがある。
震災から5年がたった2000年に神戸市によって設立されたモニュメントには、当初、震災によって神戸市内で亡くなった人と、市外で亡くなった神戸市民の名前が刻まれていた。

しかし、設立から3年、当初の趣旨にとどまらず、大切な人が震災によって亡くなったと感じてきた遺族や神戸市以外の犠牲者の名前も刻めるようになった。

遺族を分け隔てることなく名前を刻めるようにできないかと神戸市に働きかけたのが、NPO法人「阪神淡路大震災1.17希望の灯り」で、当時代表を務めていた堀内正美さんだ。
震災後、神戸市やNPOのもとには、遺族から「名前を刻んでほしい」という問い合わせが数多く寄せられるようになっていた。

神戸市には、名前を刻むことで震災による死、いわゆる「災害関連死」であることを行政が認定したと受け止められかねないとして、震災との因果関係がわからない人の名前をモニュメントに刻むことには慎重にならざるをえない事情があった。

そこで、堀内さんら市民たちが主体となってモニュメントを管理することで、震災が遠因であっても名前を刻める体制を整えたのだ。
NPO法人阪神淡路大震災1.17希望の灯り 元代表 堀内正美さん
「名前を刻むことで家族の心が癒やされ、震災を語り継いでいくきっかけになるなら、対象を限定する必要はないと思ってきました。『地震がなかったらもっと生きられたはずだ』と遺族は思っているのに、誰にも共感してもらえず、死を震災のせいにできない状況が続いていました。しかし『震災の影響』になれば、多くの人と悲しみを共有できる場になると思ったのです」

行き場のない思いを受け止めてくる場所

震災から9年後に、母・芙美子さんの名前を刻んだ山下准史さんは、これまで、芙美子さんが自ら命を絶ったことをほとんど語ることができずにきました。
山下准史さん
「教員として、『命を大切にしなさい』と子どもたちに言っておきながら、自分の親のことは大切にできず、一番大切な人に寄り添うことができなかった。死にたいという気持ちに、もっと敏感になってあげたらよかった。子どもたちには薄っぺらいことを言ってしまったと思っています」
周囲に打ち明けられない複雑な思いを抱えながら、山下さんは毎年、地震が起きた午前5時46分に、母・芙美子さんと父・金宏さんの名前が刻まれているモニュメントを訪れる。
ずっと抱いてきた後悔と向き合い、芙美子さんに声をかけてもらうために。
山下准史さん
「何もできなかった自分が、父親と同じ場所に母の名前を刻んだことで、自分が少しでもやるべきことをやったって思いたいのかもしれません。名前を刻んだのは、自分を納得させるためだと思います。母親が『気にせんでええよ。もうええで』と言ってくれているような気がします」
山下さんは、芙美子さんと金宏さんに祈りをささげると、いまも自然と涙があふれてくる。

そして、モニュメントを後にする時、いつも決まって不思議な感覚に包まれるという。

「毎回あの場所を訪れると、涙が出てくると同時に穏やかな気持ちにもなるんです」

1月17日。

「また来年来るわ」そう語りかけ、山下さんは日常へと戻っていく。
NHKスペシャル『あなたの名前を刻みたい 阪神・淡路大震災遺族の29年』で放送

銘板に関する問い合わせ先
NPO法人 阪神淡路大震災1.17希望の灯り
050-3590-0117

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大阪放送局 ディレクター
加藤弘斗
2012年入局
認知症、震災などをテーマに取材。
1月17日放送のNHKスペシャル「あなたの名前を刻みたい」の制作を担当。